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病理学的には、「老衰」というものは存在しません。これは社会的な、あるいは物語的な概念です。死亡を宣告した医師が死亡診断書に「老衰」と記すとき、そこには人生全体をとらえたうえで家族と合意しえたことがみてとれます。その高齢者の人生と家族との関係性を理解している家庭医ならではのものかもしれません。

一方、病院の救急外来においては、なかなか「老衰」として看取りが行われることはありません。そもそも急性期病院の医師は診断を追求し、診断に基づく治療を行うことがミッションでもあります。もし研修医が、ろくにアセスメントもせずに「老衰ですね」と家族に説明していたら、そりゃぁ指導医としては後ろから蹴るしかないですね。「ちゃんとやれよ」と・・・。

ただ、こうして医師に診断を追求する傾向が強いと、いや応なく「老衰」は忌避され、診断に基づいた介入が過密になってゆきます。そして、生活のもとではなく、医療のもとで死亡する高齢者が増加してゆきます。多数の管と、刹那(せつな)的な診断名とともに・・・。それはまるで、死へのプロセスですら病院で扱われるべき「病気」となってしまっているかのようです。その背景には、何かあれば病院に搬送され、それを積極的に引き受けることを是としてきた医療文化があるかもしれません。

老衰死を増やしてゆこうとするなら(それを住民が望むかどうかは別の問題ですが)、死の間際に搬送しないのが一番でしょう。救急で初対面の医師に宣告されるのではなく、経過をよく知る医師に看取ってもらうことです。もちろん、「搬送しなければよい」というほど簡単な話ではなく、地域連携のもとで家庭や施設を支える「搬送しなくてもすむ」地域づくり、すなわち「地域包括ケアシステム」を構築できるかが問われています。

なお、しばしば勘違いされている方がいるのですが、厚労省が拡充を目指している在宅医療における「在宅」には、「自宅」(マイホーム)だけでなく「施設」(老人ホームなど)も入っています。これだけ独居者が増え、家族の介護力が低下している現状にあって、自宅医療だけを目指すことは現実的とは言えないからです。自宅医療と施設医療を総称して在宅医療と呼び、自宅であっても、施設であっても、なるべく生活の場での療養(と死亡)を可能としてゆくことを厚労省は目指しています。

図は、平成26年の人口動態統計をもとに、老衰死率(75歳以上の死亡において老衰と診断された割合)と在宅死率(75歳以上の死亡において自宅もしくは施設で死亡した割合)を都道府県別に算出したものです。

写真・図版

やはり、両者には強い相関がみてとれます(R=0.729)。地域差も大きいですね。老衰死率が最高の静岡(11.8%)と最低の福岡(5.6%)では2.1倍の開きがあり、在宅死率が最高の鳥取(29.0%)と最低の北海道(12.1%)では2.4倍もの開きがあります。

過疎化の状況、基幹病院へのアクセス、疾病構造の特性などを踏まえ、地域ごとに目指すべき「地域包括ケアシステム」は異なると思いますが、高齢者が生活者のまま老いや死に向き合ってゆける社会、それを医療がそっと支える仕組みについて、住民との対話のなかで「本気で」私たちは見いだしてゆくことが必要です。死亡急増時代はすぐそこまで来ています。これを量的にも、質的にも、私たちは乗り越えてゆかなければなりません。

<アピタル:感染症は国境を越えて>

http://www.asahi.com/apital/column/takayama/(アピタル・高山義浩)

アピタル・高山義浩

アピタル・高山義浩(たかやま・よしひろ) 沖縄県立中部病院感染症内科・地域ケア科医長

感染症診療や院内感染対策、在宅緩和ケアに取り組む。かつて厚生労働省で新型インフルエンザ対策や地域医療構想の策定支援にも関わった。単著として『ホワイトボックス ~病院医療の現場から』(産経新聞出版)などがある。