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「此経難持」の事。弁阿闍梨日昭がいうには「私はあなたがいわれる通りに法華経を持つ者は『現世安穏・後生善処』と承って、すでに去年から今日まで、型どおりに信心をしてきました。ところが、現世安穏ではなくて、大難が雨のように降ってきました」といっていたとか。はたして、あなたが本当にいったことであろうか。それとも、弁阿闍梨の報告が偽りなのであろうか。どちらにしても、よいついでであるからその不審を晴らしましょう。
法華経法師品第十の文に「法華経は難信難解」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞き受ける人は多い。だが、真実に聞き信受して、どんな大難が来ても、この法華経を憶持不忘の人は希である。受けることはやさしいが、持つことはむずかしい。したがって、成仏は持ちつづけることにある。それゆえ、この法華経を持つ人は必ず難に値うのだと心得て持つべきである。法華経見宝搭品第十一の「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのである。
三世の諸仏の大事である南無妙法蓮華経を念ずることを持つというのである。法華経勧持品第十三には「仏の所属を護持する」といっている。天台大師は法華文句巻八では「信力のゆえに受け、念力のゆえに持つ」といっている。また法華経見宝搭品第十一には「法華経は持ちがたい。もし暫くも持つ者は、我れ即ち歓喜する。諸仏もまた歓喜するのである」と説いている。
火に薪を加える時には火は盛んに燃える。大風が吹けば求羅は倍増するのである。松は万年の長寿を持つゆえに枝をまげられる。法華経の行者は火と求羅のようなもので、薪と風は大難のようなものである。法華経の行者は久遠長寿の如来である。ゆえに松の譬えのように修行の枝を切られ、曲げられることは疑いないのである。これより以後は、「此経難持」の四字を暫時も忘れず案じていきなさい。○恐恐。 文永十二年乙亥三月六日 日蓮 花押 四条金吾殿
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