閉じる
閉じる
×
そもそも何故私がこの一連の記事を書こうと思ったかと言いますと、その理由は『最弱無敗』から学ぶラノベ学①に貼り付けたと思います、第五話の最後のシーンにあるのです。
まだ見てない人の為にその場面を簡単に纏めますと、
要するにヒロインの一人『クルルシファーちゃん』呼びにくいな…が自分を救ってくれた主人公『ルクス君』にべた惚れして、それですごい積極的なアプローチを試みるわけですね。
具体的に言うと、
上げる、下げる、上げる、耳元で告白、頬を掴む、キス、囁く、ベロチュー
という感じです。ルクス君うらやま。いやあ藤居ゆきよさんの名演技が光る光る。
正直中々に強烈で鮮烈なシーン……でしたが……。
じゃあ何故、これを見て私がこの場面を見て記事を書こうと思ったのかと言えば、このシーンが昨今のラノベアニメの演出にしては斬新さがあるように感じたからです。
ちなみにこの場面までの流れは当然の如くテンプレのオンパレードでした。
残念ながらお世辞にも褒めることは出来ないです。
でもこの最弱無敗はその作画が素晴らしいこともあり、またBGMや声優さんの演技・チョイス、そして脚本やキャラクターの人間性、その他には展開の演出にも度々光る物があるように思いました。
なんだかんだテンプレゾーン以外は結構面白かったりします。
それに何もテンプレが全て悪いということではないのです。むしろ程度によっては良いことかもしれません。
何せテンプレというのは前述の通り受け継がれた歴史であり、培われてきた知識であり、
すなわち王道です。
これは持論ですが、
王道無き物語にエンターテイメントはない、とそう思っています。
故に大事なのは作品全体の流れを『テンプレ=王道』としながらも、その中に斬新な演出を付け加えていくことなのです。
つまり視聴者に既視感を与えない、目新しい作品となっていれば、それは
テンプレでありながらもテンプレを脱却できている、ということになります。
でも上記のシーンを見て自分は「おお。いいなこの演出」と感じつつも、同時にこう思いもしたのです。
「今のシーンに対し、確かに自分は斬新さを感じた。
しかし、斬新な演出とは一体何なのか。斬新さの一般化というのは可能なのか?」と。
斬新さの一般化、というのは何か矛盾したイメージを感じますが、言い換えるなら『斬新さの定義づけ』と考えて貰って構いません。
これが可能であれば『親の顔より見た展開』を越え、売れ線を抑えつつも物語らしい物語を
生み出すことが可能になるんじゃないか。そんなことを考えたのです。
従って今回からはテンプレートに沿った形のラノベアニメ。
憚りなく言うと『クソアニメ』が『クソアニメ』という評価を抜け出すため、具体的にどうするべきだったのか。どういう形にするべきだったのか、というのを研究していきたいと思います。
よってこれからそれを考える上で制作に以下の縛り条件を設けます。
・典型的ライトノベルアニメ(以下ラノベアニメ)のテンプレに則った進行を心がける
・ラノベアニメにおいて広範に見られる設定を流用する
・ラッキースケベなどのリアリティを失わせる展開も挟む
多分これ、おそらくなんですが、多くのライトノベルライターに対し、編集さん側が『暗に求めている条件』に近い物なんじゃないかと思います。
もっと分かりやすく言うと、
編集が『作者を誘導している方向』と言ってしまってもいいでしょう。
ちなみに最弱無敗の作者さんは最初のほう、オリジナリティ溢れる作品を作って世に出していたようですが、徐々にこちら側へと舵を切り、結果『最弱無敗』という作品が生まれました。
また話は変わりまして、同期に出現しその酷似っぷりが大きくインターネット上を賑わせた『アスタリスク』と『キャルバリイ』の両作品。
本当に示し合わせたように、これら二つの第一話は似ていました。
類似点については
こんな感じです。
自分は1クール、これらの両作品の全話を視聴しました。
その上で言わせて貰うと、二話以降も類似する部分は何度も見ました。
でもすごいですよね?
この両作品がアニメ化するとなって、そして決まった放映時期など、おそらく全てが偶然でしょう。特にアスタリスクなんて、分割2クールが決定しており、ゲームなどにもなっている勝負作品です。出来うることなら不安要素は排除したいと企業側も考えていたことでしょう。
なのに同時期に流された。その上面白くない方の劣等生なんて烙印を押されたり……
これほど似た内容の作品が。
この事実って一体どういうことなんでしょうか。
当然、作者としては他作品と似てしまうことは避けたいことのはずです。
何分こうしてネットで、テンプレだとかパクリだとか言われてあげつらわれるのです。
そして、そう言った風評というのはその作品を通じて、作者の今後の物書き人生にも悪影響を与えることでしょう。
じゃあ何故毎時期、狙ったようにこれらのテンプレラノベアニメは出現するのか?
そこには前の記事で書いたとおりの事実、つまり作者が制作しやすく、当たりやすいという点もあるのでしょうが、……。
さりとてそれでも右向け右で、これほど似たような作品が、レーベルという垣根を越えて出現するという現実は不可思議です。
要するにこれって、作者の発想が全く偶然に同じ境地に至った――
と考えるより、編集などの企業側が手堅い商品を欲して圧力をかけて濫造している。
そう考えた方が自然じゃありませんか。ということです。
だって正直いまいちに思えるテンプレ型ラノベが、もっと評価されるべきだろうオリジナリティ溢れるラノベを抑えて毎度アニメ化しているわけですよ。
この事実を見るだけでも、何か不自然さを感じませんか?
もちろんこれはただの推論に過ぎませんし、作者が売れる作品を作ろうと、まるで闇の力に手を出す主人公の如き心境でテンプレを利用しているのかもしれません。
あるいはそのどちらも、という可能性もありますし、本当にすごい超すごい偶然が積み重なっているのかもしれません。
ともかく真実は分からないのです。
ので、もしそうであると仮定したとき、私たち制作者側から見た場合の、その体制の利点について考えてみます。
上記の仮定を事実であるとしたとき、つまり企業はテンプレラノベを求めているっていうことになります。
いわば看板の一つにしたいと思っているわけですね。
つまりは押し出したい作品。
となれば、
『そういった作品に対しては、作者が求める以上のバックアップを企業側は提供してくれるのではないか?』
と、そういう風なオプションがあってもおかしくないでしょう。
つまりです。
企業側が求めている作品を意図して作り、尚且つ斬新さのある目新しい物語を生み出せれば、企業の大きなプッシュを得て自作品を世に出せるかもしれない。ということなのです。
こういった時代の潮流というのはいつまでも続く物ではありません。
これは限られたチャンスです。
物書きとして生計を立てようと考えている、もしくはラノベで一発を狙う人は、この一点を狙わなければ損でしょう。
オリジナリティ溢れる作品は、まあおいおい書いていけばいい。
ひとまずは売れること、売ることが大事なのですから。
では次回からはもう少し具体的なところ。
お話がテンプレート型であることによる弊害・問題について考えていきましょう。
-
次の記事これより新しい記事はありません。
-
前の記事2016-02-10 00:27:17『最弱無敗』から学ぶラノベ学
広告