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今になって勉強!2016.4/21.21:59.
投稿された内容に触れて「気づかれた」とのこと、有難うございます。「気づく」
という現象の意味もわかってくるかと思われます。「気づき」が増えると体感・
体験の精度が高まるまからです。
1-「ー凶を禁ぜんには」の考察を読みまして、自分が一凶を外に観ていたことに
気づきました。
何度も言われているのに、なかなか身につかず 悪を倒そう!と なってしまいま
す。
回答⇒自分の外に「悪」を見てしまうのは「相対的現象・現実」の世界に「身を
置く」からです。これは私たち人間の意識の働き作用でもあり、対立構造にある
からです。この「二項対立」「相対的現象」に「気づく」ために相対的現象・現
実があるのです。「気づく」から「超える」ことの必要性を体感できるのです。
「正」VS「反」=「合」この弁証法的構図は「気づく」ためにもたらされてい
る働き作用なのです。このことに「気づく」から「ー凶を禁ぜんに「気づく」ので
す。そうすると「智慧」がもたらされ「慈悲」のエネルギーが自然にもたらされ
現象化してくるのです。
「正」VS「反」=「合」は「生命現象」の本質的な働き作用です。この相互作
用があるから「善悪」の現象があり、「闘いが生じる」と人間は見てしまうので
す。「自然現象」には「善悪」という概念、人間の眼差しはありません。ただ「
在る」とう現象だけです。「善悪不二」とは、こうした人間の意識を離れるから
「善悪」が消失するのです。
御本尊には十界の生命がしたためられています。日蓮大聖人は「善悪不二」の「
生命現象」そのもの、働き作用を文字化されて残されたのです。私たちは文字に
したためられた現象が「生命現象」であり、自分自身の在り様であることに、な
かなか「気づけない」のです。なぜならば「見る側」「気づく側」の現象である
からです。仏法は、どこまでも個人の体感・体験の生命現象を説き明かしている
のです。このことが「一人立つ」ということなのです。「生命現象」には「善悪
不二」「十界」などの語句は無いのです。人間が「見た」「体感」した働き作用
のみがあるのです。全体性として全ては存在しているのです。その現象を象徴化
されたのが御本尊であり、生(なま)の生命としての私たち一人一人がなのです。
「一人立つ」とは「自分自身を超える」から「立つ」になるのです。絶対的現象
・現実を知る、気づくから「立つ」が体感できるのです。牧口先生、戸田先生は
「立った」から「不二」になられた、不二が現象化したのです。戸田先生が立た
れたから池田先生が立たれたのです。残念ながら「気づかない」と「立てない」
のです。「一人立つ」ために様々な現象に遭遇するのです。それは全て「気づく
」ためにある仏の慈悲でもあるのです。
2-表に出られない先生の 一人立て とのメッセージでしょうか。⇒あえて言う
ならば「個人的な思い」の範疇です。
回答⇒「表に出る、出られない」というものではなく「一人立つ」が生命の本質
であり、御本尊の姿を現象化したものだと「気づく」ことのメッセージとして見
た方が元気がでます。「気づく」「気づかない」はどこまでも、見る側、気づく
側のことなのです。
真摯なご質問有難うございました。
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