道徳心を幼少期から植え付けると、コミュニティを平和に保つ視点や能力が身につきやすくなると考えられる。
それについて私は大賛成だ。
これは現実的にはかなり困難であり、おそらくすべての人間は完全に他者を平等に扱えていないのが現状だろう。
幼少期では物事を単純に判断してしまいがちで、人を差別してしまう自分、差別されてしまう自分をまじめな子供は受け入れられない。
すると、何かに原因を求めることになるが、聖人君子であろうとするならば自らの非を考えるだろう。
小さい頃は瑣末な理由で、もしくは対して理由もなく人を否定したり、差別してしまいがちだ。
そんな環境の中で自己を反省することは、自己の単純な否定に直結すると考える。
また、原始的なコミュニティ故、他者に迷惑をかける人間が得をしてしまうのも事実であり、
自分を省みる理性的な人間はどんどん不利な立場に追いやられ、それが自己否定に拍車をかける。
これが続くと、縛られていた場所から出ようとしない象の話で有名な、学習性無力感というものを身につけてしまうだろう。
日本の教育では逃げることが「道徳的に」悪とされているように思える。
なので一度このスパイラルに陥ると、特殊なイベントが本人の身に起こらない限りそこからなかなか脱却できない。
特に、学校教育はそうした環境を作り出しやすく、友達の多さが人間の価値かのような風潮や、
漫画やドラマで描かれる学校生活が自然に刷り込まれているのも相まって、理想や目標のみがどんどん高まり、
現実の自分の生活との乖離が自己否定をより強化しているのではないだろうか。
これらの要因が作用し、結果として無気力で行動力もなく、自分の意思を持たない人間が生産されているのだと私は考える。
改善策として提案したいのが、この「道徳観」に柔軟性を持たせることであろう。
もちろん口で言うのは容易いのは承知しているが、敢えて主張したい。
人間は目標として人を平等に扱い、世の中を良くし、人に迷惑をかけず、利他的な行動を心がけるべきだが、そうでない時もあり、
それは反省すべきだが、自己を追い詰めるのは本末転倒である、と。
そして、まずは自分が何がしたいのか、何に喜びを感じるのか、それらを人に笑われてもいいのだと思えるような意思をもとうと。
私が子供だった頃はガチガチの価値観に囚われ、自分の人生を歩めず、非常に虚しさだけが立ち込めた人生であったが、それに気づいてはいなかった。
マニュアル人間を不憫に思っていたが、自分がそのマニュアル人間だと疑わず、気づいた時にはひどく落ち込んだ。
これらはあくまで私の経験から類推したものであるが、周りを見渡せば囚われたままのまるで人形のような人間も多く見受けられる。
いやいや、ガチガチの価値観に今でも縛られてると思うよ。 そもそも道徳教育推進を感覚的な部分に依拠させて可能性を見出すという後半部分も、感覚的な差別にまったく対応していな...
本人じゃないけど、元の増田の趣旨が読み取れてないんじゃない? 差別の発生について意見をしてるわけじゃなくて、道徳教育によって人生に虚無感を持ってしまう人間をどう減らすか...
じゃあ起承転結で分解してみましょうか。 道徳教育の方向性に対する言及 優位に立ってしまう不条理と無気力化する道徳心 道徳の方向性を据え置きにして拡張性で考える 自らのマ...
多分0か100かの考え方なんじゃないかな? >例えば風邪ひく人を完全にはなくせないけど、手洗いうがいをすることで減らすことはできるようにさ。 まさにこれなんじゃない? 0から100に...
がっちがちの道徳教育された結果がこの文章か・・・。