「北島ロスになりそう……」。2004年アテネ、08年北京両五輪競泳で100、200メートル平泳ぎの2冠に輝いた北島康介(33、日本コカ・コーラ)がリオデジャネイロ五輪出場を逃し現役引退を表明すると、約20年間指導した平井伯昌コーチ(現・競泳日本代表監督)はこぼした。平井コーチだけでなく、日本競泳代表にとっても北島を欠いたまま臨むリオ五輪への喪失感とは何だろうか。
■「誰からも好かれる選手になって」
平井コーチは北島が国際大会のメダルを取る前から言っていた。「強いだけでなく、メディアからも応援され、誰からも好かれる選手になってほしい」。そして、今月10日の引退会見で「本当に誰からも好かれる立派な選手になってくれた。誇りに思う」と真っ先にたたえた。
誰に対してもオープンで話はウイットに富み、スポンサーから競技団体の幹部、先輩後輩まで男女を問わず慕われる――。北島はメディアを通したイメージと実像にほとんど差がない珍しいスター選手だった。本人の資質もあるが、「平井先生が北島康介のレースを作ってくれた」と話したように、2人が出会わなかったら、「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進さん以来のスーパースターが競泳界には生まれなかっただろう。
2人の出会いは1996年アトランタ五輪直後の東京スイミングセンター(東京都豊島区)。ひょろひょろしてタイムは平凡、特にコーチ陣から注目されていなかった北島に、初めてトップクラスの指導を託された平井コーチは引かれた。「明確な目標を提示したときの食いつき方がすごかった」。平井コーチが「あいつが食いつきそうな目標」を一つずつ示すと、北島は大きな大会で自己ベストを記録して勝ち始め、自信をつけていった。
「当時は平井先生のおかげです、なんて思ってませんよ。よっしゃー、オレすげえって思ってました。若い頃、試合でベストタイムが出ないことが続くと、周囲のせいにしたくなる。僕の場合はそれがなかったから、純粋に水泳に向き合え、コーチの言うことを聞けた。そのレールを作ってくれたのが平井先生」。平井コーチが出す課題は高いレベルであっても、北島が頑張れば到達可能なところに設定されていた。
00年のシドニー五輪出場もその一つ。本番では100メートル平泳ぎで4位。「スイムキャップをかぶるとき震えちゃって。何が何だか分からないうちに終わっちゃった」と北島。しかし、コーチの予想通り五輪という舞台に魅せられ、北島は誓った。「次は本気で勝負する」
この後、平井コーチは後に世界中のスイマーが手本にするフォームを身につけさせていく。生来のフォームを覆す泳ぎ方だったが、北島は迷わず挑戦した。
■フォーム改良、コーチと二人三脚
ストローク数は少なく、限りなく体を水面と平行に保つストリームラインをつくり、抵抗の少ない泳ぎをできたら、100メートルに必要なスピードも出るうえ、体力のロスを抑えて200メートルでも戦える――。
これが平井コーチの頭の中にあった理論だった。コーチが「こうしてみて」と話すと、北島がプールで実践し、感覚的に合わない部分を伝え、コーチが修正する。前例のないことだから、うまくいかないこともあった。北島が競技人生で最もつらかったこととして挙げた02年パンパシフィック選手権横浜大会での棄権の原因は肘痛で、フォーム改造のために取り組み始めた筋トレが遠因でもあった。