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変貌
いつも通う大学の近辺だが、あの日からは特別に思える様になった。
自宅から上野駅で降りて、そこから徒歩で歩いてゆくと芸術科と音楽科に別れた校舎が見える。
事前に調べておいた知識で音楽科の方の道を歩き、少し緊張しながら周囲の学生たちに何とか姿を溶け込ませようとした。
他の大学のキャンパスへ向かうというのは、興味のある講演がある時に足を運んだり、高校までの友人の大学の大学祭に付き合い程度に行くぐらいの経験だが、音楽大学という特殊な場所へ行くのは初めてだ。
そういう気持ちでいると建物からしてアーティスティックなものに見え、耳を澄ませば楽器の音色が聞こえて来る気がする。
通常、練習室などは防音になっているのだが、忠臣の聴覚は鋭い。
おまけに今は桜を探そうとしていて、視覚や聴覚、嗅覚を総動員させており、まるで警察犬だ。
それでもこんなに人が大勢いる中でたった一人を探し出す事が困難で、加えて忠臣の嗅覚が余計なものを拾って具合が悪くなってしまう。
仕方なくキャンパスから出て、桜のマンションへ向かう道にある喫茶店に入った。
上野公園などを目的に訪れた客で人気はあるが、それでも店員に人を探しているから席が空いたら窓側の席にして欲しいと頼み、席に着く。
ホットコーヒーを頼んでスマホを開き、一応桜にメールを送ってみた。
近くに来ているので会えないか、と。
夏季休業中になり、本日の彼女の予定は午前中に集中講座という事だった。
それを邪魔してはいけないので返事は急がず、スマホをテーブルの上に置いて窓の外に集中する。
どうして肝心な事について濁されているのか。
心配をかけたくないという気持ちは分かるが、これは二人の問題でもあるのだからもう少し自分に頼って欲しいという気持ちもある。
それよりも心配なのは、彼女が交際相手から何か言われたりしていないか、だ。
束縛する心理については分からないのでネットで調べてみれば、忠臣が想像もつかない世界が広がっていた。
何かあればすぐに浮気だと勘繰ったり、言葉の暴力、精神的においつめられた被害者の相談ページなどがネットにはある。
それを発展させればDVにもなるだろうし、事件にまでなってしまうケースも有り得る。
心配でならないが、それを思っていながらすぐに桜に会って自分も立ち会うとかを言い出さなかったのは、忠臣がこれまで平和に過ごしてきた所為もあるのだろう。
正直を言えば、嫉妬する気持ちというものがよく分かっていない。
今まで付き合っていた彼女が忠臣に嫉妬させようとして浮気をしても、「ふぅん」と思った程度ですぐに別れを切り出して平坦な生活に戻った。
桜に交際相手がいると知ってから心がザワザワしていたが、それはまだ明確な嫉妬にはなっていないのかもしれない。
どんな相手かも分からない。
そもそも、嫉妬という感情を自分が把握していない。
あの晩、桜がベッドルームで初めてという反応をしなかった事についてはモヤモヤしているが、彼女だってあんなにも魅力的なのだから、彼女を思う人間が多々いても仕方がないと思っている。
だが、これからもし桜を自分の恋人として迎える事が出来るのなら、誰にも渡したくないと思うし、大切にしたいと思う。
桜の綺麗さを滅茶苦茶にしたいという凶暴な部分があるのも事実だが、現実的に付き合っていくのなら、勿論紳士的に接して包み込む様に愛したい。
ろくに恋愛をした事のない人間の綺麗ごとかもしれない。
小説やドラマ、映画の世界の綺麗な恋愛を知ってしまって、現実を見ていないだけなのかもしれない。
それでも彼は理想の中を生きて来た人間だ。
ある程度の事は何でもスラリと一定の基準以上に出来るので、彼のスペックに嫉妬する一部の者以外とは、成績の面意外ではあまり衝突せずに生きて来た。
挫折という挫折はなかった気がするし、あったとすれば地下室で『あれ』を口にしてしまったあの日だ。
深みのあるコーヒーを一口飲んで視線は窓から放さず、仮にもし桜の姿を見落としてもマンションへ直接行けばいいかと思う。
自分でもこの行動が少しストーカーじみているとは自覚しているが、幾ら彼女が二股は出来ないと言っていても、友人として会うだけでもいいではないかという気持ちはある。
桜と会ったのが七月の本当に初めの方。
それが今は夏季休業が始まっている時期だ。
その間の期間一度ぐらいは会ってもいいと思うのに、桜は肝心な事は全てうやむやにしてしまう。
結果、業を煮やした忠臣が行動に出たのだ。
このままでは桜が京都に帰省してしまう。
蜃気楼が立ちそうな景色をじっと見詰めて、一時間ぐらいは経っただろうか。
見覚えのあるシルエットが道路を歩いてゆく。
暑いので髪をまとめていて、この間の印象の通り清潔感があって上品な服装だ。
ただ忠臣が内心首を傾げたのは、この暑いのに口元にマスクをしている。
だがその疑問を振り払って、忠臣はすぐに立ち上がって喫茶店を出た。
こういう時の為に会計は予め済ませてある。
クーラーの効いた屋内から再びジワッとする外に出て、桜の姿を追い駆けた。
「桜さん!」
忠臣の声が通りに響き、歩みを止めた桜がキョロキョロと辺りを見て振り向き、固まった。
自分を知覚してくれたと安堵した忠臣が、笑顔を浮かべて片手を上げると――
桜が走って逃げ出した。
「えっ?」
忠臣が間抜けな声を漏らして間抜けな顔になり、それでもすぐに走って桜を追い駆ける。
「待って下さい! 桜さん!」
「来んといて下さい!」
こんなシチュエーションだというのに、耳に入った桜の声が嬉しくて堪らず、またあの桜特有の甘い香りが漂ってきた。
ああ――
押さえられない。
やはり好きで堪らない。
「来ないで」と言って逃げている女性を走って追い駆けているというのに、忠臣は正直興奮していた。
こんな感情を持ってはいけない。
もっと紳士であるべきだ。
「待って下さい!」
すぐに距離は縮まって忠臣が桜の華奢な肩を掴んだ時、「痛っ」と小さな悲鳴を上げて桜が体を傾けた。
「えっ? 大丈夫ですか? すみません!」
すぐに忠臣が弾かれた様に手を離すが、桜は「いえ……」と苦痛を堪えた声で掴まれた右肩を押さえて、ぎゅっと体を縮込ませている。
「何処か怪我をしていましたか? 本当にすみません」
「いいえ……」
そこで桜がやっと顔を上げて、忠臣がギョッとした。
彼女の顔の印象の大半を占めている、大きくて感情をよく映す目元が青紫色になっていた。
それを見た瞬間、忠臣の全身からザッと血の気が引く。
危惧した通りになってしまった。
彼女が暴力を受けている。
忠臣の顔つきを見て彼が思っている事を察したのか、桜がすぐに口早に言い訳をする。
「転んだんです。マスクは風邪」
「……嘘はやめて下さい」
忠臣の端正な顔が苦しそうに歪み、また泣かせてしまうのかと桜が焦って首を振る。
「平気ですさかい」
「少し話は出来ませんか? 少しでいいんです。いま貴女に何が起こっているのか、それを知りたいんです」
「……」
通り過ぎてゆく人がチラッ、と桜の顔を見て、忠臣の顔を見てから、何か思う所のありそうな顔をして通り過ぎてゆく。
「お願いします」
忠臣が綺麗に頭を下げて数秒――
「頭、上げて下さい。今の喫茶店でええんなら、少しだけ」
「有り難う御座います」
ホッと息をついた忠臣が表情を緩め、泣きそうな顔で桜を愛しそうに見詰める。
顔に怪我があっても、桜の本質は変わっていない。
周囲をふわりと包み込む様な優しい雰囲気、顔立ち。
忠臣だけが分かるあの香りを、そっと鼻孔一杯に吸い込んだ。
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