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日顕宗との対論でよく見かけるのが「御書のこの部分は、後加文である」とか「この御書は偽書である」という論理で、
相手の土俵に始めから乗らないやり方。
逆に日顕宗の場合は、「この御書を文底で読むと○○だ」という文底読み。
双方それぞれが己の主張を持ちながら対論するわけだが、真実を追求するというよりは、
いかにして相手に勝つかに重点が置かれているように思う。
創価学会内部でも同じようなことになりつつあるように感じる。
「200○年までの新・人間革命は、池田先生御真筆の小説である」とか「201○年以降の新・人間革命は偽書である」という主張。
もしくは「今日の新・人間革命を文底読みすれば○○である」という主張。
このような論争が会内で当たり前のように繰り返される時代が来るのかも知れない。
日蓮正宗の中から産声をあげた創価学会が、日蓮正宗と同じような道を歩むのは当然のことなのか?
組織に対して怨嫉傾向のある人は、怨嫉を戒めるご指導があっても自分のことであると捉えられない人が多いようだ。
怨嫉に限らず、自分のことが書かれていても自分のことだと捉えられないことは多い。
果たして今の新・人間革命に先生の御心は無いのだろうか?
最近のメッセージに先生の御心は無いのだろうか?
「今日のメッセージには先生の御心が感じられる」とか「今日の新・人間革命は間違いだらけだった」とか「今日のご伝言は、第一庶務の新人が書いたみたいな稚拙な文章だな」とか「今日のご指導には感動した。先生ありがとうございます」等等。
同じ文章を読んでも感じ方は、人それぞれなのだろう。
御書の前文に「真偽未決のものも信心に資するものは云々」とある。
先生のご指導を都合よく読むのではなく、信心に資する読み方をすることが大事なことのように思う。
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