石川啄木 ドナルド・キーン著 短歌も日記も 「即興」に本質
石川啄木は、明治に生れながら、現代に生きる私たちの心にそのまま響く歌をのこしたおそらく唯一の歌人である。本書は二六歳の若さで逝ったこの非凡な詩人の生涯をたどった密度濃い評伝である。膨大な資料を駆使しつつ一行の無駄もなく明晰(めいせき)で、しかも生彩(せいさい)あふれる文の運びは、倨傲(きょごう)にかまえたかと思うと翌日には絶望感に沈む矛盾に満ちた詩人の感情生活をあざやかに描きだす。
渋民の故郷を
石川啄木は、明治に生れながら、現代に生きる私たちの心にそのまま響く歌をのこしたおそらく唯一の歌人である。本書は二六歳の若さで逝ったこの非凡な詩人の生涯をたどった密度濃い評伝である。膨大な資料を駆使しつつ一行の無駄もなく明晰(めいせき)で、しかも生彩(せいさい)あふれる文の運びは、倨傲(きょごう)にかまえたかと思うと翌日には絶望感に沈む矛盾に満ちた詩人の感情生活をあざやかに描きだす。
渋民の故郷を離れて転居に次ぐ転居を重ねた啄木は流浪の詩人でもあった。函館から小樽、釧路と、最北の街の風光を背景に、一筋縄ではゆかない啄木の複雑な人間関係を語るルポルタージュにも似た数章はことに印象的だが、『一握の砂』の名高い冒頭歌に詠まれた「砂」が函館の砂であったことをさりげなく教えられたりして、興趣はつきることがない。名著『百代の過客――日記にみる日本人』の著者であるキーン氏は、続編の近代篇(へん)ですでに啄木の日記の魅力にふれ、ことに『ローマ字日記』の「赤裸な自己表現」を高く評価している。なぜローマ字が選ばれたのだろうか。「妻に読ませたくない」からだと言うが、同時に啄木は自分の真実を書きたいとも思っている。書きたいが読ませたくないというこのジレンマから彼はローマ字表記という斬新な「意匠」を思いたったのではないだろうか。事実、啄木は短歌の「三行書き」のような革命的な意匠を即興で苦もなく創りだした天才であった。
そう、即興性。啄木のスタイルは「本質的に即興詩人のものだった」という著者の指摘は詩人の才能のありかを言い当てて見事である。だからこそ、あれほど小説に固執したにもかかわらず、啄木の傑作は日記であり、そして短歌なのだ。二度にわたって引かれている短歌論は雄弁である。「人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却(かえ)つて便利だと思つてゐる。さうぢやないか」「一生に二度とは帰つて来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい(……)それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ」
つまり短歌とは三行の日記なのである。そこに書きとめられた日々のいのちの感興は、私たちのそれと少しもちがっていない。「こみ合(あ)へる電車(でんしや)の隅(すみ)に/ちぢこまる/ゆふべゆふべの我(われ)のいとしさ」。私たち誰もが味わっている日常感覚が見事な表現を得ているではないか。啄木こそは、まさに「最初の現代日本人」と呼ばれるにふさわしい詩人であったのだ。
(仏文学者 山田登世子)
[日本経済新聞朝刊2016年4月24日付]
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