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「祈り」について リオ 様 2016.4/8.9:51.
「躊躇しましたが、思い切って質問させていただきます」勇気ある質問、有難う
ございます。閲覧する方々でリオ様のように疑問を持つ方々も多いようです。
仏法は生命論であること既に何回もお伝えしておりますが、少し整理してお伝え
します。
1-「祈り」という「生命現象」を見ていくと、宗教的な「祈り」は、古今東西
の宗教やシャーマン・イタコ等や部族等の長老、魔術、魔法に見られる現象です
。それらの「祈り」は宗教的な儀式となり、形式化、形骸化という文化を形成も
たらせています。
宗教の発生メカニズムについては、生命が内包する「光合成」による現象である
ことをお伝えしています。ちなみにチンパンジーのボス、または地位の高いチン
パンジーにも見られる現象であることは群行動の研究から知られています。(1980年代の研究)
自然に対する畏敬、尊敬・感謝する生命現象を人間は「言葉」により「祈り」と
いうことに置き換えたことに「祈り」の始まりがあります。このような現象は人
間が群行動することから誕生したことが古代壁画や洞窟画で証明されています。
その多くは「太陽」を崇拝し感謝するものです。人間は生命的存在です。素朴な
感情として「祈り」という現象があるということです。
人間が「祈る」のは、自然な現象なのです。残念ながら「祈る」ということを宗
教に結び付けてしまう思考が歴史的に定着化してきてしまったということがある
のです。「祈る者」の一方的な「願望」「欲望」へと転化してきたのが人類史的
な事実です。そして、それが現代に多く見られている「祈り」の現象です。
宗教的な枠組みで見ると「祈り」という素朴な現象を権威主義的、権力側の統治
目的に利用しているのが今日の宗教の現状です。
「祈り」とは「光合成」という自然現象の現われなのです。「祈り」という言葉
を生命現象から見ると「自然回帰願望」であり「帰趨本能」「全体性への回帰」
等と言えます。
「こうなりたい、こうして下さい」等の「祈り」は、様々な目的に対する願望、
欲望の表現なのです。人間的な自分の都合による思考・概念なのです。
「祈り」は英語で表現すると「プレイヤー(prayer)」となります。また「プレイ」
(Play) は、「何かをやる」人のことでもあり、英語の「play」の意味から、
「player」が意味する範囲を直接・的確に表現する日本語を見つけることは難
しいですが、演技者、または表現者と言われています。
プレイする人には、「祈り」の現われとして「何かをする人」との意味が含まれ
ているのです。
つまり、今ここにいる事が「祈り」の現われであり、過去、現在、未来にわたる
意識の現われ方が「祈り」の本質なのです。
「なぜ祈り」があるのか、人間中心の思考から見ると、それは「自分の思う通り
にいかない」という現実に対して「思う通りにしたい」という願いがあるからな
のです。例⇒幸福になりたい。夢を実現したい等
人間中心の「祈り」ではなく「生命感覚」の「祈り」であることが本来の姿なの
です。
2-「自分自身の祈り」を見ていくと「救われたい」「助けてほしい」という切
実な願いがあります。日蓮大聖人は「祈り」の方法として「題目」を示し「御本
尊」を顕された事は御存じのことと思います。生命力・生命エネルギーを引き出
す方法を具体的に私たちに残されたのです。絶対的幸福境涯への道筋において「
魔」との闘い、覚悟を御教示されています。己心の魔、外の魔の働き作用に対す
る立ち向かい方です。「立ち向かう」ことが自分自身の絶対的な幸福境涯となる
のです。ここまでは、みなさんよくわかり、納得します。
しかし、リオ様の言われるような、組織からの撲滅等という祈りは、すり替えで
あり、組織の都合と言う自我機能、エゴです。言われて「祈る」のは自発的でな
いので歓喜はありません。見ればわかること、3.16目指して3時間唱題会、
自発性のない唱題会は疲れるだけです。価値判断を誤っているのです。創価の信
仰・信心は、言われてやるのは初心の頃です。なにもかもわからないから、指導
を受けながらやるからです。以降「祈り」は常に自発的なものです。強制するよ
うな信仰・信心はもはや宗教ではありません。宗教という名のエゴ集団にしかす
ぎません。広布の闘いという「組織」が組織維持・拡大のためにという「組織悪
」が先行している現象なのです。
宗門問題が勃発し「日顕宗撲滅唱題会開催」という上からのお達しがあった時、
私は「お前ら、馬鹿か」と思いました。組織が弱体化するのを恐れ、執行部が勝
手に弟子の闘いと称して打ち出したのです。撲滅と言う名を借りた組織防衛の策
だったのです。身近な外に向け仮想した「敵」を対象化することは相対的現象・
現実の世界では当たり前の猿智慧レベルの方法です。このころから弱体化する組
織の引き締めのために、もっともらしいことを言い、指揮取るのが創価の執行部
の得意技となっています。広布の闘い方を知らぬお弟子がたの妄想的連携です。
「目に見える対象にレッテルを張り、それをめがけて攻撃する」人類の戦争の手
法と同じレベルであり、大人の組織的「いじめ現象」にしかすぎません。執行部
集団の臆病さが露呈しただけの現象です。智慧無き無能集団だからです。智慧あ
るふりをしながら墓穴を掘っているのです。もはや信心の世界ではない、世法の
世界での焦りの現象なのです。
「日顕宗撲滅唱題会」あれから38年以上たつのに「撲滅には至ってはいない現実
」ちなみに日顕はまだ生きています。この事を理解できないほどの愚考がまかり
通っているから、今回のようなバカげた方針を打ち出すのです。自称お弟子さん
方の愚考は見事に世代を超えて継承されているのです。
今回の様々な現象は、創価の一人一人に本物の信心を促すキッカケとなるもので
す。いいことです。なるようになっていくからいいのです。
ここで求められるのが個人の信心の純粋性なのです。「おかしい」と感じたら「
やらなければいい」のです。中途半端だから揺れ動くのです。「やらないと罰が
出るのでは」「功徳が無いのでは」と臆病な生命が出てくるのです。
だから組織依存・期待の信心は揺れ動くのです。執行部の方々ならばなおさらで
す。かわいそうな事です。
「祈り」の本義から外れた「祈り」は必ず「作用反作用」の影響を受けます。38
年間の方々の身の振り方を見ればわかること。「正義」と言う名の祈りは「悪」
の結果をもたらすのです。「人の不幸を祈る」ことなど池田先生は指導していま
せん。「悪を攻める」という戦いは、どこまでも攻める側の「智慧」であり「慈
悲」です。だから広布が進展するのです。ここをはき違えている御都合信心の方
々が多いのも現実です。
まじめに、正直に、素直にやれば「日々歓喜」「日々楽し」です。迷いながらや
るから辛い、苦しいのです。
この板は、様々な境涯の方々が閲覧し、投稿しています。いちいち鵜呑みにする
必要はありません。反応と言う現象ですから、行き場のない不適応者や組織スト
レスのはけ口として投稿している人もいます。こうしたことも頭に入れて、それ
ぞれの反応を見ていくのもネット時代の学びです。無批判な同調、賛同は馬鹿を
みます。どうでもいい事です。
ボロボロの組織だからこそ、この板の閲覧者が増えているのです。自然に蘇生が
もたらされるのです。
信心は楽しく、祈りは喜びで、日々の生活は遊楽と定めていけば、結果は、おの
ずともたらされるのです。
幹部だから、最高幹部だから、主任副会長だから、組織上の肩書にしかすぎませ
ん、人格者をいうのではありません。みんな、ただの人なのです。ただの人が狂
っているだけなのです。それを選択していると言います。
リオ様も楽しく「縁」に紛動されずに、絶対的幸福境涯の体感・体験のために、
祈っていけばいいことなのです。
いろいろな考え、いろいろな意見、全ては考え、意見であり、何も変えられませ
ん。「超える事」を知らないからです。
まずなによりも「変える立場ではない自分自身の現実」を知らなすぎる愚考者は
数多くいても、それだけのことです。「変える智慧」、「超える智慧」が求めら
れているのです。
今回の撲滅・衆参同時選挙・安保法制・TPP・消費税等々、俯瞰的な眼差しで
みることができると楽しめます。
なぜならば「生きている」から「生かされている」という次元に意識がシフトす
るからです。
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