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ポジ熊の人生記

好きなことを、見てもらえる情報にして発信する、そんなブログを目指しています。

社会的アイデンティティーの喪失で心が揺れない日々

心-私信


社会的アイデティティーの消失

自分は自分である、これは間違いない。

だが、社会における自分はどこにいるのか、これはまた別の話なのかなと思う今日この頃である。

フラット

進学や就職、異動や退職などで春から身辺の環境が激変する人は多かろうと思う。落ち着くまではそわそわするし、思考が上手く働かずに気を揉む人もおられようかと存ずる。

 

かくいう僕も春から環境が激変。長い休みが明けて職場へ復帰したわけであるが、落ち着かないわけではない。自分は自分であるし、それが揺らぐことはなかった。しかし、以前よりも明らかに変化している内面を知る。

 

友人曰く「炎が見えない」という。燃え上がるような、活動的な力が僕には感じられないのだとか。去年の春と比較しての話だ。これは身に覚えがある、というか自分でも自覚しているところ。

 

フラットである、ただただフラット。抑揚がない。何かに希望を預けて血潮をたぎらせることもないし、合点のゆかないことに怒りを燃やすこともない。ただ、目前にある、あるがままを受け入れようという思考。これがどしんと自分の中に据えられていて動じようとしない。

 

心の調律

アクシデントにより、社会的には立場がリセットされたといっても過言ではない。これが去年の中頃に起きた話。従来の人間関係もすべてなくなり、立ち振る舞いについても今まで通りとはいかなくなった。いかなくなったのだが、これからどう振る舞っていいのかがわからない。どの範囲まで許されるのか、現在の立場での社会の中央値がどのあたりにあるのか。見当もつかない。

 

例えるならば新卒社会人でどのように先輩に挨拶していいのかわからない状態。これに近いものがある。手探り手探りで目隠しをしているものだから、気持ち的には嵐が渦巻いていることだろう。だが、その嵐に身をゆだねていては成しえぬ仕事をしているものだから、無理やりにでも自分を中立に保つために心がこのように超絶フラット状態へ自然と合わさるように仕向けているのかもしれない。

 

苦しくはない、辛くもない。ただ、希望もしていなければ絶望もしていない。治療の必要もないし薬もいらない。だが、なんだろうな、湧きあがらない。

 

社会的自我の喪失

人間には自我というものがある。これは社会で人とうまくやっていくうちに2分化するのではあるまいか。ひとつは「自分は自分」という基礎的なアイデンティティーで、もうひとつは「社会での自分」という、職責やそれぞれの立場での責任に応じた自我である。この2つを上手に調律させて人生に生きがいを見出し、他人と接しながら生きていくものなのかもしれない。

 

その片割れである「社会的アイデンティティー」が喪失した今、僕はそのただ中で目隠し状態で歩行し、もう一人の自分を見つけようと頑張っているのである。そこで慌てては事故が起きるし、とりあえずの現在の仕事をこなすことができないから、フラットボタンが常に押されてしまうのではなかろうか。

 

環境が大きく変わる人へ

今まで長らく務めていた職場を離れる人や、新たな場で自分の振る舞いがわからなくなっている人へ。焦りによって喜怒哀楽が激しくなることもあるだろうし、僕のようにフラットになってしまう人もおられようかと存する。

 

焦らず参ろう。今は片割れのアイデンティティーを消失して困惑している状態なのだ。だから、半ば無気力になってしまうものなのかもしれない。今すぐにこれをすれば活力がみなぎる、というような頓服はないのだと思う。それを探すことによって、見つからないストレスを生じ余計に疲弊してしまうかもしれない。

 

思考していれば、きっともう一人の自分を見つけることができる。それにはきっと、時間が要るんだよ。僕も焦らずにやるべきことをこなしていこうと思う。みんなも、もう一人の自分と出会えるまでは、どうか頑張ってほしい。

 

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