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4.24記念「詩吟」
石原詢子・詩吟揖水流(いすいりゅう)師範代 「川中島」(武田節)2011/03/17公開5分38秒
詩吟 不識庵機山を撃つの図に題す 頼山陽作
https://www.youtube.com/watch?v=olguD6WJ3Qc
『不識庵機山を撃つの図に題す』/通称:川中島2016/04/07 に公開2分30秒「剣舞」
https://www.youtube.com/watch?v=atVwfR-acjI
★大事な「師弟観」ですので再投稿しました。★
小説「人間革命」でエピソードとして紹介されている「池田先生が戸田先生の前
で歌い舞わった」詩吟です。戸田先生が牧口先生を思い、池田先生が師のこころ
に応えた「師弟共戦の歌と舞」です。三代の師弟に流れる魂の旋律です。
私には戸田先生が涙し、池田先生が歌い舞う姿が思い浮かびます。その様を牧口
先生がニッコリ微笑んでいます。
詩吟について
「不識庵(ふしきあん)機山(きざん)を撃つの図に題す」(頼山陽 作)
鞭聲粛粛夜過河/鞭聲粛々夜河を過る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)
暁見千兵擁大牙/暁に見る千兵の大牙を擁するを(あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを)
遺恨十年磨一剣/遺恨十年一剣を磨き(いこんじゅうねんいっけんをみがき)
流星光底逸長蛇/流星光底長蛇を逸す(りゅうせいこうていちょうだをいっす)
【作者】 頼 山陽(1780~1832)
江戸後期の儒者。芸州(広島県)竹原の人。父は安芸藩の儒者で山陽はその長男
として1780年大阪江戸堀に生まれ、広島で育った。幼少の頃から詩文の天才を持
っていた。18歳で江戸に出て昌平黌に学んだが20歳で広島に帰った。性格的に少
し常軌を逸するところ有り転々とした。備後の管茶山の廉塾の学頭等もしたが、
再婚後京都に定住した。[日本外史]を前老中松平定信の命により進献し、一躍
有名になった。
【解説】 不識庵は越後の上杉謙信、機山は武田信玄、ともにその法号である。両
雄の川中島での戦いは1553年の第一回から、最後は1561年の5回に及んでいる。
この詩は山陽が自分の[日本外史]の資料から謙信の胸中に同情する形で作られ
ている。
【通訳】 上杉謙信の軍はひっそりと鞭音も立てない様にして、夜の内に千曲川
を渡って川中島の敵陣に攻め寄せた。武田側は明け方霧の晴れ間に上杉方の大軍
が大将の旗を中心に守りながら迫ってくるのを見つけた。この戦いでは謙信は信
玄を討ちとることができなかったが、その心中を察すると、誠に同情にたえない
。この十年の間一ふりの剣を研ぎ磨いて、その機会を待ったのであるが、うち下
ろす刀光一閃の下に、ついに強敵信玄をとり逃がしたのは無念至極なことであっ
た。
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