2016-04-25

[][] レヴェナント: 蘇えりし者(バレあり)

はっきり言えばネイティブ・アメリカン伝説イヌイット伝説も驚くほど使われておらず、最後復讐にかかる一語として使われるのみである。話の途中でヒューが「死んで生き返る」状況に遭遇するが、そこで彼の行動が白人としてではなく血族としてどうするのか、という問題へとシフトすることが分かる。実際に彼は神の歌を聴かされる中で夢を見て、そこで息子に出会った直後から変わってゆく。彼の死に関する暗喩は三つある。最初フィッツに葬られることによる「白人としての死」二番目はネイティブ・アメリカン治療されることによる「イニシエーションとしての死」、そして三番目にリー族へと追われて崖から転倒した際に、動物の死骸の中で再生した三番目の死である。この話は偏在するネイティブ・アメリカンの神に対する物語であるかのように見えるが、実際のところ一番目の死からキリストの復活になぞらえてある。三番目は言うまでもなく「聖骸布くるまれたキリストである。ここまで分かれば、最後の妻の姿がマグダラのマリアマリアかのいずれかに絞れてくる。

途中でフィッツをメインとした殺人の罪に関するテーマが挿入され、姦淫の罪もクローズアップされるが、『アルジャーノンに花束を』でも語られたことである。今更感はぬぐえない。

西洋世界において聖書概念古典的作品に盛り込むのは既に通過儀礼と化している側面がある。そしてこの作品も例に漏れ聖書概念が散りばめられており、最後の妻の映し方などは聖人のそれそのものだ。つまりあからさまに聖書を盛り込んでいることを明示しつつぼかしているのである。こうした演出監督配慮でもあるし表面だけをさらう人への導線にもなっている。ただし個人的にこのような西洋世界のみの文脈を仲間内で多用する意識はあまり歓迎していない。

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