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「修行」について
仏法の生命論から「修行」についてお伝えします。
(このことは、思考・概念からのアプローチです。体感度、感知力が高まると、
このようなアプローチは必要なくなります。なぜなら自然にわかるからです)
一般論として「修行」は、作法、しきたり等を言い、宗教上の「修行」と職人の
「修業」とに区別されています。
「修行」とは、文字通り「行を修める」ことを意味し「自己機能」の働き作用を
行うことです。そこには一切の「自我機能」は関与していません。指導者の言わ
れるままに「ただ行を修める」ことに努めるのです。
「行」とは「自己機能」を活性化させること、定着化させることによる体感・体
験の促しだったのです。その目的は、
1-「自律」「自立」を体感・体験することにより「自分自身」の基盤を創り上
げることにあります。
2-基盤を基に「自分自身」が仏であり、救済者であることを体感・体験するこ
とにあります。
「修行」と類似の用語に儒教の「修身」があります。家族・社会という集合体で
求められるのは、「自分自身」の身の修め方です。身の修め方は、「しつけ」で
もあります。「しつけ」は地域社会に適応するために親や家族から促され自分自
身の在り方を自得することです。
歴史的に言うならば日本の仏教界の「修行」は儒教の修身の教えと仏教の作法が
中国で統合されたものが基本になっています。
中国の天台大師や達磨大師等は「仏になるための行」として修身の方法として禅
定・坐禅・ヨーガの呼吸法等を取り入れ、現代に通じる「修行プログラム」を考
案したのです。古今東西の仏教各派にも同様にこのような思考・概念が定着して
います。
残念ながら歴史的な変遷の中で「修行」は「仏になる」ための自分の修行となり
、衆生を救済する修行がなおざりにされてきてしまっています。分離・分断の働
き作用です。
しかし、鎌倉時代に出現なされた日蓮大聖人は、釈尊の説いた「成仏」と「衆生
救済」の具体的な「行」を展開されたのです。「唱題行」です。成仏と衆生の救
済は「同時」にもたらされるのです。前代未聞のことでした。「法のため」「民
衆救済のため」の「生命現象」の「技法」が確立されたのです。
さて「自己機能」と「自我機能」の関係についてお伝えてしておきます。この関
係は、いつも言う通り「相対的」「二項対立」の関係にあり「作用反作用」が働
いております。
「自己機能」が活性化すると「自我機能」が反発し現象化が生じます。
例⇒意地になる。むきになる。力を入れすぎ、力が抜けない、⇒ストレス反応と
して現象化する。
逆に「自我機能」が活性化されると「自己機能」が反発し現象化されます。
例⇒胃痛・下痢・消化不良・消化器系、呼吸器系等⇒ストレス反応として現象化
します。
どちらもストレス反応として現象化するのが見られるという事です。この現象は
「バランス回復改善」の現象化です。消化器系の不良不全はどちらかと言うと「
自己機能」のアンバランスです。
うつ傾向・循環器系の不良不全は「自我機能」の過剰反応です。
「意識機能」は「自己機能」「自我機能」をコントロールする働きをしています。
「修行」とは「意識機能」「自己機能」「自我機能」のバランス回復改善を言う
のです。なぜならば私たちは自身という「体」により生命現象をもたらされてい
るからです。
★番組紹介⇒禅宗の「体感ワーク・トレーニング」として鑑賞していただければ
と思いますが、どうしても「生命現象」として見れない方はスルーして結構です
ので。
「禅宗の修行」を紹介したものですが、「生命現象」という視点「修行」という
「自己機能」の活性化という観点で見て下さい。⇒生命現象には宗派はありませ
ん。あるのは働き作用だけです。この事が理解できない方々は思考・思い込みの
人です。
自己機能の感覚を高めるための行法が1日中、生活の中に組み込まれています。ま
た山奥という場所の選定は、静寂・明晰な環境をあえて選んだということにあり
自然の中で⇒自分自身が自然とともに生かされ、自分自身も自然であることに気
づくためでもあったのです。
大聖人も令法久住のために身延に入られたことと同様な現象だったと見る事がで
きます。
「全身全霊」という言葉がありますが、「全身全霊」になれる場としての山だっ
たのです。山にこもり修行する意味は「生命現象」から見ると「自然」を体感し
自分自身という自然を体感するためにもたらされた智慧でもあったのです。
(「山にこもる」ことをすすめているわけではない誤解しないように)
日蓮仏法教学から見ると禅宗は、邪宗・邪義ですが、生命現象から見るとその現
象化は同じとなるということです。
★4月8日(金)NHKプレミアム午前8:00「新日本風土記」⇒「永平寺」
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