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クローズアップ

京都教育大学教員 外川 正明
「差別は誰の問題か」〜いま改めて部落史を学ぶ意味を問う〜
(その3)

差別は誰の問題か

銀閣寺
▲銀閣寺
 差別もまた同じです。「障がいがあるから差別を受ける」のではなく、「障がいのある人たちを受け入れない社会があるから差別を受ける」のです。「ハンセン病が正しく理解されず、偏見の目で見られて隔離されて排除されていく社会がある」からハンセン病回復者がいまなお差別されるのです。

 そう考えると、かつての教科書に書かれていたように、「部落は貧しいから差別を受けた」、「人の嫌がる仕事についたから差別を受けた」、「住むには向かない土地に住まわされたから差別を受けた」と捉えることは、全くの間違いであることは明らかです。振り返ってみれば、これまで教育や啓発の場では、ひたすら「部落がなぜ差別されるのか」と「差別される理由を教え続けてきた」のではないか。「差別の理由を差別される側に求めてきた」のではないか、と自戒を込めて考えてみなければなりません。

 「差別の問題は、どこまでいっても、『差別する側』の問題である」からこそ、「人は、なぜ差別したのか、するのかという視点から部落史学習を組み立て直す」ことこそが求められています。

  その視点から、ひろげよう人権2005年1月号で辻本正教さんが紹介されている、「某、一心に屠家に生まれしを悲しみとす。故に物の命は誓うてこれを断たず、又財宝は心してこれを貪ぼらず。」と語った銀閣寺の庭園にかかわった河原者の又四郎の言葉を教材としてとりあげて授業をしたとき、子どもたちは、次のような意見を語り合いました。

又三郎が言った「心から悲しい」という言葉は…

「私は人々から差別される立場にあることを心から悲しいと思う」…

 「心から悲しい・・・」このことばを、子どもたちは「差別されることの悲しさ」と同時に「差別する心の悲しさ」としてとらえたのです。「悲しい心は、いったい誰が持っているのか」という子どもたちの問いかけは、「差別は誰の問題か」を問い直しています。

  部落史研究の深まりを受けて、教育や啓発の見直しが求められています。しかし、それは、単なる新しい史実の伝達や教材の開発といった次元の問題ではなく、「なぜ差別されたのか」から、「人はなぜ差別したのか」という視点から、「部落史学習の転換」を図ることこそが提起されているのであり、それでなければ、差別という問題の真の解決につなぐことができないのではないでしょうか。

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