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虹と創価家族様
恐怖心によるカルト化」、「恐怖心による信心破壊」について
横からすみませんが、私はこう思います。
下記の講義の部分に
「生死とは、はかなく消えてしまう相対的な幸福である。信心を根底としたときには、本有常住となっていくのである」とあります。
生死さえも、南無妙法蓮華経に根ざした永遠の生命観からみれば、なにも恐れる事はないのです。
他国からの侵略も、本来為政者達が全ての生命に内包している仏界を信じ、対話の努力を惜しみなく続ける事、そしてそれを惜しみなく後押しするのが私達の使命だったのではないのでしょうか。
それを今の多数の学会員は忘れています。
そしてもう一つわすれてはいけないのは、最終的には全ての生命の縁起の宿業である限り、私達一人一人の宿業転換の深さにかかっているのです。
その為に正しい信行学を怠ってはいけないと大聖人はおっしゃっています。
行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべ
諸法実相抄P1361
公明党に投票しないと罰があたるとか、鉄鎖に縛られた様なカルトの罠に陥るのは、私達は本来、桜梅桃李、当体蓮華の自受用報身無作三身、つまり大聖人と同じ「ほしいままにうけもちいる身」を顕現できるのですが、
その事に無知な「無明」からくる、主体性のない、生命の本質に暗い精神状態からくるものです。
その悪の鉄鎖を断ち切る解決法も、やはり上に挙げた修行です。
以下 先生の「御義口伝講義」より
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/232/newpage1.html
0790 涌出品top
湧出品
02 昼夜ニ常ニ精進ス 為メノ レ求ンカ2仏道ヲ1故ナリ
タル モトメ モトヨりナリ
此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。 ・
湧出品第十五に「昼夜常に精進す、仏道を求めんがための故なり」とある。これは、昼となく夜となく、昼夜を分かたず信心修行に精進しているのは、仏道すなわち最高の幸福境涯を得んがためであるとの文であり、これについての御義口伝である。
下に読み方を変えて、一歩深く論ぜられていわく「仏道を求めんが為の故なり」は「仏道を求めたることもとよりなり」と読むことができる。これは昼夜に常に精進していくこと自体、すでに仏道を成就していくことであると、因果?時に読んだ立ち場である。
次に経文全体の御義口伝にいわく、この文は、わが一念に億劫にもわたる辛労を尽くして自行化他にわたる仏道修行に励んでいくならば、本来、自分の身に持っている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである。いわゆる南無妙法蓮華経ととなえていくことそれ自体は精進行である。
われらは、昼夜に常に、一生成仏のため、隣人のため、社会のため、進んでは全人類のために精進し、一日として怠ることはない。これ、この経文に生きた実践の姿であり、ここに無作三身如来の大智慧が湧現せぬ道理はない。いわんや、何百万、何千万の勇猛精進の人々の、誠意の結集こそ、全人類の平和を築く、叡智の奔流であると訴えたい。
世間にも、精進の姿はある。いわんや、最高の幸福を実現する信心の世界に精進がないわけがない。
しかもわれわれの精進は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布、世界平和達成という、最も尊い目標に向かっての精進であるがゆえに、これ以上の崇高なる使命をもった精進は絶対にありえない。
仏法でいう精進とは、精は無雑の義、進は無間の義である。無雑とは、八万法蔵の奥底、要中の要たる南無妙法蓮華経を、余文を雑えず唱題していくことである。無間とは間断なくとの意で、絶えず勤行唱題、折伏行に励み、常に前進していくことである。
したがって、絶えざる前進がなければ精進とはいえない。たとえ、信心していても、妙法以外のことが、その人の根底となり、形式にながされておれば、精進ではない。
ここに、日蓮大聖人は、われらに、一念に億劫の辛労を尽くすべきことを、示されているのである。
一念に億劫の辛労を尽くされたのは、いうまでもなく日蓮大聖人であらせられる。われらの辛労は、億劫の辛労とはいえない。しかし、広宣流布のため、自己の全生命力、全智慧、全能力をかたむけて戦うことが、この経文を身読したことに通ずるのである。
世間の諺にも「一念岩をも貫く」という言葉がある。日蓮大聖人も、石虎将軍等の例を引かれ、一念を込めて事に臨むならば、どれほど大きな力を生み出すことができるかを説かれている。
われらの一念は、信心の一念であり、この一念があれば、いかなる事をも成就していけるのである。しかも、もったいなくも「無作の三身念念に起る」と説かれているではないか。
大聖人のお智慧を頂戴し、生命力を湧現していけるのである。偉大であり、すばらしいことではないか。
この御文を確信するとき、何事か恐れるものがあろう。たじろぐ必要があろう。ただ、全生命を、そこに注ぎ込むことだ。全力をあげて戦うことだ。それが即、仏智とあらわれ、仏の振舞いと変わっていくのだ。どうか、この強い決意を、常に湧き起こし、自己の力強い人間形成を行ない、事の一念三千の揺るぎなき自己を確立していただきたいことを希望するものである。
0790 寿量品top
寿量品
03 如来ハ如ク レ実ノ知2見シ給ウ三界ノ之相ヲ1無シ レ有ル2生死1
此の文は万法を無作の三身と見るを如実知見と云う無作の覚体なれば何に依つて生死有りと云わんか。 ・
寿量品第十六に「如来は実の如く三界の相を知見し給う生死有ること無し」とある。この文についての御義口伝である。
如来とは本地無作三身の仏であり、末法の御本仏、日蓮大聖人のことである。三界とは欲界、色界、無色界で、本来は六道の境涯をいうが、ここでは全宇宙と考えてよい。
この文について、大聖人の仰せには、宇宙の万法、あらゆる現象を無作三身、すなわち南無妙法蓮華経と見るのを如実知見という。無作の仏の当体であるから、生生死死、流転することはなく、本有常住なのである。
日蓮大聖人は、宇宙の森羅万象を知見された仏である。「万法を無作の三身と見る」とは、境智二にして不二なるがゆえに、境に即して智をあらわされている。無作の三身とは、いうまでもなく南無妙法蓮華経である。宇宙即南無妙法蓮華経であり南無妙法蓮華経は大聖人の生命であり智慧である。
三世諸仏総勘文抄にいわく「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0561-18)と。
しかして、この境地に立ったときには、同抄にいわく「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て 我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」(0563-07)と。
凡夫は、大聖人の教えに随い、南無妙法蓮華経の御本尊と境智冥合することにより、同じく宇宙即我の境涯を得、我即宇宙と智慧を開くのである。
「本覚の寤」とは、所詮、御本尊に対する強き信心である。この信心に立った場合には、生死に左右されない強い生命と、永遠に続く福運とを積んでいけるのである。
また、生死とは、はかなく消えてしまう相対的な幸福である。信心を根底としたときには、本有常住となっていくのである。桜の花にたとえれば、世間の幸福は、根のない、切り取られた枝のごとき存在であり、立ち枯れてしまった木のようなものである。信心している人の幸福は、大地に根ざし、生命がかよっていて、尽きることがない。
嵐に少々枝を折られようと、常に若い枝が伸びていく。また、冬の間は、葉も落ち、枯れたような状態になるが、春が来れば再び芽を吹き、花を咲かせ、葉を茂らせる。妙法を受持した人の福運は、まさに枯れることがないのである。
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