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真実を追う仕事 作者:橋本洋一
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解体新書 その2

 嫌いという積極的な感情ではなくとも苦手のような消極的な感情を抱かせる人間に会うことは思いの外ストレスを感じるものだ。
 ツバサとのランチを終えてから私たちは谷原さんの自宅へ向かった。私は五時から警察の記者会見に参加しなくてはならないが、幸いなこと――残念なことと言い換えてもいいかもしれない――谷原さんの自宅は会見が行なわれる県警本部にかなり近い。歩いても十五分もしないのだ。だから二時に待ち合わせしても余裕で間に合ってしまうのだ。
 ともかく私たちは持参したお土産という名の賄賂を紙袋に入れて谷原さんの自宅前に来ていた。庭付きの現代的な家。新築ではないだろうけど清潔感のある普通の家だ。しかし外見に惑わされる危険性を私は十分知っていた。
 ツバサは何の前置きもなくインターホンを鳴らした。ピンポーンと家の中から音が鳴った。多分外に聞こえるぐらい大きな音なのだろう。壁が薄いわけではないのだろう。
「もしもーし、どなたですか? もしかして緑山くんと姫川くんですか?」
 インターホンからのん気そうな声がする。ツバサは「はい、そうですよ」と少々気を使う言い方をした。別に緊張しているわけではないと思う。緊張とは無縁の人間だから。
 それから「ちょっと待って、今準備するから」などと言われて三分ほど待たされた。
「ああ、ようこそ二人とも。元気でやっているみたいだね。顔色も良いみたいだしね」
 そんなことを言いながらにこやかな表情で現れたのは谷原真さんだった。初老の男性。腰は曲がっておらず真っ直ぐ伸びている。老眼鏡をかけていることから新聞か本を読んでいたことが窺われる。総白髪で背はあまり高くない。服装も年齢どおりのシックな感じ。
「久しぶりですね。顔色が良く見えるのは谷原さんが死体ばっかり見ているからじゃないですか? あ、これお土産です」
 不謹慎なことを言いながら紙袋からお土産を取り出し手渡すツバサ。私も一瞬遅れて「お久しぶりです」と頭を軽く下げた。
「ありがとう。包装と重さから推測するに分福茶釜堂の大福だね。匂いでも分かる。これはイチゴ大福かな? 美味しそうだ」
 匂いなんて普通は気づかない。嗅覚が人一倍鋭い谷原さんだから分かることだ。
「玄関で立ち話もなんだから中にお入りよ。今お茶を淹れてあげよう。家内は出かけているから時間が少しだけかかると思うが、待っててくれるかな?」
 そう言って中に招き入れられたので私たちは「お邪魔します」と礼儀正しく言って中に入った。内装も普通の家と変わりない。しかし案内された部屋は異常の塊だった。
 書斎なのか物置なのかはっきりしないけど、ツバサの事務所のように壁一面に本棚が囲まれている。犯罪心理学が中心で解剖の本もたくさんある。かなり薄気味悪い。
 また人体模型や骨格標本、心臓の形をしたプラスチックの模型が本と一緒に飾られていた。血管の配置図もまるでポスターのように掛けられていた。気分が悪くなる。
 そんな部屋は黒いカーテンで締め切られてして昼間だというのに電気を点けないといけなかった。まあそうしないとこんな悪趣味な部屋が外から丸見えだから仕方がない。
 私たちは何度かお邪魔させているから慣れているが、初めてのときはかなり引いた。ドン引きと言ってもおかしくなかった。
 谷原さんは検視官をしている。まあ検視官なんて役職はないのだけれど、とにかく検視官を中心に勤務していると言っても過言ではない。また普通の警察官と違うところは死体が好きなのだ。さらに言えば死体を解剖するのが大好きなのだ。理解できない。
 元々死体が見られるからという理解不能な理由で警察官になったのだから筋金入りの変人である。もし警察官になれなかったら、それこそ切り裂きジャックのように人を切り刻む殺人鬼になったのだと思う。それくらい危険で危うい人間だと私は思う。
 たちが悪いのは変人でありながら人懐っこい人物である。甘いものが大好きで私たちみたいな警察を辞した人間にも優しい。うわべだけの付き合いならば善人と勘違いしてもおかしくはないのだ。しかし、深く付き合うと変人のほうが特徴として表れるのだ。
「死体で一番綺麗なのは凍死体だって聞くね。僕は不幸にも遭遇したことはないなあ。まあここいらは暖かい地方だから仕方がないけどね。一度でいいから見てみたいなあ」
 そんなことを食事の最中に語りだす人間を善人だと思えるだろうか? いや思えない。
 私たちは不気味なものに囲まれながら置いてあった二組のソファーの片側に並んで座りつつ、谷原さんを待った。普段はお喋りなツバサでさえも沈黙して待っていた。明らかに異常な空間だった。
「お待たせ。緑茶で良かったかい? 淹れなれていないから味は保証できないけどね」
 そんなことを言いながらお盆に三人分の湯吞みとイチゴ大福を載せて部屋に入る谷原さん。私は「そんな構う必要ありませんのに」と言ってお茶を置く手伝いをした。
「せっかくの高級茶菓子なんだ。美味しく頂いたほうがいいだろう? さて、何の用で私の元へ来たのかな? まあ姫川くんの理由は分かるが緑山くんまで来るとは思えなかったなあ。どうして君たちは来たんだい?」
 私たちの向かい側のソファーの真ん中に座りながらそんなことを言う谷原さん。どうやら世間話とか前置きだとかしなくて本題を切り出すよう促しているみたいだ。
「谷原さん、炊夫峠の事件で検視をしましたか? もしよろしければ死体の様子を教えてほしいのですが」
 ツバサも率直に話し始める。誤魔化したり迂回することなく、真っ直ぐに自分の要求を言う。私も「教えてほしいです」と言った。
「炊夫峠の事件か。相川栄子くんの遺体のことだね。しかし一体どうして緑山くんは知りたいのかな? 何度も同じことを訊ねるのは面倒だから、これっきりにしてほしいね」
 不機嫌になったわけではないけど、質問にはちゃんと答えなければ遺体の様子を教えてくれないだろう。ツバサも同じように思ったのか「実は失踪の依頼があったんです」と話し始める。
「失踪と殺人が関係あるのかい? もしかして失踪人が相川栄子くんを殺したのかな?」
「分かりません。その可能性もあるかもしれませんが、今は失踪のことを調べています」
「失踪した人間は誰だい? 相川栄子くんの知り合いかい? それとも友人?」
「友人です。名前は如月舞。あの如月直樹の娘ですよ。ご存知ですか?」
 私が教えた知識を早速披露するツバサ。顔の面が厚いとイチゴ大福を見ながらぼんやり思った。まあそのくらいは黙ってあげよう。
「ああ、あのお偉いさんか。なるほど、依頼が来たのか。それなら納得だよ」
 得心が行ったのか疑問が氷解したみたいで晴れ晴れとした顔になる谷原さん。
「だから遺体の様子なんて知りたがっていたんだね。遺体の状態から監禁場所を割り出して如月舞くんの居場所を探ろうとしているのか。しかしそれは難しいと思うよ」
 さらりとこちら側の意図を読みきった谷原さん。剃刀のように頭が切れる人だから分かってしまうのはありえるけど、その速度が尋常じゃなく速かった。
 そしてツバサの考えを難しいと言う。まあ遺体の身体から特定できる物質が出たら既に犯人を逮捕しているだろうなあ。
「難しいとはどういうことですか? 付着していた成分や物質で犯行現場を割り出せないんですか? 科捜研と協力してあたったんでしょう?」
 矢継ぎ早のツバサの質問に谷原さんは苦笑した。そして子供をあやすような口調で言う。
「遺棄された現場が悪かったね。湖の水が湖底の泥で判別できなかったらしいんだよ。まったく科学がいくら発達しても分からないことは分からないんだよ」
 まあ当然の結果だと思った。ツバサは目に見えてがっかりしたようで「そうですか」と力なく答えた。そしてイチゴ大福に手を伸ばしてそのままぱくりと一口食べた。
「それで? 緑山くんはこれからどうするつもりだい? 探索のアテがあるのかな?」
 谷原さんの気遣うような言葉にツバサはあっさりと「いや、ありません」と答えた。
「正直、迷っていますよ。犯人の目星も分からないしいなくなった場所も分からない。お手上げって感じですかね」
 ツバサが弱音を吐くのは珍しい。どんなときも自信満々なツバサでも困ることがあるとは意外だった。
「一週間も経ってしまったら目撃者の記憶も定かではなくなります。だから聞き込みも効果がない。それにどこで聞き込みをすればいいのかも分かりませんし」
 そう聞くと難易度が高い依頼だ。ベテランの探偵だったらなんとかなるだろうけど、ツバサはそうじゃない。有能ではあるけれど決して万能ではないのだ。
「それじゃあ他に僕から聞きたいことはあるかい? まさかその程度のためにわざわざ来た訳ではないだろう? 遺体の状態を知りたいんじゃあないのかい?」
 谷原さんが水を向けてくれたので、ツバサの代わりに聞こうと思ったけど、遮るようにツバサは訊ねた。
「谷原さん。死体の不審な点はあるんですか? あるとすればどんな点ですか?」
 ツバサは落ち込んだ思考を百八十度転回させて考え直すことにしたみたいだ。切り替えと思考速度が速いツバサならではの感性だ。
「不審な点か。まあ色々なくはないね。例えば致命傷とか内臓とか。しかし僕にも守秘義務があるからねえ。ただで話をするのもフェアじゃないというか等価にならないねえ」
 暗に催促しているのか。私は時代劇に出てくる賄賂を要求する悪代官を想起した。警察官のくせにそういうことを何の衒いもなくしてくるから、私は谷原さんが苦手なんだと再認識した。
「そうですね。では分福茶釜堂からのお土産第二段のどら焼きを出しましょう」
 ツバサは紙袋から新たにお菓子の箱を取り出した。黄色い包装でどことなく高級なイメージがある。
「おお! どら焼きか。これは美味しい匂いがするねえ! いやあ先に出してくれたらもっと簡単に話したのに、緑山くんも人が悪いなあ!」
 某ネコ型ロボットと同じように谷原さんはどら焼きに目がない。愛していると言ってしまっても過言ではないのだ。
「種類はなんだい? あんこと栗ともう一つはなんだろうか?」
 鋭い嗅覚で三種類の二つを言い当てる谷原さん。私は「チョコレートです」と答えると「そうか! チョコレートか!」と嬉しそうな顔をして喜びを露わにする。
「いやあ。本当に悪いねえ。では早速――」
「渡したら死体について教えてくれますか? 約束してくれませんか?」
 谷原さんの受け取ろうとする手を無視してツバサがニコニコ笑いながら言う。
「ああ、もちろんいいさ。僕が答えられるものならなんでも答えてあげるよ」
 私はボイスレコーダーをポケットから取り出した。谷原さんの表情が驚愕に固まった。そんなリアクションを満足そうにツバサはますますにこやかな顔になった。
「言質は録りましたからね。それではどうぞ谷原さん。存分に食べてもいいですよ」
 ツバサの言葉に谷原さんは驚きの表情から憤然としたものに変えて「嵌めたね?」と静かに怒った。
「まったく、いつからそんな汚い人間になったんだい? 元先輩に対してそんなことをしてもいいのかな?」
「賄賂を要求するような悪徳刑事に相応しい後輩だと思いませんか? 谷原さん」
 ボイスレコーダーをオンにするアイディアはツバサからだった。こうして言質を録らないと約束なんて反故するからだ。性格は性悪ではないけど、横破りするような性格なのだ。
「まあいいよ。それで? 何を聞きたいんだい? なんでも答えられることなら答えるよ。僕が答えられる範囲ならだけど」
 一気に機嫌が悪くなった谷原さんにツバサは遠慮なくこう訊ねた。
「死体に何か違和感がありませんか? 普通の殺人とは違った、特徴みたいなのはありましたか?」
 私はボイスレコーダーとメモを持って構える。情報はたとえ記事にできなくても覚えておくことが重要だと研修で習った記憶がある。
「特徴か。それほどない――と言いたいところだけど、なくはないんだ。珍しいとまでは言わないけど、変わっているとは思う」
 曖昧な表現だった。谷原さん自身もどう言ったらいいのか分からないのだろう。
「では一番変だと思ったことを教えてください。たとえば殺害方法とか」
 ツバサの質問に谷原さんは静かに溜息を吐いて、それから自分で淹れた緑茶をすすった。そしてこれまた静かに言う。
「今までたくさんの死体を見てきてなんとなく分かることがあるんだ。手馴れているとか強い殺意があったとか。次第に分かるようになったんだ」
 私は谷原さんの次の言葉を待った。ツバサも同様に黙って待った。
「この犯人は殺しの素人だ。全然手馴れていないし楽しんでもいない。しかも殺意は弱い。まるで自分のためではないような不自然さが存在していたんだ」
 言っている意味が良く分からなかった。ツバサも「どういうことですか?」と聞き直した。
「つまりだ。この犯人は仕方なく嫌々で殺したんだ。まるで誰かに脅迫されたように」
 そして谷原さんはこうも言った。
「まるで誰かの殺意を代弁したみたいだ。つまり犯人は二人いる。実行者と命令した者の二組の犯行だ。間違いない」


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