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思えば 先生があの「断じて忘るな 嵐の4.24」の随筆を書いて下さった当時。
たくさんの幹部が 声をつまらせ 時には目に涙し 4.24を 幹部指導の中で話していました。 今は誰も語らない4.24です・・・・。
何故ですか?
まだ 「勇退」という言葉のオブラートに包んで話せたからですか?
先生自らが 「辞任させられた!!」とおっしゃって以降 オブラートは取り払われ 4.24を語ると 執行部に睨まれますか?
降格人事になってしまうのですか?
以前に信濃町様でしたか? 外部の識者の方のお話をアップして下さいました。
「勇退」という言葉に 違和感を感じると。
ぜひまた アップして下さい。
あの感覚こそ 正常です。
今やあなたたちが一言も語らないから 叫ぶのです!!
師匠が「断じて忘るな」と叫んだ4.24を「忘れるな!!」
口で革命を叫ぶことはたやすい。時代の“勢い”がある場合は、なおさらである。
幕末の動乱の世――。社会変革を志した若者は、時代の変化また変化を鋭くキャッチし、大いなる理想の実現に熱い血を燃やした。
その青年の、はやり立つような思いは、友から友へ、国から国へと伝えられ、“時代の熱気”として高まり、脈打っていった。そこには若々しい正義感もあった。“熱病”のような伝染の力もあった。華々しい活躍を夢みる功名心もあったにちがいない。
こうした時の勢いに乗じて、走り始めることは、ある意味でたやすい。学会でいえば、できあがった組織の上に安住しながら、威勢のよいことを口走っているだけの姿といえるかもしれない。
しかし、時代を画する革新の動きには、必ずや“反動”がある。これは現在もまた、すべての戦いのなかに起こる、いわば“法則”である。苛烈な迫害と弾圧、中傷と策謀等となって、激しく、また陰険に襲いかかってくる。
反動こそ、本物の革命家の証明である。本物であり、現実的な力があるからこそ、大きな迫害となって現れる。ゆえに、反動勢力に叩かれている人、その人にこそ注目し、信頼を寄せていくのが、道理を知る者の“眼”である。
そして、この“反動”があった時こそ、その信念の深さ、一個の人間としての真価が問われる時なのである。
1990.1.15 神奈川県青年、学生代表者会議
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