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クローズアップ

京都教育大学教員 外川 正明
「差別は誰の問題か」〜いま改めて部落史を学ぶ意味を問う〜
(その2)

「いじめ体験」がもたらすもの

あなたは、いじめられたり、いじめたりしたことがありますか—回答結果  「部落の人々は、江戸時代の差別された人の子孫」という考えは、もう一方で、「だから、私には関係ない、差別は差別されている人の問題だから」という認識を生み出します。それに、拍車をかけるのが、多くの若者たちが経験した「いじめ」です。実際にいくつかの講義で、1000人近くの大学生に対して、次のようなアンケートを行ってみると、ほぼ毎回次のような回答結果が見られました。

 そもそも「いじめ」そのものの認識が、個々人によって異なっているので、この結果が多いのか少ないのか、判断は難しいものの、少なくとも、「いじめられた経験がある」と認識している学生が55%、同じく「いじめた経験がある」と認識している学生が、55%あるということは、彼ら彼女らのこれまでの生活の中で、いかに「いじめ」が日常的なものであったかを示していると言えます。

 また、「いじめられたことも、いじめたこともない」と答えている学生も、話し合っていくと、自分は当事者でなかったということに過ぎず、まわりに「いじめの関係」がなかったということではない場合がほとんどです。

 実際に、自分の体験をレポートに綴る学生もたくさんいます。ただ、象徴的なことは、「いじめた体験」は、次に示す例のように具体的に書かれても、「いじめられた体験」は、簡潔に抽象的にしか書かれないことも特徴のひとつでした。

思い出すたびに胸の奥がズキンと痛む…

 大切なことは、こういう体験を持っている子どもたちがたくさんいるときに、その多くが心のどこかで、いじめられるのは、いじめられる子が悪いと思っているのです。それは、いじめられている子ども自身も、「自分が悪いんだ」と思っているのです。

私、小・中学校とずっといやな体験をしてきました…

 例えば、学校で「いじめ」の指導をします。「いじめている子」を呼び、「なぜ、あの子をいじめるのか!よってたかって、卑怯じゃないか!」と叱るとします。すると、必ず「いじめている子」は、「だって、あの子は、この間こんな事をした」とか「こんな嘘をついた」とか「自分勝手なことした」と反論します。そのときに、「それなら、あの子も悪いから、いじめても仕方ないなあ」となるのでしょうか。

 例え「嘘をつく」とか「いたずらをする」とか、明らかにその子に「非」がある現象があったとするなら、そういった行動をとる背景や理由をよく理解した上で、その子が克服していくべき「成長上の課題」として受けとめるべきことであって、だからといって「いじめていい」という理由にはなり得ないのです。

 そうした観点から、学生達と「いじめの問題」について、自分たちが受けてきた、あるいはしてきた「いじめの理由」とは、なんだったのだろうかという話をします。

 よく考えると、「勉強ができなくてもいじめられる」が、「勉強ができてもいじめられる」ことがあるのです。「運動ができなくてもいじめられる」が「運動ができて、ひとり目立ってもいじめられる」のです。「先生に気に入られてもいじめられる」「かわいくてもいじめられる」…。いじめようと思えば、理由はなんでもいいのです。「いじめられたことも、いじめたこともある」と、回答する学生が40%もいることも、このことをよく示しています。

いじめられた時は、なんでそんなことされたのかわからなかったし、いじめられた時は、仲間はずれになりたくないから、その場に順応していた…

私が小学校のころ、誰か一人を全員で無視するということが、日常的にあった…


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