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「生命現象」
「生命現象」には、人間の思考・概念等は存在しません。人間の思考・概念が「
生命現象」を捉えて、人間の思考・概念に合わせ「命名し」「ストーリー」を作
ってきたのです。
当然、様々な仏法の原理・法則なども、人間が体感・体験した現象を言葉に当て
はめ概念化してきたものです。仏法が「生命論」であることを示すためにもたら
された「体系づけ」られたものなのです。厳密に言うならば、体感・体験した後
の「言葉による後付け」なのです。この過程により私たちは思考・概念として「
捉えてしまう」という「誤謬」を犯してしまっているのです。自分自身の体感・
体験を通して「理解」「了解」するという過程が欠落してしまっているのです。
「誤謬」という現象により「起きている現象」の「了解」が各自異なる、千差万
別となってしまうのです。ここに異なり・違いが起きているのです。同じ現象を
見ても異なるのです。自分自身の体感・体験を通して感じると言うことが無いか
らです。身体機能・感覚から分離された見方が自得されてしまっているのです。
「生命現象」は「自然現象」でもあるのです。身体機能・感覚から分離された見
方が自得されているから生命現象・自然現象が見えない、わからない、という事
が起きているのです。
人々は「自分自身」と常に言いながら「自分自身」という身体感覚が不在なので
す。意図的に作られた思考・概念でしか物事をみることができないのです。
誰もが「3分間息を止めると苦しくなります」生命現象としての自分自身に気づく
のです。普段の生活ではこうした気づきはありません。このような現象が「自分
自身」の不在と言うのです。「自然と共に」ではなく「自然として」生きている
、生かされている感覚が日常生活でないから、いろいろ不具合が起きているので
す。
私たちは「生命現象」そのものなのです。思考・概念は二次的な世界観であり、
幻想・妄想であることだということが、このことからも言えるのです。「自我機
能」が主となる生活様式があり「自己機能」の生活様式が希薄なのです。
「永遠の生命」とは「生命感覚」の覚知をいいます。思考・概念では体感は生じ
ません。この事実を知ること、気づく事が仏法の生命論なのです。
「善悪」は人間的事象の理(ことわり)の世界のこと、「善悪不二」は自然現象
の理(ことわり)のこと、この区分が「できない」「わからない」限り「人間的
事象」の善悪が対峙する相対的な世界に身を多くこととなるのです。「正」「反
」=「合」の中でのことです。「悪を攻める」という構図になってしまうのです
。「合」に至るのは「不二」となる以外もたらされないのです。「人間的事象」
の限界がここにあるのです。いつまでたっても、歴史的な紛争・パワーゲームの
繰り返しの世界が続くのです。「善悪不二」とならないのです。このことを「娑
婆世界」と言うのです。「娑婆即寂光」とは「不二」のことを言うのです。絶対
的現象・現実からの視点、俯瞰的眼差しが無い限り「娑婆」世界では相対的な現
象が繰り返されるだけなのです。
「今、いる場」が「寂光の都」となるのは「体感覚知」のことなのです。「体感
覚知」とは個人の体感・体験の世界です。
震災に遭遇しても「娑婆世界」を選択するのか「寂光の都」を選択するのか、そ
れは個人の選択の結果なのです。
「選択」は、どこまでも個人であり、個人の成長・成熟のための、「気づき」が
もたらされているのです。
日々と言う普段の「選択」が「今」という姿なのです。
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