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ひかりさんに全く同感です。ずっとずっと前から奴らはイカレていたんですね。昭和54年はいまだにうごめいているということ。それに我々は気づけなかった。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/44354
いま思えば池田先生は我々に「お人好しじゃいけない。騙されちゃいけない」「気づけ! 気づけ!」と教えて下さっていたんですね。
ストレートに聞かされたのでは、我々の力にならない。自力で気づかないといけないんですよね。そうでないと実力がつかない。なのに気づけなかった。
そのうちに「時」が迫って来て、前会長解任の時にその一端を教えて下さった。それでもまだ我々は気づかない。もう、かなり危ないところまで来ているというのに。
いま思えば、1990年の第二次宗門問題(正確には第一次も)は本部腐敗・亡国の“余震”だったのですね。あれが“本震”と思い、思わされて油断していたら、たいへんなことになってしまった。熊本の地震から学ぶことは多いです。
地震を仏法からどのようにとらえるか。配慮から削除される前の投稿をたまたま私は見ていました。
1995年の阪神大震災があった時、地域の幹部が言っていて、私も同じことを考えていたのですが、法華経では、地震の後で地涌の菩薩が地面から出現します。
その下手な知識から、ああ、これから広宣流布が進むんだ、とファンタジーな世界に行ってしまい、油断した私の地域では地涌の菩薩は地面から出ることなく、死んでいった。
法華経の地涌の菩薩は「気づいた」から自らの実力で地面から涌き出て来たのですね。
さあ、今度こそ気づけるか。あるいはこのまま奴隷あつかいされていることにも気づかず、亡国の道をたどるのか。それのみならず、新しい世代の人たち、子孫をも道連れにするのか。彼らは池田先生のいない時代を長く生きていくことになる。彼らは「先生を知らない子供たち」になってしまって、「戦争を知らない子供たち」ではいられないかも知れない。
2008年頃でしたか、池田先生は「いま学会は再び発展できるかどうか、分かれ目にある」と言われていました。この「分かれ目」の一方は「発展」であることは明快ですが、ところで、もう一方とは? どっちへ行く? どっちへ連れて行く? 私自身がまだビビッていますが……我々の責任は重大に思えてならない。(だからビビッています。)
“また一人、倒れていく また一人、やられていく また一人、倒れていく また一人、倒れていく”
“人を傷つけ、足で踏みつけるようなやり方は、 それこそたんとあるだろうさ 叩きのめすことも だますこともできるだろうさ さんざんに脅しをかけ、 ヤバイとなったら、さっさと捨て去ることもできるだろうさ”
“でも、俺は覚悟が出来てるんだ そうさ、あんたに(立ち向かう)覚悟がな”
“俺は自分の足で、しっかり立っているんだから”
(『地獄へ道づれ』クイーンhttps://www.youtube.com/watch?v=rY0WxgSXdEE)
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