日本の熊本から再び驚くようなニュースが飛び込んできた。地震が起こった後の話だ。「家族8人でようやくおかゆ2杯の配給しか受け取っていないのに、さらにもらうために再び列に並ぶ人がいなかった。ある被災者は『これだけでも食べることができるのは本当に感謝』と言った」「給水台の前で列が乱れると、互いに『お先にどうぞ』と譲り合う。誰一人として先にもらおうとする人がいなかった」「この大混乱の中でも恨み節一つ聞こえてこなかった」
教養のある個人が悲惨な災害や事故に面しても品格を失わないことはある。しかし、10人、100人を超える集団がある同じ傾向を見せるというのは深刻に考えてみるべきだ。2011年に東日本大震災に対処する日本人の姿を観察した早稲田大学の外国人教授は「お釈迦(しゃか)様の姿に匹敵する」と表現したが、そのお釈迦様の姿は今回も健在だった。これは美談ではなく「神話」のレベルだ。うらやましいくらいだ。成熟した市民意識というのはこういう状態をいうのではないか。他の先進国の人々も日本人の態度には驚くという。だとすれば、その根底には何か違うものがあるのだろうか。
日本はプレートの上に建てられた国だ。日本の歴史とともに始まった地震や津波は、「人間にできることなど何もない」という判断をひそかに後世に伝える役目を果たしているのかもしれない。日本について研究するある学者は「日本で仏教と神道が融合し、宗教的権威の代わりに刀を持った武人に圧倒された日本の封建制以降の歴史を根拠に、来世よりも『現世』や『現在』を重視する観点が生じた」と分析する。多くの神社があるにもかかわらずだ。
一言で整理すると、「仕方ない」という考え方だ。恨みはむなしいことなのだ。状況を変えることができなければ、今に忠実でなければならない。あるいは日本人は環境がつくり出した唯物論者だ。評判や和合が重要で、迷惑を掛ける人間は共同体から排斥される。「品格ある犠牲者」の根底には受容、放棄、虚無主義も交じっているだろう。
ここまで来ると、次のような言葉が浮かんでくる。(韓国は)「虚無主義であろうが何であろうが構わないから、互いにののしり合うのだけはいい加減やめてほしい」。韓国の現実と比較する中、自然とこんな言葉が出てきてしまう。災害現場では常に罵声が飛び交っている。あるいは政府に責任があると思えば「現政権は総辞職せよ」というスローガンがいとも簡単に登場する。