古田雄介著「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」読了の感想
本書が売れているという。売り切れの書店やショップもあるというが、私は取り急ぎ穴場のようなショップを探して注文した結果、幸いすぐに届いた。それにしても本書のテーマは私の年齢くらいになれば常々気になっていることなのだ...。
「故人サイト」は「個人サイト」にかけた書名のようだが、本書はいたずらに亡くなった人たちが残した...残っているホームページを興味本位に取り上げているのではない点にまずは興味を持った。著者はかつて葬儀業スタッフという経歴の持ち主だったことも亡くなった人たちが残したホームページに刮目するひとつの事由らしい。
ネット社会以前には日記にしても遺言にしてもそれらはまったく個人的なものであり、他者が閲覧したり批評すべき対象ではなかった。しかしサイトにしろブログにしても自分の主張や情報を多くの見知らぬ人たちに発信し共有することができる時代になった。だからこそ時には死に至るまでの記録が残ったり、突然の死でブログやサイトが更新できない事例も目立つようにもなった。またご家族がブログやサイトを引き継いで守っているケースもある。

※古田雄介著「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」
著者は本書の意義という意味において「死はネットで学べる」といっている。また読者は「故人サイト」からそこに宿るリアルな生死の一端でも感じ取って欲しいというのが本書のコンセプトのようだ。
そもそも、現代は死を隠すべきものとして扱っている感がある。昔、人は自宅で死を迎えることが多かった。しかし近年はほとんどが病院で死に、葬儀の一切も葬儀会社がやってくれるから親族でさえ人の死を昔ほどリアルに感じる機会は少なくなった。
死んだ人の持ち物は整理され、そのほとんどは家族や業者により破棄されるのが普通だ。そうした意味から故人が生前書き綴っていたブログやサイトはある意味特別なものになっている。
なぜなら例え親族がその存在を知って消そうと思ってもIDやパスワードを知らなければ、そして最低限の手続きを知らなければ消去できない。無料のブログはともかく有料のブログやサイトを続けてきた場合、年会費やドメイン料金の支払が滞るまでは公開されたままとなる。
故人にとってブログやサイトは親族にも犯すことができない生きた証しであり、著者の言葉を借りればどのような状況で(ブログやサイトが)残り、背景にどんなシチュエーションがあるにせよ、なくなった人のサイト...すなわち「故人サイト」には、そうした生死にまつわる濃厚な情報を宿していることが多い...という。
本書は著者が集めた4桁にものぼる膨大な「死者サイト」から特に印象的・衝撃的な103サイトを紹介したものだ。それらの中には飯島愛さんや後藤健二さんのサイトも紹介されている。また面識ある方としては、Mac誕生前夜の1983年に業界入りし、PC Magazine、PC WEEK、MacUserなどを経て、現在も IT業界の重鎮である松尾公也さんが掲載されていた。松尾さんは2013年に亡くなられた奥様の歌声をサンプリングして歌を作り、没後もずっと連れ添っているその生き様が紹介されている。
ともあれ申し上げるまでもなく死は他人事ではあり得ない。普段我々の命はどこか永遠に続くように思っているフシもあるが、病気はもとより事故や事件に巻き込まれて命が尽きる可能性を日々秘めている。
特に私のような年齢になれば死というものは絵空事ではなく家族は勿論、友人や知人たちがさまざまな事由で帰らぬ人となった現実を受け止めなければならない。まさしく「明日は我が身」といった覚悟をどこかに持って毎日を生きているといっても大げさではない。
デジタル社会に生きた証しと言えば聞こえは良いが、日常必要なデータのほとんどはパソコンのハードディスクにあるし、このブログもある意味で私の財産でありこの十数年、どのようなことに手を染め、どんなことに興味を持っていたかを知る縁でもあり足跡でもある。
そういえば絵画の歴史の中で死のシンボルとして頭蓋骨を描くことが多いが、卓上に頭蓋骨を置く奇妙な習慣は、16世紀にとある修道会が死を瞑想するすることを奨励したところから来ているという。やがてこの習慣は絵画の中に取り入れられ「メメント・モリ(memento mori)= 死を思え」、さらに「ヴァニタス(虚栄)」の図像として定着する。
時は否応なく進み、武力も享楽も虚しいいものでしかなく死の訪れと共にすべては「空=ヴァニタス」と化すのだと...。

※ステーンウェイク、ヘルマン・ファン作「静物:虚栄の寓意」ナショナル・ギャラリー蔵/ロンドン
本書「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」は私たちにそうした「メメント・モリ」を再認識させる1冊なのかも知れない。
ところでひとつだけ本書に注文がある。大変興味深く丁寧に読みたいとページをめくったがいかにも活字が小さすぎる。限られたページに収めようとした結果なのかも知れないが、昨今の一般的な文庫本活字よりも小さい。
本書に興味を持つのは我々の年代が多いと思うが、それならなおさら読みやすいように心配りが必要なのではないか。多くの人たちに読んでいただきたいと思うだけに残念に思う。
「故人サイト」は「個人サイト」にかけた書名のようだが、本書はいたずらに亡くなった人たちが残した...残っているホームページを興味本位に取り上げているのではない点にまずは興味を持った。著者はかつて葬儀業スタッフという経歴の持ち主だったことも亡くなった人たちが残したホームページに刮目するひとつの事由らしい。
ネット社会以前には日記にしても遺言にしてもそれらはまったく個人的なものであり、他者が閲覧したり批評すべき対象ではなかった。しかしサイトにしろブログにしても自分の主張や情報を多くの見知らぬ人たちに発信し共有することができる時代になった。だからこそ時には死に至るまでの記録が残ったり、突然の死でブログやサイトが更新できない事例も目立つようにもなった。またご家族がブログやサイトを引き継いで守っているケースもある。
※古田雄介著「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」
著者は本書の意義という意味において「死はネットで学べる」といっている。また読者は「故人サイト」からそこに宿るリアルな生死の一端でも感じ取って欲しいというのが本書のコンセプトのようだ。
そもそも、現代は死を隠すべきものとして扱っている感がある。昔、人は自宅で死を迎えることが多かった。しかし近年はほとんどが病院で死に、葬儀の一切も葬儀会社がやってくれるから親族でさえ人の死を昔ほどリアルに感じる機会は少なくなった。
死んだ人の持ち物は整理され、そのほとんどは家族や業者により破棄されるのが普通だ。そうした意味から故人が生前書き綴っていたブログやサイトはある意味特別なものになっている。
なぜなら例え親族がその存在を知って消そうと思ってもIDやパスワードを知らなければ、そして最低限の手続きを知らなければ消去できない。無料のブログはともかく有料のブログやサイトを続けてきた場合、年会費やドメイン料金の支払が滞るまでは公開されたままとなる。
故人にとってブログやサイトは親族にも犯すことができない生きた証しであり、著者の言葉を借りればどのような状況で(ブログやサイトが)残り、背景にどんなシチュエーションがあるにせよ、なくなった人のサイト...すなわち「故人サイト」には、そうした生死にまつわる濃厚な情報を宿していることが多い...という。
本書は著者が集めた4桁にものぼる膨大な「死者サイト」から特に印象的・衝撃的な103サイトを紹介したものだ。それらの中には飯島愛さんや後藤健二さんのサイトも紹介されている。また面識ある方としては、Mac誕生前夜の1983年に業界入りし、PC Magazine、PC WEEK、MacUserなどを経て、現在も IT業界の重鎮である松尾公也さんが掲載されていた。松尾さんは2013年に亡くなられた奥様の歌声をサンプリングして歌を作り、没後もずっと連れ添っているその生き様が紹介されている。
ともあれ申し上げるまでもなく死は他人事ではあり得ない。普段我々の命はどこか永遠に続くように思っているフシもあるが、病気はもとより事故や事件に巻き込まれて命が尽きる可能性を日々秘めている。
特に私のような年齢になれば死というものは絵空事ではなく家族は勿論、友人や知人たちがさまざまな事由で帰らぬ人となった現実を受け止めなければならない。まさしく「明日は我が身」といった覚悟をどこかに持って毎日を生きているといっても大げさではない。
デジタル社会に生きた証しと言えば聞こえは良いが、日常必要なデータのほとんどはパソコンのハードディスクにあるし、このブログもある意味で私の財産でありこの十数年、どのようなことに手を染め、どんなことに興味を持っていたかを知る縁でもあり足跡でもある。
そういえば絵画の歴史の中で死のシンボルとして頭蓋骨を描くことが多いが、卓上に頭蓋骨を置く奇妙な習慣は、16世紀にとある修道会が死を瞑想するすることを奨励したところから来ているという。やがてこの習慣は絵画の中に取り入れられ「メメント・モリ(memento mori)= 死を思え」、さらに「ヴァニタス(虚栄)」の図像として定着する。
時は否応なく進み、武力も享楽も虚しいいものでしかなく死の訪れと共にすべては「空=ヴァニタス」と化すのだと...。
※ステーンウェイク、ヘルマン・ファン作「静物:虚栄の寓意」ナショナル・ギャラリー蔵/ロンドン
本書「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」は私たちにそうした「メメント・モリ」を再認識させる1冊なのかも知れない。
ところでひとつだけ本書に注文がある。大変興味深く丁寧に読みたいとページをめくったがいかにも活字が小さすぎる。限られたページに収めようとした結果なのかも知れないが、昨今の一般的な文庫本活字よりも小さい。
本書に興味を持つのは我々の年代が多いと思うが、それならなおさら読みやすいように心配りが必要なのではないか。多くの人たちに読んでいただきたいと思うだけに残念に思う。
- 関連記事
- 電池式発泡スチロールカッターとは? (04/08)
- 映画「長崎ぶらぶら節」の世界に浸る (04/06)
- シャーロッキアンの独り言〜今更ながらの電子書籍の楽しみ方 (03/16)
- 映画「マイ・インターン」を観て思うこと (02/03)
- SF 映画「エクスマキナ (Ex Machina)」を観て戦慄す! (01/15)
- 古田雄介著「故人サイト〜亡くなった人が残していったホームページ達」読了の感想 (12/28)
- ドキュメンタリー「イヴ・サン=ローラン」を見て思い出した私との接点(笑) (12/23)
- ドキュメンタリー映画「マルタ・アルゲリッチ 私こそ、音楽!」を観て (11/06)
- 火消し半纏風ジャケットに見る粋な「江戸の裏派手」物語 (10/26)
- 映画「おみおくりの作法」の感想 (09/30)
- ドラマ「深夜食堂」雑感 (09/23)