師がある伝授式にお免状のお礼をすべて返された事件があった。
社中は大騒ぎだったが、私はまだ若く何が何だかわからない。
妻がとりなし、ひと月後のお稽古も始まる。
師のプライドを傷つけたと今は思う。
縦社会である。
今的にはホームページや噂でお礼を決める方も多いい。
親先生jの時代からこれは変わらない。
自分の一存では決められない社会なのだ。
ましては多く払ったから返してくれというのは、
もうバカバカしくて、やめてくれと叫ぶ。
その態度が礼を失している。
学ぶ姿勢が病んでいる。
企業のクラスで学んだ人の多いい。
仁義礼智信というと時代が違う知還ってくる。
もう、やめてもらうし、破門である。
この三年多かった。
今回は体のの故障が大勢に起こり、
心配のあまり甘くしたらどうしようもなくなった。
古今伝授の意味が伝わらない。
だが皆さん一生懸命に成し遂げたし、
これから評価をして、
許状を渡せるか考える。
伝授は終わっても、しばらく様子を見るのは親先生のやり方である。
次の風炉で確かめてお渡しするのが、本来の受伝である。
私は真台子は一年半から二年はお預けであった。
それが良い励みになった。
順番だけでは基本にすぎないと分かる。
家元は行をゆくやるように言う。
真は覚えるの野でなく、ルーツを知るものという。
なんでもお礼で片付ける現代は悲しい。
だが感謝の気持ちがない伝授は、教えるほうはもうやめたくなるほどのつらい思いをしている。
心臓に楔を打ち込まれたようだ。
伝授は命の向こうま飛んで、火の玉になってする時もある。