集団的自衛権の行使を認めた安保関連法は憲法に反するとして、市民ら約500人が東京地裁に訴えをおこした。今後も各地で提訴が予定されている。

 裁判所は、正面からこの問いに答えてもらいたい。各地での判決を積み重ねたうえで、憲法の番人である最高裁が最終判断を示す。その司法の責務をまっとうしてほしい。

 昨年の安保法制の国会審議を思い起こしたい。

 多くの憲法学者や元最高裁判事らが、「違憲である」「立憲主義の否定だ」と声をあげた。過去の政府答弁と明らかに食い違う憲法解釈の説明に、疑問を感じる国民も多かった。

 しかし政府与党は「違憲かどうか最後に判断するのは最高裁だ」「100の学説より一つの最高裁判決だ」と反論し、数の力で法を成立させた。

 耳を貸す相手は最高裁でしかないという政権の姿勢を、そのまま司法への敬意の表れと受け取るわけにはいかない。

 そもそも安倍政権は政府内の「法の番人」だった内閣法制局への人事措置により、チェック機能をそいだ。立法府である国会も数の論理が支配した。

 三権分立の一翼を担う司法の役割が、いまほど重く問われているときはない。

 原告側は、平和に生きる権利を侵されたとして、賠償などを求めている。憲法改正手続きを経ずに9条を実質的に変えられてしまい、国民の「憲法改正・決定権」が侵害されたと訴えている。

 これまでの判例を振り返れば原告側のハードルは高い。

 日本の裁判では、具体的な争いがなければ、法律が合憲か違憲かを判断できないとされる。抽象的に安保法の廃止などを求めた別の訴訟は「審査の対象にならない」と門前払いされた。

 審査に入ったとしても、憲法判断は訴えの解決に必要な場合以外は行わないという考えが、司法関係者の間では一般的だ。

 今回も裁判所がその考え方に立てば、賠償の求めを退けるだけで、憲法判断は避ける方向に傾くこともありえる。

 原告には自衛隊員の親族や、基地周辺の住民らも名を連ねている。裁判というテーブルに議論を載せるためにも、具体的な主張をめざしてほしい。

 訴えの根本にあるのは、立憲主義を軽んじる政治のあり方に対する深刻な危機感である。

 憲法をめぐる真剣な問いを、裁判所は矮小(わいしょう)化することなく、真摯(しんし)に受け止めるべきだ。国の統治機構への信頼をこれ以上損なってはならない。