山本功児さん、肝臓がん64歳で死去 長嶋巨人、代打の切り札
巨人、ロッテで活躍し、現役引退後はロッテ監督や巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのため北九州市内で死去した。64歳だった。1976年に巨人入り。長嶋巨人の下で代打の切り札として活躍。84年に移籍したロッテでは中軸を務めた。99~2003年にはロッテ監督を務めた。ここ数年は、体調を崩して入退院を繰り返していた。長男はDeNAの武白志(むさし)内野手(18)。葬儀・告別式などの日取りは未定。
山本さんはこの日午前、北九州市の自宅で昏睡(こんすい)状態となった。最期は美砂子夫人に見守られ、武白志選手の手を握りながら、静かに息を引き取った。苦しんだ様子もなく、とても穏やかな表情だったという。
2008年から慢性心不全の治療を受けていた。武白志選手が九州国際大付へ進学した13年、横浜市から北九州市へ転居。14年ごろから再び体調を崩し、入退院を十数回繰り返した。
そんな中、身を削って、愛息を応援した。昨年7月、「(14年に続いて)武白志をもう一度、甲子園へ行かせたい」と、夏の高校野球福岡大会中、病院にも行かず球場のスタンドで声をからした。昨秋から体調を崩して、再び入院。今年3月12日に退院した後は「頑張って歩けるようになって、横浜へ息子を見に行く」と決意。自宅で懸命に闘病していた。
山本さんは中学時代から183センチ、75キロの体格を誇った。三田学園高3年の69年、1学年下の淡口憲治(元巨人)とクリーンアップを組んでセンバツ8強。同年ドラフトで南海から3位指名を受けるも、東京六大学野球に興味を持ったこともあって入団を拒否。法大、本田技研鈴鹿を経て75年ドラフト5位で巨人に入団した。1年目から代打および一塁・王貞治のバックアップとして1軍で活躍し、76年の長嶋巨人V1に貢献した。
79、80年には第43代4番打者を計7試合務め、4番で通算29打数11安打の打率3割7分9厘、2本塁打。81年の巨人・中日戦(後楽園)で、遊撃・宇野が飛球を頭部に受けてボールが大きく跳ねる“珍プレー”があったが、この飛球を打ったのが山本さんだ。84年に三宅宗源投手とのトレードでロッテへ移籍。落合博満とともに打線を支え、初めて規定打席に到達。2年連続でダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞した。
88年の現役引退後、99~2003年にロッテ監督。いずれの年もBクラスに終わったが、福浦、サブロー、里崎、小林宏らを辛抱強く起用し、05年優勝の礎を築いた。04年に巨人2軍ヘッド兼打撃コーチ、05年に同1軍ヘッド兼打撃コーチとして堀内巨人を支え、06、07年にはスポーツ報知評論家も務めた。
◆山本 功児(やまもと・こうじ)1951年12月25日、大阪府生まれ。三田学園高から69年ドラフトで南海に3位指名されるも、法大へ進学し、ベストナイン2度。日米大学野球にも2度選出された。本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て、75年ドラフト5位で巨人に入団。84年ロッテへトレード移籍し、88年引退。引退後はロッテのコーチ、2軍監督を経て、99~2003年にロッテ監督。04、05年は巨人のコーチを務めた。
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