「古典は良い」
「経営者は古典を読んでいる」
なんて話を聞くことがたまにあります。
この漠然とした「古典は読むべき」という意味が、全く理解できなかったんですよね。
徒然草で、何を学ぶの?
「はい~?古典て「春は曙、ようよう白くなる・・・」って徒然草があるけど、あれから何を学ぶの??それより最近発行されているビジネス書のほうがいーじゃーん。」
という思いがずっと抜けきれなくて、全く良さについて理解できてませんでした。
ちなみに徒然草は(つれずれぐさ)と呼びます。(とぜんそう)ではないです。
徒然草の訳を載せている知恵袋の記事。
ほんとつい最近までそんな考えだったのですが、齋藤孝さんの古典についての書籍を読んで、なんとなくですが意識が変わってきました。その齋藤孝さんの書籍についてはこちらの記事で書きました。
まあぶっちゃけて言うと、徒然草は「これって良いよね、粋だよね」という定義をつけているんだそうです。(私の意訳も入ってます)
白黒はっきりできないようななんとなく良いという感性を、ズバリ定義してます。
現代で言うところのマツコ・デラックスがズバズバ批評するような感じでしょうか。
そして論語
徒然草はハードルが高いので、すすめ書籍である「論語」を攻めてみようということで、齋藤孝さんの『声に出して読みたい論語』『現代語訳 論語』だとか、『論語と算盤』とか、論語関係の本を揃えていざ読み始めたら、いとも簡単に挫折したのはここだけの話です。
結局齋藤孝さんの書籍のような要約本で片鱗を読むことができても、本丸の『論語』について全く頭に入ってこない。
もちろん日本語で書いてあるし、ルビも降ってあるから読めるんですよ。
でも、無理。
かろうじて声に出して読みたい論語の書き下し文とその解説を読んで内容が理解できる程度。
・・・という状態になってふと感じたことは
「私には経験値が足りずに、書いてあることが自分の過去の経験と紐つかないからイメージ出来ないんだな」
と感じました。
古典は筆者の考えをインストールする
結局古典で語られることは、特にビジネスマンや経営者などは感じることが多いから、こうやって何百年も語り継がれるわけで、それを学ぶということは過去の筆者の経験や思想を取り入れることになります。
それができないというのは、読解力のなさであり、読解力のなさは経験していないからなんだなと思いました。
私は今37歳。
まだまだ修行がたりないということですね。
ただ、36歳の時には論語を手にすることも、論語とは何が書いてあるのかすら1ミリも興味がなかったので、そこから比べたら興味を少し持った時点で成長です。
古典の真髄は「あるあるネタ」?
もしかして古典を読んで感化される人というのは「あるあるネタ」みたいな感じで共感しながら読み解けるのでしょうか?
もし私がそうなれるなら、今から楽しみです。
論語は日本人の心
ちなみに論語は中国の書籍ですが、日本人の心として定着している古典だそうです。
寺小屋で声に出してみんなで復唱して覚えた論語。
落し物を拾ったらそのまま警察に届けるという心も論語イズムです。
・・・ということを齋藤孝さんの本で読みましたが、論語のどの文章を見たらそんな粋な発想になるのか理解できず。。。
理解力が足りないですね。
日々精進。
まとめ
論語サイコー!!と言える日を夢見てます。
ブログで論語のフレーズを切り出してお題形式でもいいかも。
はてなのお題で出てこないかなー。
そのうちこのブログで、これみよがしに古典について語る記事を量産した際にはドヤ顔しながらこの記事を削除する予定。