たとえばドラマ『クリミナル・マインド』なんかそうだけど、異常犯罪・猟奇犯罪をテーマにしたサスペンス・ドラマはたいてい、警察VS犯人、事件が解決するまでを描く。事件の「被害者」は、実のところ脇役でいることが多い。ところが、この映画はその逆を行く。
主役は被害者。この映画では犯人も脇役。警察なんてほとんど出てこない。描かれるのは、ふたりの被害者と、彼女/彼が閉じ込められた「部屋」だ。それは誘拐犯の部屋だけじゃない。事件が解決し、誘拐犯から解放されたあとの、自宅の部屋も意味する。
高校生の頃に誘拐され、6年にわたり監禁されている女性ジョイ(ブリー・ラーソン)と、5歳になったばかりの子供ジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)。映画の語り手/視点も二人の間を行き来し、ふたりは不可分の存在であることが示される。
それが後半になると、依存関係は分断し、また苦しみが続く。はじめてジョイ以外の人間と接するジャックは言葉がままならず、またジャックを守るためだけに生きてきたジョイも、PSTDに苛まされる。
つまるところ、監禁部屋と解放後の自宅、このふたつの部屋は、被害者にとってはひと続きの「ルーム」なわけだ。被害者にとって、解放は解決にならない。真の解放は、永遠に来ない。
映画はある意味、アンチクライマックス的に終わる。二人が最後に乗り越える障害や葛藤のようなものは、示されない。存在しないからだ。ジャックは緩やかに「外」の環境に慣れていき、そこにPSTDの治まったジョイが戻ってくる。物語の中に、彼女の癒しの過程は描かれない。
それはごく表面的な治癒なのかもしれない。 いや、そうだろう。そうであっても、ようやく外に出て、外から部屋を見ることができるようになった二人の人生は、ほんの少し前進し、続いていく。
そんな、ささやかな幸福を含んだ終わりに、単純に喜ぶことはできない。押しつぶされそうな虚しさ、悲しさが、心に残る。その共感こそ、この映画の価値なんだと思う。