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平成28年熊本地震「亀裂」⇒「今、起きている」

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 4月20日(水)06時17分27秒
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  平成28年熊本地震「亀裂」⇒「今、起きている」

現象としての「地震活動」は「亀裂」を象徴しています。つまり人間の組織や団

体・集合体等の「捻じれ」現象、「捻切れ」を意味しています。人間の外界

然現象は、人間の心理的現象と同時に起きているのです。「依正不二」の現象だ

からです。

「亀裂」という言葉がこれからの様々なキーワードになります。家族の亀裂・友

人の亀裂・組織の亀裂・職場内の亀裂・地域の亀裂・被災者間の亀裂・行政の対

応の亀裂等々、今述べている「亀裂」は生命現象です。「自我機能」の強い人々

に対する「気づき」の促しなのです。

心理的動揺も地震のメカニズムと同じで、一定方向への負荷が、元に戻ろうとし

てプレートがズレる。「自我機能」による負荷が元に戻ろうとすることにより「

意識機能」というプレートがズレるということです。

地震が起きると「下から突き上げる感じ」「それから横揺れが続いた」とのこと

を体感・体験者は語っている。このことは「感情的な衝動が内奥から突き上げて

きて、動揺する」ということと同じことでもあるのです。不安感・恐怖感の発生

メカニズムです。

避難生活の長期化に伴う心身の疲労感は、意欲の減退、生活不活発をもたらせ疲

弊・閉塞状態を招きます。今まで述べてきた「疲弊と閉塞」の状態が地震により

現象化してきたと見る事ができます。(実際に被災された方々に対して述べてい

るわけではありません誤解しませんように)


「人心の乱れは国土の乱れ」となり現象化しているという「立正安国論」の原理

に示された生命論なのです。「人心の乱れ」とは「自我機能」の不良不全を言い

ます。その「乱れ」が「国土」という客体に現われているということなのです。

個別を通し、現象全体を見ていくとわかってくる生命現象なのです。

「立正安国論」の「この一凶を禁ぜん」とは、当時の念仏、法念であるこは言う

までもありません。生命論から見るならば、「悪」という現象を冥伏させること

、「善」の現象化を言います。

日蓮大聖人以降の日蓮系教団の分派現象は「四箇の格言」で破折されてきた邪宗

以上に「頭破作七分」の現象がもたらされています。(歴史的事実)太陽の仏法

ゆえの「反作用」が表面化しているのです。「正法に背くゆえ」の現象化です。

世俗化した創価は「頭破作七分なり」と断言することができます。全ては「自我

機能」という妄想・幻想ゆえの反動だからです。プレートの歪みによる破断現象

、地震はまさに「頭破作七分なり」です。

(「地震」と「自身」なぜか表音は同じです。日本語・漢字表現のすばらしさは

体感・体験にもとづく生命論だったのです)

「この一凶を禁ぜん」とは「自我機能」の不良不全を言うのです。ここに気づか

ないと「頭破作七分なり」という現象は常態化して時代を超えて現れて来るので

す。釈迦仏法の滅亡は「自我機能」の不良不全であったのです。

「生滅」という現象は宇宙の法則です。私たちの新陳代謝の現象でもあるのです。

「生滅」という現象を超えるのが「体感覚知」であり「悟り」なのです。「ここ

に気づかないと」とは、自分自身で体感・体験する以外に「一凶を禁ぜん」とは

ならないのです。外に対象化した「モノ」「コト」に眼差しが向くから反動とし

ての「悪」を呼び「闘い」となるのです。⇒被災地で発生する空き巣等は、いわ

ゆる「火事場泥棒」です。いつの世にも、そうした輩は存在していることなので

す。不幸につけこむ「悪」の現象化です。

創価の「頭破作七分なり」は、当事者たちは一切「気づきません」、彼らが「気

づく」まで「一凶」は続くのです。

日蓮大聖人は「日蓮と同意ならば」と御書の随所で語られています。このことは

他ならぬ「自分自身が太陽であることを知れ」、「太陽となれ」とのことを言っ

ているのです。そこに民衆救済の智慧・慈悲が生命現象として現れてくるとの意

なのです。

「創価の傘」の中に入る者たちは、気づかぬうちに「正義をまとう盗っとたけだ

けしい輩となり」「頭破作七分なり」なのです。

例⇒聖教新聞多部数購読・財務・書籍販売等、会員への還元が皆無、勇気と希望

を促せない現実を見ればわかる。マネーエネルギーの還元が消失しているのです。

師弟不二の創価は「我、太陽なり」「我、創価なり」との体感・体験する者の中

に現象化するのです。このことを「一凶を禁ぜん」と言うのです。今日「創価」

とは組織の名称にすぎません。生命現象としての「創価」は「今、ここにいる」

自分自身のことなのです。だから「君よ立て、我も立つ」となるのです。ここに

感動と歓喜が湧き起こるのです。

組織・集団に属する時代から「一人、一宇宙」(ひとり、ひとうちゅう)「一人

、一人創価」(ひとり、ひとそうか)の時代への転換が今、もたらされているの

です。日蓮仏法の真髄はどこまでも「一人立つ」ことなのです。「一凶を禁ぜん

」とは「一人立つ」との「気づき」によりもたらされるのです。閲覧する方々の

「気づき」しだいなのです。

組織に依存・期待する愚考からの脱却です。

 
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