これを読んでふと思い出した。
私は勉強の嫌いな子供だったので、厳密には異なる体験といえるだろう。
しかし「習ってないことは知ってくれるな」という風潮は確実にあった。仮に「好きで知ってしまっても」ダメなのだ。
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昔々、日本のある山のふもとに、女児が生まれた。
家庭環境が複雑なうえ、彼女は体が弱かった。今で言う「ネグレクト」と推測するのが妥当だろう。彼女は乳幼児の頃栄養失調による感染症で入院した(日本ですよ)。退院後、致し方ないので適当にシュタイナー教育の保育園に入れられた。そこにはドイツ製の直方体のクレヨンがあった。
数ヶ月後、事件は起きた。
「漢字はまだ、教えないでください」
3歳だった。どこぞの看板の漢字を読んだらしい。もちろんわいせつなものではないw
保育園側は「感性」を育みたいという方針らしく「文字を覚えさせてしまうと、情操教育によろしくない」との見解を示した。
彼女に興味のない家族は顔を見合わせた。誰も漢字を教えたおぼえがない。
「勝手に読んじゃった」
親はなくとも子は育つ、ようだった。
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ギフテッドという概念があるようだ
「発達障がい」とラベリングされた「数学に秀でた才能を持つ8歳の男の子」は、良い例だと思う。
現役東大生が50円で売っていたので8歳児と数学を語ってもらった話 - うちの子流~発達障害と生きる
数学に親和性が高いなら、何となく「論理」にも親和性が高いように感じられる。物理学も工学も哲学もきっと君のことを待っている。高IQは平均分布からすれば異常値なので、集団に馴染みにくいのは当然だろう。異常値には等しく支援が与えられてなぜ悪い。
※拾い物ですが目安としてどうぞ
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日本の公立校(付属高校ではなく一般的な学校)では、「みんなにあわせて」と言われて育った人も多いに違いない(スターの数によれば)。特に同調圧力の強い日本(私にはそう思える)には受け皿の少ない概念であり「障がい」扱いのほうが受け容れられやすい可能性もあろう。
察するに、ある人は「平凡な人生を歩もうと努力」し、またある人は一度や二度首を括ったに違いない。そこをなんとか
「ギフテッド」;神から賜った才能のギフト。
このように呼んだほうが、前向きではないだろうか。
皆が皆、付属小学校やら名門中学高校に入学できるわけではない(親の金銭面の課題、知識不足、周囲の無理解もある)。その場合公立校で友人ができなくても仕方なかろう。いじめられて学校を辞めたくなることもあるかもわからない。
憶測でしかないが、拙ブログの読者は往々にしてギフテッドの素養があるのではないかと思っている*2w このような哲学話をぐだぐだ書いているブログを読むというのは…少々頭のネジが外れかかっていないとできない芸当でありましょう(良い意味です)。
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さてくだんの女児の場合は、数学のような抽象物ではなく脳科学に関心が向かった。*3
お陰で女児はしばらく唯脳論者として生活することになる(体が弱かったので学校は半分くらい休んだ)。11歳の頃アルジャーノンに出会ったが、その後すぐユングの概念におったまげるのを当時の彼女はまだ知らないのだった。