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ワインが入った容器とそれを包むわらのカバー。2世紀から4世紀製作と推定されるモザイクより。 ( Tunis, Bardo National Museum )


年末年始は外食が増えます。
普段は粗食の我家、外食が増えると胃は重くも垂れますが、同時に膨張もするらしく、冬休みが終わったここ数日も食欲は一向におさまらない。

というわけで、話題も外食にしました。
本棚を眺めていたら、いつ買ったとも思い出せない「古代ローマの食事情 ( Ars Culinaria ) 」という本が見つかりました。言語学者のアントニエッタ・ドージ ( Antonietta Dosi ) 女史と考古学者のジュゼッピーナ・ピサーニ・サルトーリオ ( Giuseppina Pisani Sartorio ) 女史の共著です。

例によって私の読み方はずぼらです。
古代ローマ時代にも食堂はあったようで、外食を楽しみ人たちもいました。
が、それは非常に限られた人々であったそうです。

なぜでしょう。

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1世紀のモザイクより。りんご、葡萄、そしてザクロ。縦ながの容器はクラテルと呼ばれていて、水とワインを混ぜるのに用いていました。ポンペイの遺跡で見つかったものです。 ( Napoli, Museo archeologico nazionale )






古代ローマ時代に存在していたレストランは「taberna」とか「popina」とか呼ばれていました。
客の大半は男性で、友人たちと連れ立ってこういう場所に繰り出したようですが、あまり人に見られるのを好まなかったそうです。
その理由は、「taberna」や「popina」が、賭博や売春と深く結びついた場所であったからです。
まあ、宵越しの銭は持たない庶民たちが集った場所と考えてよく、ゆえに皇帝たちが庶民の姿を見るためにおしのびでタベルナを訪れたという伝説も残っています。

こうした食堂は、宿屋をかねた「hospitia」とともにローマ帝国中に存在していました。
遺跡から発掘された碑文には食堂の宣伝も多く見つかっています。ポンペイの「象」、ナルボンヌの「おんどり」、リヨンの「マーキュリーとアポロ」などというレストランはその美味しい料理でつとに有名であったそう。

しかし品のいい人々があまりこうした食堂を利用しなかった理由には、賭博や売春のほかにけたたましい呼び込みがありました。呼び込みの男たちは、食堂の料理とワインを大仰に喧伝したそうです。
このかしましい呼び込みはときには陽気でときには煩わしく、呼び込みに誘われて食堂に入った客がその料理のまずさに店先の石に鬱憤を晴らすこともありました。それがポンペイの hospitium 付近に残る落書きで ( 石に彫ってあるそうです ) 、「客には色のついた水を売り、宿の主人はワインを飲む」なんて残されています。

こうした宿や食堂で働く人々は社会の中でも低く見られていましたが、特にここで働く女性たちはよく思われていませんでした。
食堂内で、給仕としてお客に食事やワインを運び、客とベッドを共にすることもあったようですから、日本の江戸時代の水茶屋みたいなものだったのでしょう。

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タベルナの遺跡。オスティア・アンティーカのもの。


ところでこうした類の食堂にもいろいろな名称がありました。
まず「taberna」。これは、最初はワインの小売業をさしていました。後に、食堂を兼ねるようになります。タベルナはローマのみではなく、帝国中に普及しています。
ちなみに、この「タベルナ」は現代まで残りました。古代ローマの時代には庶民が利用していたタベルナは、現代では「tabernetta」などと呼ばれて偽の田舎風を気取ったお店が多く、スノッブな人々が集います。そして値段もけっして安くはない。
古代ローマのタベルナは、大理石のテーブルが道に面した店先に並べられて、その周りにワインやオイルの入った壷が置かれていました。テーブルの傍らには、竈があり常に鍋が乗っていたそうです。

次は「popina」。この言葉の語源はギリシア語で、食堂は食堂でも本来はワインの小売はしないのが特徴であったそうです。食事を注文すると、かってにワインが運ばれてくるという類のものだったのですね。
詩人ホラティウスの著述によると、彼の領地で働く百姓の一人が非常に好んだ二つのことが、popinaで供されるローストとワインが好きな量だけ選べるタベルナ、であったそうです。popinaは、タベルナよりさらに庶民的というイメージであったそうですから、肉体を駆使する職業の人たちが好むコッテリの料理が出てきたのでしょう。

popinaよりさらに品が落ちるのが、「gurgustium 」や「ganea 」とか「ganeum」と呼ばれていた酒場です。
同業には「thermopolium ( 温かいお湯を売る職業というイメージですが実態は不明 ) 」や「oenopolium ( おそらくワインの販売が本業 ) 」と呼ばれるものもありました。

こうした飲食業ですが、客の質から考えても値段は安く設定されているのが通常でした。
ちなみにイゼルニア ( Isernia ) の遺跡からはこんな楽しい碑文が残されています。

客 「主人、勘定を頼むよ」
主人 「ワインが4アス、パンが1アス、料理が2アス」
客 「わかった。それから?」
主人 「女の子が8アス ( cucciola注:この客は女も買ったのです ) 」
客 「それもわかった」
主人 「ラバの干草が2アス」
客 「まったく、ラバのおかげで私は破算だ」

この碑文から察するに、日常生活に欠かせなかった家畜にはけっこうお金がかかったことがわかります。
このイゼルニアの碑文が何世紀のものか明記されていなかったのですが、帝政ローマ時代のものであることは確かなようです。
帝政ローマ下では、301年にディオクレティアヌスが物価統制の布告をしています。そこに記された上限価格と比べると、イゼルニアのこの宿の食費は微々たるものといってもよく、首都ローマとそれ以外の街の物価の差も見ることができます。

しかし、いわゆる執政官街道沿いの宿や食堂は法外な値段を客に要求することも多々あったようです。
旅の途中にある人は、いかに高くても寝る場所や食事が確保できなくては存亡の危機ですから、いつの時代もそうした状況を利用する商人は多かったんでしょう。
しかし、値段が高ければそれなりの設備も整っていたのがローマ時代のよいところで、エミーリア街道沿いの宿の宣伝碑文には「われわれの宿には首都ローマと変わらない浴場設備有」と記されています。
さらには地産地消をうたう宿までありました。つまり、宿で供される食事は新鮮なご当地自慢の皿、というわけです。1世紀の学者マルクス・テレンティウス・ウァッロは、「馬車も通ることができる道に面し、耕地を有している宿が好ましい。なぜならそこから収穫される野菜を使った料理を食せるから」と書いています。

とはいっても、現代のホテルがすべて五つ星ではないのと同じで、当時の宿泊や飲食の場所は不潔、というのが人々のイメージであったようです。ホラティウスが『不潔な酒場 ( Immundae popinae ) 』 という著述を残したり、著作家のアウルス・ゲッリウスが「surdentes ( 信じられないくらい不潔 ) 」と断言したように、特にローマの人口過密地区の宿やタベルナは汚れていたのでしょう。
放埓が蔓延するこうした業界には、皇帝たちもさまざまな禁止令を持って対応しています。
二代皇帝ティベリウスの時代には増えすぎた宿の数を規制する法律が発布されていますし、歴史家のカッシウス・ディオによれば四代目の皇帝クラディウスは酒を飲むことを目的とする場所の閉鎖を決定したこともあったそうです。帝国後期の歴史化アンミアヌス・マルケリヌスは、プブリウス・アンペリウスがローマの長官であった時代の370年に、食堂や酒場は日中の実の営業と制限された法令が出されたと記しています。

こうしてみると、この記事の古代ローマにおける「外食」とは庶民のものだったことがわかります。
身分のある人たちの「外食」については、こちらで少し触れています。彼らの外食は昼食の実で、夜は男同士の付き合いで招いたり招かりたりであったようですが。


昨日から山の町は大嵐です。風が強くてまっすぐに歩けません。
そして、今週末からいよいよ寒波がやってくるそうです。
暖冬になじんだなまった体に活を入れなくては。















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