以前の記事でも書いたが、会社に縛られて、妻や子を養う給料をもらうためだけに、
自分が本当にやりたいことや好きなことを犠牲にして「社畜」として生きる
現代日本のサラリーマンは奴隷と大差ない。
特に、就職活動なんて、「奴隷市場での競り」と大して変わらない気がする。
人間に値段を付けるべきではない
就職や転職などの求職活動を通して、
「自分に値段が付く」「自分が値踏みされる」という経験は、
尊厳を持っている、どんな人間にとっても後味の悪いものだ。
何故なら私たちは、心の底では、
自分という一人の人間は、掛け替えのない存在で、
お金なんかで測られるような「物」ではないと強く感じているからだ。
「働かないと食べていけない世界」は奴隷制と大差ない
前回書いたこの記事の中で
現代人は奴隷制度を野蛮な過去の遺物と見なしているが、
現代のように「働かないと食べていけない世界」も
奴隷と大差ないのではないかと語った。
「職業の選択の自由」のウソ
ほとんどの社会人は、自分を奴隷とは思っていないだろうが、
私たちは奴隷と異なるのは、
奴隷よりも多少なりとも職業の選択の自由があることだけだ。
その僅かばかりの自由である「職業の選択の自由」と言っても、
実際には、自分の生まれ育った環境に大きく左右される。
裕福な家庭に生まれた子供は、高い教育を受け、
所得の高い仕事を選べるのに対して、
経済的や社会的困難を抱えた家庭に生まれた子供は、
幼少時代に勉強に打ち込む環境が整っていない。
学歴社会は古代中国の「科挙制度」と同じ
学歴社会である現代日本では、学歴による明確な差別が存在する。
学歴(や性別)によって就職や出世のコースが明確に差別されるのだ。
現代の学歴社会を見る度に、私は封建時代の中国の「科挙制度」を思い出す。
「科挙制度」とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、
約1300年も行われた官僚登用試験である。
そのように考えると、
生まれた時点で身分や職業が決まっていた封建時代から
現代の日本は、そこまで進歩していないのかもしれない。
「生まれ」によって将来が決まる
そして18歳までの勉強量で決まる学歴というのは、本人の努力よりも、
生まれ育った家庭環境(もっと言えば経済環境)に大きく影響されるのだ。
裕福な家庭では、塾や家庭教師、予備校などに、ふんだんにお金を使えるし、
私立の幼稚園や小学校から大学までの学費を準備できるが、
経済状況が厳しい家庭では、公立学校の授業内容で我慢しなければいけない。
情報革命が社畜を解放する
しかし、産業革命が過去の奴隷制の廃止を促したように、
(奴隷制の存続を巡っての有名なアメリカの南北戦争で、
奴隷制廃止を訴えた北部は工業化された地帯で奴隷が不要になっていた)
現在の情報革命(コンピューターやロボット、人工知能)が、
現代日本の奴隷である社畜たちを解放する日も近い。