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『心はすべて数学である』はスゴ本

心はすべて数学である 心を数学で解く。または数学に現れる心の動きを明かすスゴ本。著者が見えている場所を想像して興奮し、著者が見落としている領域が分かって武者震いする。

 「心とは何か」について、カオス理論の第一人者である津田一郎氏と、かなり近いところにいることが分かった。漠然と思い描いていたことが、わたしとは違う方法論で明示されており、何度もエウレカとつぶやかされる。心は閉じた数式で書けるものではなく、ゲーデルの不完全性定理やカントル集合など、不可能問題や無限の概念を作っていくプロセスを応用しながら接近していくアプローチが有効だという。

 心は単独で形成されるものではなく、他者や環境とのコミュニケーションによって発達する。「私の心」と「他者の心」という区別は一種の幻想で、相互に影響しあっている以上、離散的なものにならざるを得ないという。

 それでも、何らかの共通的な普遍項があるように見える。その共通項を、「抽象的で普遍的な心」と見なし、それが個々の脳を通して表現されたものが、個々の心だと仮定する。そして、「抽象化された普遍的な心」こそ、数学者が求めているもので、数学という学問体系そのものではないかという考えを示す。この部分は、わたしが数学をやり直す動機に直結する。

 すなわち、「人が認識できる(説明できる)抽象性の極限が仮にあるとするなら、その境界線は数学が描くことになる」である。紫外線は見えないが、実験や機材を通して認識することはできる。植物の成長、超巨星デネブ、超弦理論のモデルも然り。抽象度を上げた場合の、機材やモデルに相当するものが、数学だ。従って、世界を認識する言葉やモデルで埋め尽くされた全部と、数学が描いた抽象的な限界線が、ヒトの心が届く範囲になる。従って、著者の主張の半分「数学は心だ」は、その通りだ。

 しかし、残り半分の「心は(すべて)数学だ」は、わたしの見解と異なる。わたしの中では、まだ決着がついていない。著者は「数学は情緒である」岡潔の言葉を引きながら、数学が形式論理ではなく感性によって成り立っていることを示す。これにより、

 心は数学を包含する (心 ⊇ 数学)

 これは納得できる。だが、「数学は心を包含する」もしくは「心は数学と一致する」というならば、違うのではないか。著者はヒトの作り出す美や建築物に、幾何学や代数、解析学が含まれていることを示し、心の動きに数学があると主張する。そこを否定するつもりはないが、数学では示せない心があることを見落としている。

 たとえば、ゼロで割ることについて。数学の世界において、ゼロ除算は禁止されている。ゼロ割は、未定義、ナンセンス、infinityなど、数学の世界の外側にある。ただし、なぜナンセンスなのかは「心」で想像できる。

 4個のリンゴを4人で分けたら、1人1個
 4個のリンゴを2人で分けたら、1人2個
 4個のリンゴを1人で分けたら、1人4個

では、0人で分けたら「分ける人が誰も居ないなら、分けられない」になる。式を立てた上で、その無意味さについて心を働かせることができる。ゼロ割は例外やエラーを引き起こすため、プログラミングの世界では受け取った引数をチェックするのが常識だ。ゼロ割は、数学の世界の外側にあるが、そこを想像することはできる。

 さらに、「いまの数学では」という但し書きがつく。ある数aについて、現在は「a/0」は数学的に意味を持たないが、将来なにか興味深い結果を導き出すことになるかもしれない。

 これは、複素数の概念が好例だ。二乗してマイナスになる虚数を初めて知ったとき、パズルとして面白いかもしれないが何の意味があるのだろうと疑問に思った。後に、数学の世界に限らず、物理学、工学、電磁気学で無くてはならないものと知って驚いた。虚数が生まれたのが500年前なら、あと500年で「a/0」がそうならないとも限らない。

 このように、数学は、数学の中で定義できることを扱う思考体系だから、そこに表象されるものが「心」だというのはできる。だが、心の全てが数学であるというには、別のアプローチが必要だろう。そのやり方として、数学が定義できる限界を、心の抽象度の限界と近似すると仮定して、数学の形から心の形をあぶりだす。ヴィトゲンシュタインに倣うなら、「語りえぬもの」の境界線を、言葉ならぬ数学に引いてもらうわけだ。(まだ読めていない)以下のわたしの課題図書に、そのヒントがあると睨んでいる。これらは、『心はすべて数学である』の著者や読者にも有用かもしれない。

 『数学を哲学する』(スチュワート・シャピロ著)筑摩書房
 『数学の認知科学』(ジョージ・レイコフ著)丸善出版

 まだある。「数学は心である」仮説に則って、著者は心と脳の問題を数学的に解こうとする。海馬におけるエピソード記憶の伝達の仕組みを、カオス的に説明するところはゾクゾクするほど面白い。

 しかし、なぜ「脳」なのだろうか。ヒトは脳だけで考えているのだろうか、心は脳にしかないのだろうか。もっと生理的な、情緒に近いところは、腸や皮膚にあるのではないか。科学的な裏づけとしては、神経細胞の数やホルモン分泌、セロトニンの生産といった断片的なものしか知らない。だが、わたしの経験として、心は身体全体から影響を受けていると感じる。心の動きに対し、脳に限らず、もっと身体性に近いところから説明しうるのではないかと考える。

 著者は、自分の専門であるカオス理論を元に、さまざまな道具立てから心の問題に近づこうとする。そのアプローチが興味深ければ深いほど、そこにないルート―――進化や発生の仕組み、エピジェネティクスも含めた遺伝子の働きや、そこに対する化学物質や重力の影響(つまり心は物質が定義する!?)、意識のハードプロブレム問題からのアプローチ―――が浮かび上がってくる。これらを咀嚼して、「わたしとは何か」に接近したい。本書のおかげで、知的好奇心がブーストした。これは、死ぬまで夢中になって遊べる知の世界なり。

 そういう、化学反応を引き起こすスゴ本。

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