レヴェナント: 蘇えりし者The Revenant/監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/2015年/アメリカ
最後に見た、風景は。
TOHOシネマズ新宿 スクリーン10 F-18で鑑賞。IMAX。伝記映画だそうだが、内容から判断してカテゴリは「アクション、アドベンチャー」にしています。原作未読。
あらすじ:息子を殺したヤツを追いかけます。
ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)はクマに襲われて満身創痍になりながら、息子(フォレスト・グッドラック)を殺したフィッツジェラルド(トム・ハーディ)を追いかけます。
※ネタバレしています。
- おすすめ
ポイント - 体中痛い!レオナルド・ディカプリオがクマみたいになっていました。
美しいと思った。銃を持っているにも関わらず、なすすべもなく殺されていく人々の姿を。彩度の低い画面から立ちのぼる、最期の息づかいを。殺されるのに理由などない。奪う者と奪われる者がいるだけだ。
クマは子を守る。レオナルド・ディカプリオはクマに襲われた後、まるでクマのようになっていた。わたしの目にはそう見えた。地面を這いつくばり口に入れられるものなら何でも食べる。生きることは手段であり目的は復讐にある。その目的があるからこそ彼は生き延びられた。息子の名でなくフィッツジェラルドの名を繰り返していた。憎しみは愛に勝るのか、いや、憎しみと愛が表裏一体となってそこにあっただけだ。息子の命を奪ったものがヒトでなければ、彼は息子の亡骸とともに朽ち果てたかもしれない。
「一度は死んだ」と彼は言う。それはクマに襲われたことでも生き埋めにされかけたことでもなく、息子が殺されたことにほかならない。襲撃で殺されるのと大きく意味が異なる。息子は自分のせいで殺されたも同然だからだ。
なぜフィッツジェラルドはアンドリューの頭の皮を剥いだのか。状況から見て死後であることは間違いない。フィッツジェラルドは自分を罠師と言っていた。グラスを罠にかけるためか。いや、あのようなことをしたら、グラスが激昂することなど想像できる。これ以上グラスを怒らせる必要などないはずだ。
思うに、これは観客に向けてのものではないだろうか。フィッツジェラルドはテキサスに行くと言っていた。彼にも人生がある。息子を殺したことについても、あの状況では仕方がなかったとも思える。観客がフィッツジェラルドに感情移入しないよう、彼が野蛮な人物であることを、ことさらに強調するためだったのではないか。
話は前後するが、何度も「レオが死んでしまう」と思った。死んでしまう、映画が終わってしまう。苛酷さを増す状況と「腐っていく身体」。死んでしまう。ようやく、グラスは大丈夫なのだろうな、と思えたのは、馬に身を寄せた、いや、正確には馬の中に入ったときであった。一晩経って体内から出てきたときには、馬から産まれたと思った(2文字は駄洒落扱いにはならない)。グロテスクであり神秘性も感じるシーンだ。
ラスト、ディカプリオはカメラをまっすぐ見据える。実際には違うのだろうが、わたしは「第四の壁を破った」と感じた。意図された演出なのかはわからない。他に意味があるのかもしれない。しかしわたしには、そう見えた。見えたのだから、仕方がない。
俺は、この「生」を生きている。お前は、どうだ。そう語りかけてくるような瞳を、美しいと、思った。
クマは子を守る。レオナルド・ディカプリオはクマに襲われた後、まるでクマのようになっていた。わたしの目にはそう見えた。地面を這いつくばり口に入れられるものなら何でも食べる。生きることは手段であり目的は復讐にある。その目的があるからこそ彼は生き延びられた。息子の名でなくフィッツジェラルドの名を繰り返していた。憎しみは愛に勝るのか、いや、憎しみと愛が表裏一体となってそこにあっただけだ。息子の命を奪ったものがヒトでなければ、彼は息子の亡骸とともに朽ち果てたかもしれない。
「一度は死んだ」と彼は言う。それはクマに襲われたことでも生き埋めにされかけたことでもなく、息子が殺されたことにほかならない。襲撃で殺されるのと大きく意味が異なる。息子は自分のせいで殺されたも同然だからだ。
なぜフィッツジェラルドはアンドリューの頭の皮を剥いだのか。状況から見て死後であることは間違いない。フィッツジェラルドは自分を罠師と言っていた。グラスを罠にかけるためか。いや、あのようなことをしたら、グラスが激昂することなど想像できる。これ以上グラスを怒らせる必要などないはずだ。
思うに、これは観客に向けてのものではないだろうか。フィッツジェラルドはテキサスに行くと言っていた。彼にも人生がある。息子を殺したことについても、あの状況では仕方がなかったとも思える。観客がフィッツジェラルドに感情移入しないよう、彼が野蛮な人物であることを、ことさらに強調するためだったのではないか。
話は前後するが、何度も「レオが死んでしまう」と思った。死んでしまう、映画が終わってしまう。苛酷さを増す状況と「腐っていく身体」。死んでしまう。ようやく、グラスは大丈夫なのだろうな、と思えたのは、馬に身を寄せた、いや、正確には馬の中に入ったときであった。一晩経って体内から出てきたときには、馬から産まれたと思った(2文字は駄洒落扱いにはならない)。グロテスクであり神秘性も感じるシーンだ。
ラスト、ディカプリオはカメラをまっすぐ見据える。実際には違うのだろうが、わたしは「第四の壁を破った」と感じた。意図された演出なのかはわからない。他に意味があるのかもしれない。しかしわたしには、そう見えた。見えたのだから、仕方がない。
俺は、この「生」を生きている。お前は、どうだ。そう語りかけてくるような瞳を、美しいと、思った。
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