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「変わる」から「超える」
「相対的現象・現実」は「変わる」に固執する。「意識機能」は「変わる」「変
える」ためにあるのではない。「超える」ためにある働き作用である。ここがわ
からないと「変わる事」に意識が向き、絶えず「作用反作用」の中にいて「正」
「反」の敵対関係が生じ「闘う事」が必定となる。「仏法は勝負を先とし」とい
うのは「超える」ことによる「絶対的勝利」を言うのである。相対的な中での「勝
負」を言うのではない。徹頭徹尾「勝つ」ことを言うのだ。
「変わる」「変える」は思考の世界である。「超える」は「絶対的現象・現実」
による働き作用である。苦悩することは「変える」ことをもたらすためにあるの
ではない「超える」ことに「気づく」ためにあるのだ。
朝から晩まで、365日「闘う」ことは相対的現象・現実の中では、必ず反動が
起きる。「法華経の兵法」とは「超える」ことにより、もたらされる「智慧」で
あり「慈悲」なのだ。だから「闘い」は痛快であり、爽快なのだ。
このことを知らずして相対的な見方で「仏法は勝負を先とし」と思い「闘っても
」辛い、疲れるのである。本当にご苦労様となる。「変える」のではなく「超え
る」から「現象」として見る事ができるから、すべてが「ご仏智」「仏の御はか
らい」を了解するのである。
「相対的な現実」にいると、「人」を「人」として見てしまう。「対象化」する
からである。「対象化」することにより理解が深まるが了解にはなかなか至らな
い。しかし、民衆救済という視点からの最高の方法として見た場合、対象化せざ
るをえなかったと思われたのが日蓮大聖人である。なぜならば、南無妙法蓮華経
を顕し、御本尊を具現化し、見える化することにより万人成仏を示され実践さ
れたのである。
池田先生が7つの鐘が終了し、新たな7つの鐘をという提言でされた本部総会で「
広宣流布は流れであり、生命の流れである」と指導されている。このことは「生
命現象」としての見方であり、仏法流布という現象を述べられていたのである。
「『人』として見る」・「『法』として見る」という区別がないと了解できない
指導である。
思考でとらえると混乱する、わからなくなるが、区別して見るとわかるのである。
「相対的」現象を見るとは「法」と「人」、「法」とは生命現象そのものであり
、「人」とは「対象化」した「個」として区別する見方なのだ。
身近な事で言うならば「『人』」として見ると『縁』に紛動され、『現象』とし
て見ると『縁』に紛動されない」ということだ。頭で理解しても難しく感じるが
、自分自身の日常生活の体験を通せば誰でも了解できることなのだ。
例⇒女房の一言に怒りを感じる(作用反作用)「女房」という「人」として見て、一言(縁)が怒りとなり現れる。
⇒「女房の一言」を「現象」として見ると了解できる。受容するという現象が自分自身の中でもたらされるのである。
相対的関係という二項対立を「超える」方途が「法」を知る、「現象」を見る、
ということなのだ。だから「智慧」がもたらされるのである。「絶対的勝利」の方
程式である。
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