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続きます・・
さて、三位房も、初めから退転しようと思って信心していたのではなかった(笑)。
彼なりに真剣に励んでいた時期もあった。しかし、次第に年齢を重ねるうちにつれ、
当初の純粋さを失っていった。そこに重大な落とし穴がある。
現代においても、青年期は華やかに活躍していても、壮年になると
なんとなく元気がなくなり(爆笑)、晴れがましい活躍の場がすくなくなると、
次第に仏道修行から遠ざかっていく人もいる。
青年部には比較的、自由奔放な舞台がある。それに対し、壮年部は地味かもしれない。
青年期の活動のように、すぐに思う通りの結果が出ない場合もある。
現実の生活に根を張った壮年の指導や激励は、それだけ大変である。
しかし、そこには本当の信心即生活がある。にもかかわらず、次第に潔い信心
をなくしていく人がいるのは、まことに残念なことである。
要するに、青年期の炎のような信心は、壮年となり、また、高齢となっても、
一生涯、素晴らしい信心と人生を推進するための炎でなければならない。
これが、いわゆる観念の信心と、水の流れゆくような、まことの信心との違いである。
青年部の方は、よくよくこの一点を見失わないでいただきたいと思う。
退転の構図は後世の戒め
ともあれ、こうして三位房は、ついに師・大聖人を裏切り・敵対した。
しかし、厳罰は厳然と現れ、弘安二年不慮の死を遂げてる。
中略
これに対して三位房は、桑が谷問答の翌年頃から始まった熱原法難の最中に退転する。
大聖人門下に降りかかった大難である。大聖人も、日興上人も大変ご苦労され、
門下を守るために戦われた。その渦中の退転である。そればかりか、反逆者として
大聖人門下を迫害する側に豹変してしまった。
本来ならば、身を投げ出して、同志を後輩を守るべき立場である。
また、教学と雄弁を持って、人々に退転するなと激しく叫んできた人間である。
それを自ら退転するばかりか、迫害する側にまわる。
本当に恐ろしいものは人の心である。まことに無責任極まりない、
人間として最低の卑劣な姿であると言って良い。
かの4人衆も全く同じである。
引用終わり・・もう少しお読みになりたい方・・池田大作全集69です。
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