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「生命現象」

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 4月23日(土)06時24分22秒
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  「生命現象」

「生命現象」には、人間の思考・概念等は存在しません。人間の思考・概念が「

生命現象」を捉えて、人間の思考・概念に合わせ「命名し」「ストーリー」を作

ってきたのです。

当然、様々な仏法の原理・法則なども、人間が体感・体験した現象を言葉に当て

はめ概念化してきたものです。仏法が「生命論」であることを示すためにもたら

された「体系づけ」られたものなのです。厳密に言うならば、体感・体験した後

の「言葉による後付け」なのです。この過程により私たちは思考・概念として「

捉えてしまう」という「誤謬」を犯してしまっているのです。自分自身の体感・

体験を通して「理解」「了解」するという過程が欠落してしまっているのです。

「誤謬」という現象により「起きている現象」の「了解」が各自異なる、千差万

別となってしまうのです。ここに異なり・違いが起きているのです。同じ現象を

見ても異なるのです。自分自身の体感・体験を通して感じると言うことが無いか

らです。身体機能・感覚から分離された見方が自得されてしまっているのです。

「生命現象」は「自然現象」でもあるのです。身体機能・感覚から分離された見

方が自得されているから生命現象・自然現象が見えない、わからない、という事

が起きているのです。

人々は「自分自身」と常に言いながら「自分自身」という身体感覚が不在なので

す。意図的に作られた思考・概念でしか物事をみることができないのです。

誰もが「3分間息を止めると苦しくなります」生命現象としての自分自身に気づく

のです。普段の生活ではこうした気づきはありません。このような現象が「自分

自身」の不在と言うのです。「自然と共に」ではなく「自然として」生きている

、生かされている感覚が日常生活でないから、いろいろ不具合が起きているので

す。

私たちは「生命現象」そのものなのです。思考・概念は二次的な世界観であり、

幻想・妄想であることだということが、このことからも言えるのです。「自我機

能」が主となる生活様式があり「自己機能」の生活様式が希薄なのです。

「永遠の生命」とは「生命感覚」の覚知をいいます。思考・概念では体感は生じ

ません。この事実を知ること、気づく事が仏法の生命論なのです。

「善悪」は人間的事象の理(ことわり)の世界のこと、「善悪不二」は自然現象

の理(ことわり)のこと、この区分が「できない」「わからない」限り「人間的

事象」の善悪が対峙する相対的な世界に身を多くこととなるのです。「正」「反

」=「合」の中でのことです。「悪を攻める」という構図になってしまうのです

。「合」に至るのは「不二」となる以外もたらされないのです。「人間的事象」

の限界がここにあるのです。いつまでたっても、歴史的な紛争・パワーゲームの

繰り返しの世界が続くのです。「善悪不二」とならないのです。このことを「娑

婆世界」と言うのです。「娑婆即寂光」とは「不二」のことを言うのです。絶対

的現象・現実からの視点、俯瞰的眼差しが無い限り「娑婆」世界では相対的な現

象が繰り返されるだけなのです。

「今、いる場」が「寂光の都」となるのは「体感覚知」のことなのです。「体感

覚知」とは個人の体感・体験の世界です。

震災に遭遇しても「娑婆世界」を選択するのか「寂光の都」を選択するのか、そ

れは個人の選択の結果なのです。

「選択」は、どこまでも個人であり、個人の成長・成熟のための、「気づき」が

もたらされているのです。

日々と言う普段の「選択」が「今」という姿なのです。
 
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