1. まとめトップ

チェルノブイリ原発事故から30年

1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故から30年になります。以下は、私がTwitterにログインした状態での検索結果からの抜粋です。(「こんなのがあった、こんなのを見た」という記録の目的であり、「よいと思ったもの」を「まとめ」ているのではありません。また、論評は加えません。)

更新日: 2016年04月26日

nofrillsさん

  • このまとめをはてなブックマークに追加
0 お気に入り 825 view
お気に入り追加

※前置き

それが起きたのは金曜日の夜から土曜日にかけてのことです。朝、だれもなにひとつ疑ってみませんでした。私は息子を学校におくりだし、夫は床屋に行きました。昼食のしたくをします。まもなく夫が帰ってきて「原発が火事らしい。ラジオを消すなという命令だ」という。いい忘れましたが、私たちはプリピャチ市に住んでいました。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、167ページ

※出典、『チェルノブイリの祈り』の原著は1996年に新聞連載が開始され、1997年に書籍出版された。日本では1998年翻訳刊行、2011年文庫化。

1991年8月に独立するまでは「ソヴィエト連邦」の一部だったウクライナの最も北側、ベラルーシ(旧ソ連、1990年7月に独立宣言)との国境に近い都市、チェルノブイリ (Chernobyl) の近郊であるプリピャチ (Pripyat’)。

ここにあった原子力発電所が世界的に「子供でも知ってる名前」になったのは、1986年4月下旬の大事故がきっかけでした。

チェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。

後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類

チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(俗にいう「メルトダウン」)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染

当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかった

※そのことも、今回語られてます。

しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚。

※これも、今回語られてます。

この事故は当初、国内外問わず秘匿されていた。原発事故の発生に最初に気づいたのはスウェーデンで、4月27日にチェルノブイリ原発からおよそ1,100kmにあるスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の労働者の衣服に放射性物質が付着していることが判明したのがきっかけだった。当初はフォルスマルク原発域内の事故かと騒動になったが、フィンランド政府からも同様の事例があったとスウェーデン政府が通報を受け詳細に当時の気象や風向きなどから発生源の特定調査を行った結果、西ソ連ベラルーシ付近で大きな原子力災害が起こっている疑いが強まり、これを追求されたソ連政府は自国で原発事故が発生したことを公表するに至った。

わっはっは。「ふもとじゃトラクター畑仕事、山の上には原子炉だ。スウェーデン人がしゃべらなきゃ、おれたちゃいまだに知らなかったさ」。わっはっは。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、111ページ

▼死者数・住民の避難

ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。

そしてその後、プリピャチが無人化し、チェルノブイリもほぼ無人化した(どうしても離れたくないという高齢者が残っている)ことで「ゴーストタウン」の視覚情報が世界中に広まり、いろいろ短絡して、「爆発事故で住民全員が死んだ」と思い込んでる人も、無視できない程度にはいます。

(事故発生後)原子炉に水を送り込もうと作業を続けた(操作員の班長)アキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。

事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は5時までには消火したが、その間に多くの消防士が高い放射線量にさらされた。事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相が4月26日夜チェルノブイリに到着したが、その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。

大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込んだ。(陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者 (liquidator) 」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。というより、このような稼働中の原子炉が爆発し破壊される事態など想定されていなかったし、そもそもこれほどの高線量に対応した「地球の地表で活動するための」放射線防護具など、(現在に至るまで世界のどこにも)存在していなかった。

※「解体作業者 (liquidator) 」への補償についても、イスラエルのハアレツが記事を出しています。後述。

即入院した203人のうち死亡したのは31人で、28人が急性放射線障害だった。彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の隊員だったが、彼らには煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかは知らされていなかった。

プリピャチの近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。

住民はあわててなにもかも残したままでていったんだ。だってそうだったろ? 「三日間」という命令だったんだから。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、109ページ

2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが、「事故から10年目」の1996年に新聞連載開始、1997年に書籍として出版した『チェルノブイリの祈り』(日本語訳は1998年岩波書店。2011年に岩波現代文庫)。

文庫版訳者あとがきによると、"アレクシエービッチは長い年月をかけて「自分の頭でじっくりものを考えている」人々をさがしてはインタビューし、彼らが体験したこと、見たこと、考えたこと、感じたことを詳細に聞きだした"。(p. 302)

あなたのためにすっかり思い出しますよ。くる日もくる日も、頭上すれすれのところを飛行機がしきりに飛んでおった。発電所の原子炉にむかってつぎからつぎへと。そして私らの村は疎開。移住ですよ。家に押しかけてくるんだよ。村の衆は鍵をかけて家に閉じこもった。かくれたんです。家畜は騒ぐ、子どもらは泣く、戦争だよ! でもおひさまが照ってた。私はすわり込んで、家から出なかった。鍵はかけなかった。兵士たちが戸をどんどんたたく。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、41ページ

つまり、こういうことなんだ。おれは地区執行委員会によびだされ「いいか、会長さんよ、汚染地にイヌやらネコやら住民が飼っていた動物がたくさん残っている。伝染病がはびこらないようにこいつらを殺さにゃならん。やってくれ」といわれたんだ。翌日おれは猟師を全員集めて事情を話した。だれも行くといわなかった。なにひとつ防護用具が支給されないんだからな。おれは民間防衛部に行ってみたが、あそこにもなにもない。防毒マスクひとつなかった。しかたなくセメント工場に行って、そこでマスクを借りたよ。セメントのほこりを防ぐ薄っぺらのやつを。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、108ページ

おれたちは汚染地を二ヶ月間車でまわった。一日目におれたちが行ってみると、イヌは自分の家のまわりを走りながら、番をしている。人間を待っている。おれたちを見ると喜んで人の声めがけて走ってくる。家のなかや、納屋、畑で撃った。道路に引きずりだし、ダンプカーに積みあげる。そりゃあ、気持ちのいいもんじゃないよ。やつら、どうして殺されるのかわからなかっただろう。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、109ページ

モギリョフに移住して息子は学校に入りましたが、一日目に泣きながらとんで帰ってきました。息子はある女の子のとなりの席になったのですが、その子がいやがったのです。息子が放射線をだしているから、となりにすわると死ぬとでもいわんばかりに。息子は四年生でしたが、チェルノブイリの被災者はクラスに彼ひとりでした。同級生はみな息子をこわがり、〈ほたる〉とあだ名をつけたのです。私は愕然としました。こんなにも早く息子の子ども時代が終わってしまうなんて。

出典スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著、松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』(2011年、岩波現代文庫)、169-170ページ

▼今年の「世界報道写真」で受賞した小原一真さんの作品

Kazuma Obara - 2016 Photo Contest | World Press Photo worldpressphoto.org/collection/pho… 世界報道写真「ピープル」部門、連作1位。小原さんおめでとうございます。 @kazumaobara 光が必ずしも明るくない世界

※以下、本編

Pleased to be @PGPImages photo exhibition on #Chernobyl @UN tonight w/ #Belarus Foreign Affrs Minister @BelarusUNNY pic.twitter.com/IH2kbQMQX1

UNDP(国連開発計画)のアドミニストレーター、ヘレン・クラークさん(元ニュージーランド首相)。ベラルーシ外務大臣とともに、国連本部(米ニューヨーク)での写真展でスピーチ。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10




作った「まとめ」の一覧は:
http://matome.naver.jp/odai/2133787881446274501

※基本的に、ログを取ってるのであって、「まとめている」のではありません。



  • 話題の動画をまとめよう