|
「アイヒマン的」
「アイヒマン的」という人間は、いつの時代でも出現する。「アイヒマン」では
ないが米国の東京空襲・神戸・福岡・沖縄、そして広島・長崎等々の現象は「ア
イヒマン的」人間の悪行である。
都市国家の時代・部族紛争の時代・日本の戦国時代等には必ず「アイヒマン的」
人間がいた。相対的現象・現実ゆえにもたらされる「狂気の殺人者」たちである。
現代は分離・分断された世界だから「アイヒマン」という固有名詞により表現さ
れるが、その本質は「アイヒマン的」人間の出現を示しているのである。米国の
アイヒマン的所業には目も向けない、向ける事ができない中途半端な世界平和ご
っこが得意な日本人である。まさに盲目的信仰が根付いた戦後70年、
「アイヒマン」は忠実な官僚であったことが知られている。官僚的な人間の持つ
危うさを示すものでもある。
創価官僚の出現は組織の拡大とともにもたらされてきた「反作用」である。この
「反作用」は束ねるリーダーの資質により左右される。束ねるリーダーの範疇で
しか、良くも、悪くも機能しない。
今回の熊本震災現象の場合も同様である。忠実な官僚は、どこでも「反作用」と
して機能してしまうのだ。
このような官僚的機能は必要であるが必ず「反作用」がある。中国・ロシア・韓
国等にも、その悪癖は付きまとっている。智慧がもたらされないのである。
創価官僚の場合、その生活の根幹に「信仰」「信心」という思い込みがあるがゆ
えに、より忠実な反応を示しているのである。状況判断が麻痺しているのである。
副会長という肩書があっても誰一人54年問題については語らず、口を閉ざす臆病
者、これが「アイヒマン的」現象なのである。何かしなくてはと「気づいてはい
る」が、できない。臆病でありズルイのである。「アイヒマン的」現象は、信仰
・信心とは次元が異なる一般的な現象なのだ。彼らの信仰・信心が、いかに見か
けの「偽装」であり組織中心、役職中心のただのマネジメントゲームであること
が覗われている。
口で大聖人の仏法を語り、身は常に引き、思いは、思惑ばかり、これが世俗化現
象の創価なのだ。
体感・体験なき世界は世俗世界のこと、
第1回 「アドルフ・アイヒマン」2011/06/13 公開4分17秒
https://www.youtube.com/watch?v=NywuaqlyTwM
第2回 「アドルフ・アイヒマン」14分45秒
https://www.youtube.com/watch?v=LDg3iTLeVJU
第3回 「アドルフ・アイヒマン」13分47秒
https://www.youtube.com/watch?v=_5OxGVOlWFk
|
|