|
|
大事なご教示ですから揚げておきます。
報恩抄の一節です。
「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをまはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず」(P293)
「仏法を習い極めようと思ったら、いとま(暇)がなくては叶うことはない。いとま(暇)をつくろうとするなら、父母・師匠・国主等に随っていては叶わない。是につけても非につけても、出離(出離生死=師弟)の道をわきまへない限りでは父母・師匠等の心に随てはならない」と通解できます。
報恩抄と言えば、大聖人の兄弟子の浄顕房、義成房に、道善房の墓前で読みなさいと与えられた書です。浄顕房、義成房に与えられたということが大事です。両房の師は道善房です。大聖人の出家当時の師でもありました。天台・真言の僧であったと伝えられています。 その師に「出離の道をわきまへざらんほどは、随うべからず」とされているのです。師が仏法の本義から逸脱してしまったいたなら、随ってはならないということです。
そして、「父母・師匠・国主等」「父母・師匠等」とされておられます。この「等」とは何か。この報恩抄でも、四恩抄でも、残された一つの恩は「三宝」です。仏宝、法宝、僧(僧伽)の三宝です。
三宝は一体のものです。
「凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり是れ涅槃経の文なり」(P142)
と仰せです。
教主(仏)と法と、それを護持する組織が一体という意味です。組織だけが大事なのではないのです。大事なのは、三宝の人間主義です。
もちろん、その三宝の「僧伽」に狂いが生じていれば「随う必要はない」とのご教示とも拝せます。
「師弟の道」をわきまへない限りでは「おかしいことはおかしいと」と叫んでいいのです。
|
|