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「相対的現象・現実」ストーリーと物語

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 4月11日(月)05時18分7秒
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  「相対的現象・現実」ストーリーと物語

私たちは、相対的な現象の世界を現実だと思っています。人間の思考・概念の世

界です。また、この事は「私」「自分自身」が主人公として繰り広げられている

世界でもあります。

しかし、「相対的」と言うことは、そこには対象となる相手・または対象が常に

存在していることを意味します。

分離・分断された「個」として見ると常に「私」「自分自身」ということですが

、「自他」「対象」ともに同時に存在していることが「現実」なのです。ただ「

他者」との関係が失われている状態だからわからないのです。

「この世に生まれた」現象を認識するのは言語の修得過程において両親の「言葉

がけ」による「子育て」があって「私は○○だ」ということに「気づく」のです。

その多くは3歳前後です。その後、時間の経過とともに「私」「自分自身」とい

う意識が形成されていくのです。「自分自身」という形成された「個」は、何か

起きるたびに自己確認を自発的にするようになっていきます。「なんで」「どう

して」等と言う問いかけが内在することになるのです。その「なぜ」「どうして

」の答えは周辺の大人・兄弟に尋ねても、納得する答えは得られません。「自分

自身」の問いかけとして、しまい込んでしまうのです。

そうこうしているうちに、幼稚園・小学校・中学・高校・大学へと進み、社会化

された「自分自身」を意識するようになります。大学を卒業し社会人になり、山

、谷を超え、結婚し、というような過程を経ていきます。そして子育てが始まり

、老後を迎え、あらためて、しまい込んでいた「問いかけ」が出てきます。「な

んで」「どうして」「私は、結局、なんだったんだ」と言う「疑問」を残し、旅

立って行くのが多くの人々が言う「人生」という現象なのです。

つまり、人は誰でも、生まれてから死ぬまで、ストーリーを作りながら「私」「

自分自身」という物語を生きているのです。このことを「生命現象」から見るな

らば「私」「自分自身」は生命現象の「現れだった」ということなのです。逆説

的に言うならば「生命現象」が「私」だったということです。このことに「気づ

く」ことを「悟り」「体感覚知」「非二元」等と言うのです。

固有名詞の「私」は、たまたまであり、「私」は他者にとっての「鏡」という現

象であり、他者は「私」の鏡という現象なのです。それが「相対的現象」の意味

です。その現象を「現実」として見てしまうので「相対的現象・現実」と言うの

です。

「私」というストーリー・物語は、対象化する他者、環境、時間・空間により彩

られているのです。「自他」という相互作用が働いているのです。

「人間」には、常に「問いかける」特性があり、その問いかけ、意味することの

答えとして、仏法では、因果倶時・願兼於業・在在諸仏土常与師倶生・宿命転換

・煩悩即菩提等々の現象的な現れを述べたのです。

つまり、相対的な現象・現実の中で「個人の救済」を促す、気づきをもたらすた

めに、「自分自身の意味付け」として展開されたものなのです。

釈尊の悟り、日蓮大聖人の一生等々は、現代を生きている者にとってはストーリ

ーであり物語なのです。つまりストーリー・物語を語る事により「自分自身」と

いうストーリー・物語を生きているのです。相対的現象・現実には、そこにいる

人の時間・空間により「始めから終わり」という直線的な流れがあるのです。そ

して、その流れには絶えず「探求」の流れがあるのです。

「絶対的現象・現実」には、このような時間・空間、始め、終わり、探究は無い

のです。なぜなら「生命現象」そのものだからです。「生命現象」は無始無終よ

り「ただ在る」だけですから。この「絶対的現象・現実」からの「眼差し」が俯

瞰的な眼差しであり、仏の眼差しなのです。またこのような感覚が「南無妙法蓮

華経」の感覚なのです。「体感覚知」すれば、このようなことが「了解」される

のです。それが「智慧」であり「慈悲」の現れなのです。
 
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