『アインシュタインよりディアナ・アグロン』の歌詞が「女性蔑視」と騒がれてる件。当ブログでも前に書いたけど。
http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/52030409.html
あれから動きがあった。
リテラというネット紙(?)があの曲を「女性蔑視だ」と激しい調子で書きたてたのに対し、秋元康の側が抗議というか名誉毀損にあたるので記事を削除するよう求める書簡を送ってきたそうな。
秋元康の歌詞を「女性蔑視」と批判したら、 AKB運営から「名誉毀損及び侮辱罪」「記事を削除せよ」の恫喝メールが (LITERA/リテラ) http://lite-ra.com/2016/04/post-2181.html |
『アインシュタイン―』への非難はネット中で轟々なのだから、リテラにだけ文句をつけてもしょうがないのにと思うが、とりあえずリテラが一番影響力が大きいようだからこれを潰して見せしめるつもりなのだろう。
リテラ側はといえば断固、受けて立つかまえのようだ。
双方の去就が注目される。
さて、この件はおいといて。
「女性蔑視」を別問題としても、あの歌の歌詞には嘆息を禁じえない。
なんというか、時の流れを感じるのだ。
偉人の名が歌謡曲に引用されるにしても、昔のほうがずっと敬意なるものを払ってた。いや、業績がなにかも知らぬまま有名人だから一目おくという天然の敬意であるにせよ。
さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は70年代を描いた内容で80〜90年代に大受けした漫画だが、アニメ版の主題歌『おどるぽんぽこりん』の歌詞の一節「いつだってわすれない エジソンはえらいひと そんなのじょうしき〜♪」は誰でも覚えているだろう。
フランス人が60年代に著した日本紹介本では、たしか「中学生でさえドストエフスキーやベートーベンが誰かを答えられる」ことが書かれ、日本人の高い知識欲に驚いていた由だが。
それがいまでは。
「アインシュタインってどんな人だっけ? 聞いたことあるけど、本当はよく知らない」
いやはや。由々しいのはそれを恥にも思わずいることで、日本の民度もつくづく落ちたもんだと自嘲するほかない。
どうして、こうなった?
そもそも何故、アインシュタインが引き合いにされる? ナポレオンでもガンジーでもコロンブスでもなく、アインシュタインとは。
おそらくのところ、「アインシュタイン」の対極が「馬鹿」だからという以外に理由はなさそうだ。
いや、今の女子高生が秋元康の歌詞ほどパッパラじゃないのはわかっている。あんな歌おもしろがるのは制服姿で踊りまくる十代女子に熱狂する中年男子ばかりかもしれないし。
実際、「馬鹿でも可愛けりゃいい」はそんなオヤジどもが若かった80年代(もしかするともっと前)から途切れずに続く風潮なわけで、有体に言えば日本はそのとき以来、成長を停止させたままなのだ。
しかし世界はそうではなかった。
前の記事にも書いたように、この三十年で先進諸国の女性をめぐる人権状況は劇的に躍進した。ただ一国、日本を置き去りにして。
けれどもこの国の支配層、秋元康と同類のオヤジどもの運転能力でもはや追いつけるものじゃないし、追いつく気もないのが本音だろう。
今の程度にまで成熟した欧米流フェミニズムを受け入れるとすれば、それは日本というアジアの国にしぶとく根を張る「男権社会」の崩壊を意味し、ある勢力にとって生存圏の圧迫を甘受することだから。
日本の娘たちが達しえぬほどの高みにいるのはアインシュタインではない、男社会を揺さぶり続けた努力の末、相応の地位を手にした西洋世界の女性たちなのだ。
というわけで。
かくたる次第のわが国の先進世界からの知的な脱落とそれへの開き直りが、「アインシュタイン―」の歌詞にあらわれていると捉えるのはうがち過ぎだろうか?
追記
『アインシュタイン―』のどこが反発を呼んだかといえば、わざわざ女優ディアナ・アグロンの名を持ってきたことだろう。実にこのディアナ演じる女子学生こそ、向学意識に目覚め、可愛いだけの存在から脱皮していくキャラクターなのであり、頭からっぽでいたがる少女がお手本みたいに憧れるとはお門違いもはなはだしい。歌詞書いた奴はあのドラマ見てないだろ、と多くが熱り立った。
もしディアナの名を使いさえしなければ、「ああ、また頭からっぽな歌が出た。しょうがないな」と受け流されるだけでこんな騒ぎにまでならなかったに違いない。
HKT新曲の歌詞が女性蔑視だと大炎上…「女の子はバカでいい」と書く秋元康のグロテスクな思想は昔から
(LITERA/リテラ)
http://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html
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