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泥に咲く花 作者:桜海 雪
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苛立ち

 自宅のある西麻布から上野までの道のり、電車に揺られながら忠臣の心は小さな笹舟の様に翻弄されていた。

 もし、こうなっていたら。
 もし、ああだったら。

 過去にこうしておけば良かったという後悔と、今抱える不安。
 今自分は電車に乗っているという事実があるが、そんな『今』には世界中の人々が登場する。
 臨時ニュースになる事件があれば、それが彼のスマホに通知を送る。
 彼の友人、知人に大なり小なり何かがあれば、連絡が来る。
 そして彼が今一番気にしているのは、桜の事だ。

 桜を思うからこそ、もし今こういう状況だったら……、という不安や妄想が頭を捕らえ、その思い込みから心が痛くなってしまう。

 彼女は今、何事もなく夕食の準備をしているかもしれない。
 彼女は今、ピアノを弾いているかもしれない。
 彼女は今、言い争っている最中かもしれない。
 彼女は今、まさに暴力を受けている最中かもしれない。

 そう思うだけで気持ちが滅入り、電車の中なので鼻に入る色んな臭いで具合が悪くなってしまう。
 シャカシャカと音漏れのする音楽が煩い。
 若い女性の話し声も、どこぞへ遊びに行く男子学生の声も、ひそひそと話す夫人の声も耳障りだ。
 男性の加齢臭も、香水の臭いも、それ以外の体臭も、口臭も、最悪だ。

 彼女だけが、そういうもののない綺麗な存在なのに。

 彼女に会いたい。
 彼女が欲しい。

 ああ、もう気が付けば俺の中は桜さんで一杯だ。
 こんなにも思っているのに、どうして幸せになれないんだろう。

 そんな募る思いを顔も見た事のない男にぶつけるには、忠臣はそのやり方を分からず、自分の中で燻らせるだけだ。
 忠臣は自分を綺麗な人間だとは思っていない。
 女の子が自分を夢見るような目で見ても、その期待に応えられる人間ではないと思う。
 食の楽しみは一緒に分かち合えないし、トイレにだって行く。
 本や映画の話は出来るが、特別これと言って人を笑わせる会話は出来ない。
 テレビのお笑い芸人の様に気の利いた冗談や、ボケや突っ込みは出来ないし、その場の空気を呼んで盛り上げるという事も出来ない。
 飲み会や合コンに行っても、端の方で少し笑いながら静かに飲んでいるだけだ。

「詰まらない奴」

 高校時代に忠臣に突っかかってきた友人の一人は、散々彼をライバル視して彼の取り巻きと一緒に忠臣を好き放題に言った後、そう吐き捨てて忠臣から離れていった。

 そんな事、言われなくても分かっている。
 自分でだって、自分が詰まらない人間なのは嫌なほど分かっている。

 勝手に王子様扱いされて、盛り立てられて、何でも出来ると思われて。
 そういう扱いをされた人間の気持ちは、周りはちっとも考えてくれていない。
 忠臣もそんな周囲の期待に応えるでも裏切るでもなく、それまで通りの自分の生活を送っていたら、いつの間にかミステリアスな王子様という事になっていたのだ。

 そんなもの望んでいない。

 周囲が望めば望むほど、彼は孤独だったのに。
 誰も分かってくれない。

 分かってくれと言うには、それを伝える相手がいなかった。

 桜だけが、そんな余計なフィルターをつけないで素の忠臣を見てくれる、たった一人なのに。
 そんな彼女がどうしてあんな酷い目に遭っている?

 思えば思うほどに悲しくて、悔しくて、電車の中だというのに気持ちが高ぶってきてしまう。
 でも、忠臣はいきなり人前で壁を殴ったりはしない。
 ぎゅっとその気持ちを仕舞い込んで、一刻も早く桜の元へ行く事を考えていた。
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