日顕宗の「妄説:93」を破折する 連載134回
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:93」を破折する 連載134回
妄説:93 「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事・新編 1388頁、全集 一二四四頁)
〔御文証の解釈〕
この御本尊は、全く他に求める必要はありません。ただ私たちが法華経を受持して(御本尊を信じて)、南無妙法蓮華経と唱える胸中におられるのです。
〔創価学会の解釈〕
○本来、御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適う信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れる。(聖教新聞 H五・九・八 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
「法華経を持ちて」の法華経とは御本尊のことです。
「本来、御本尊は妙法を唱える人の胸中に存するもの」というのは、邪教中山門流の「己心本尊論」と同じものであり、「信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくても、仏界が涌現(ゆげん)する」とは邪宗日蓮宗が本尊よりも題目を中心とする邪義に通じるものです。
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ」といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具(そな)わる仏の生命のことです。
日達上人は
「胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。(中略)自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥(おちい)って地獄の苦を受けるということになる」(達全 2-5-526頁)
と仰せです。
現在の学会では、ことさらに「御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存する」と主張し、会員を本門の本尊抜きの信心へ改変しようとしているのです。
破折:
1.『日女御前御返事』――宗門がうろたえ避ける重書
本抄は、御本尊の真実義を明かされた重要御書である。ゆえに宗門は、信者がこの御書を拝し「胸中の肉団」(=自身の生命)に内在する御本尊を覚知することを恐れるのである。
大聖人が御本尊を図顕されたのは、法華経において一切衆生に〝仏智見〟を開かしめん、と説かれた仏意の本体を明かされたことであり、その真意を信者に知らしめることであった。
宗門が危惧するのは、「拝むべき正境の本尊」が建立された意義は、「胸中の肉団に(御本尊が)おはします」ことを自覚せしめるためであったと、信徒が知るに至ることである。
そうなれば、僧侶が一方的に御本尊を独占し、僧俗差別が当然であるとしてきた根拠が打ち消され、さらには大聖人、日興上人への違背であることも明らかとなり、宗門僧侶の存在意義すら消え果てる――。
それを何としても避けるべく、何の関係も無い「中山門流の『己心本尊論』」なる迷論を持ち出し、話を攪乱させようとする。
あげくは「自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります」と、学会を誹謗するための作り話までもご披露に及ぶ。
だがそもそも、「自分自身が御本尊だ」との不見識極まる妄言を吐く者が、〝日顕〟以外に誰が居るか。
細井管長の弟子から「自称・御本尊」を宣する痴(し)れ者が出たとは、皮肉なものである。不肖の弟子が「増上慢に陥(おちい)って地獄の苦を受けるということになる」との管長の予言は、そのまま的中しよう。
さらには「『此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ』といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具(そな)わる仏の生命のことです」として、宗祖の御文を打消そうとする。
大聖人の御真意を否定する宗門の輩こそ、「増上慢」かつ「地獄の苦を受ける」者である。
戸田会長はこのように講じた。
「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即(そく)私たちと信ずるところに、この信心の奧底があります」(『戸田城聖全集』第五巻)
御書を信受してはじめて、御本仏の御意に叶う。すなわち大聖人の正統は、まさしく学会に存する。
これに対し、御本尊を信徒支配の具、御供養収奪の手段と見なす宗門は、〝御本尊は胸中に御座します〟と明かされた御書を〝無視して避けたい〟のである。このことは宗門が大聖人の後嗣たる意義を失い、令法久住の任がすでに学会に移行したことを証している。
本抄に焦点が当たるとき宗門はうろたえ、「大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている」などと、駄々っ子が憤(むずか)るごとく感情を剥き出し、勝手に作り上げた妄想を口走って罵る。
この醜態を晒したのが、宗門の管長であるとは。学会の歴代会長の境界とは、雲泥の差が存すると言わざるを得ない。
2.御本尊に込められた仏意
『日女御前御返事(別名:御本尊相貌抄)』の本旨を学ぶ前に、仏が〝法華経〟を説いた目的を確認し、あらためて〝御本尊〟が建立された意義を知っておきたい。
妙法蓮華経巻第一方便品第二に、仏が衆生をして、仏智見(=仏の智慧に基づく正しい認識)を〝開示悟入〟せしめると説き、仏が現世に出現した目的と明かされる(「開示悟入の四仏知見」)。
「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
舎利弗よ。是れを諸仏は唯(た)だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと為(な)す。」
(『妙法蓮華経 並開結』聖教新聞社刊 一二一㌻)
ここに明かされた通り、末法の御本仏・日蓮大聖人が御本尊を図顕された目的とは、一切衆生に御本尊を与え、もって「胸中の肉団」(=自身の生命)に内在する本尊を覚知させ、仏智見を開かしめんとのことである。
従って「此の御本尊全く余所に求める事なかれ」と訓戒されるのである。
御義口伝巻下(七六三㌻)にいわく、
「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり」
(いま、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡にあらゆる物の像を浮かべるように、一切の事象を明らかに知見していくのである。この明鏡とは法華経であり、別しては宝塔品すなわち御本尊である。または御本尊を信ずる者の一心の明鏡である)
御本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えるとき、自らの「胸中の肉団におはします」御本尊の明鏡が顕われ、仏知見を開示悟入していくのである。
ところが「御本尊は大聖人の体である」からと、信者は御本尊をひたすら崇拝・礼讃し、頼りきればよいとするなら、仏が御本尊を顕わした意図は歪曲されてしまうことになる。
この誤りに陥っているのが、宗門である。妄説には「本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません」(「妄説:15」)とあり、信徒に否応なく登山させ、御開扉料を収奪する名目とする。
これは大御本尊を〝おすがり信仰〟へと貶めること、御本尊を「余所に求むる」ものである。
大聖人の御本意に違背した宗門の下にあって、大御本尊に御目通りしようとも、明鏡の曇りを拭うことはできない。自身の胸中に御本尊(仏界)が映じることは無いのである。
3.死後も共にある御本尊
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「後生(ごしょう)には此(こ)の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に燈(ともしび)の如く、険難の処(ところ)に強力(ごうりき)を得たるが如く、彼(かし)こへまはり、此(ここ)へより、日女御前をかこみまほり給うべきなり」
(後生には、この御本尊が左右前後に立ちそって、あたかも闇夜に燈火を得たように、また険難な山路で強力(ごうりき)を得たように、彼方へまわり、此処に寄りそって、日女御前の周りを取り囲み護るであろう)
本抄の前段には、「日女御前の死後も、御本尊が厳然とあなたを守ってくれるであろう」と仰せである。もし、御本尊が自分の外にあるものであったら、死後も一緒にいて守ってくれるとは、到底信じられない。そこで、大聖人は「御本尊はあなたの胸中にある」と明かされたのである。
この通り御本尊とは、自身の生命に内在する本尊を覚知させるために、大聖人が一切の衆生に平等に与えられたのである。決して特定の人間の所有物とはならず、まして御開扉料を徴収して、拝観させるためではない。
御本尊を特定の人間が独占すれば、そこでは信者が有難がり、平伏して礼拝を捧げる。さらに占有者の意思において、拝観させる人を選別する。すなわち権威主義の横行である。それでは大聖人の人類救済の大目的は、潰(つい)えてしまう。だが、その非道を実行しているのが宗門である。
4.『日女御前御返事』の真義(1)
『日女御前御返事』の御書講義録(昭和51年発行)には、真に的確かつ重要な講義が掲載されており、その部分を抜粋して紹介したい。
① 御本尊は衆生の「生命の奥底」に実在する
この御本尊は、自分の外にあるものと思ってはならない。「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」我々衆生の「胸中の肉団(にくだん)」にある、と仰せである。この文は、御本尊の正体、実体が何であるかを端的明快に示された、非常に重要な一節である。
既に述べたように、この御本尊は、釈尊が己心の生命を悟って、それを法華経として説き示したところにあらわれており、日蓮大聖人も、御自身の生命をそのまま図顕して、この御本尊を顕わされている。このことからもこの御本尊は、仏たると衆生たるとを問わず生命の奥底に実在する一実体にほかならないことが理解されよう。
ただ、この自身の奥底の生命を覚知した人を仏といい、それを覚りえず、瞬間瞬間に起こる妄想と妄念に惑わされている人を凡夫、衆生というのである。仏はこれを覚知しているから、その覚ったものをあらわし示してくれる。衆生は、仏によって顕わし示されたもの――すなわち本尊によって、自身の内に秘められた同じ生命を顕現していく。
(『日蓮大聖人御書講義』 第26巻 編著者 御書講義録刊行会 昭和51年3月16日発行)
② 「畏怖すべき存在」を崇めさせる宗教
仏がこの御本尊を図顕した目的は、衆生に衆生自身の生命に内在する本尊を覚知させることである。したがって「此の御本尊全く余所(よそ)に求める事なかれ」と戒められているのである。もし、御本尊をただ仏によって与えられたものとして、信仰・礼拝さえすればよい、これに頼っていさえすればよいというのであれば、仏としてはこの御本尊を顕わした意図は満たされないどころか、全く違った方向へ歪められてしまったことになる。
御本尊を余所に求めている人は、あたかも鏡に映った自らの顔を見て、他人の顔と思い込んでいるようなものである。鏡は、それによって我が身を正すためにあるのであって、他人と思って喜んでいるのでは鏡としての用は果たせないのである。(中略)
ただ、このことから更に大切なことは、ここに日蓮大聖人の仏法が既存のあらゆる宗教と全く異なる基盤に立つものであるということである。
すなわち、過去のあらゆる宗教の行き方は、人間の外に、人間をはるかに越えた畏怖すべき存在を設定し、人間は、この存在つまり「神」に服従し、礼拝を捧げれば、この「神」によって守られ救われるということであった。このような宗教の行き方が、権威主義的な人間性格を形づくることは必然である。
(同)
数ある御書講義録中でも、とりわけ〝生命〟という存在を的確に説き明かし、かつ事物の真相を穿ってやまず、今日あらためて読み返しても少しも色褪せていない。肝心な事は上記においてすべて述べられており、新たに付け加えることは無い。
要点を挙げると次項の通りである。
5. 『日女御前御返事』の真義(2)
①「御本尊は、仏たると衆生たるとを問わず生命の奥底に実在する一実体にほかならない。」
〝己心の本尊〟は宗門が何と言おうと、学会の創作ではない、前述した通り大聖人が明らかにされたことである。
かつて細井管長(日達法主)が「自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか」(「妄説:11」その一)との、見当外れの誹謗を学会に浴びせたが、それを体現したのは弟子の日顕であった。
今回の「自分自身が御本尊だ」云々もまた、〝自称・御本尊〟の日顕が該当する。正法の行者・学会に怨嫉し誹謗すれば、吐いた唾は自らに還る、これは仏法の道理である。
常忍抄(九八〇㌻)にいわく、
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」
学会が目障りになれば、御書に明確に説かれる真理まで打ち消して止まないのが、宗門である。信者が真理に目覚めるとき、坊主は己の存在意義が無くなることを、本能的に知るのであろう。
②「御本尊をただ仏によって与えられたものとして、信仰・礼拝さえすればよい、これに頼っていさえすればよいというのであれば、仏としてはこの御本尊を顕わした意図は満たされないどころか、全く違った方向へ歪められてしまったことになる。」
宗門は「本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません」(「妄説:15」)と言って、〝おすがり信仰〟に信徒を招き入れようとする。
だが古来より大御本尊への御目通りとは、特別な縁故の者や信心の篤い者への「内拝」であり、非公式な参拝であるから、成仏のために必須ではない。
ましてや〝聖地崇拝〟など、大聖人の仏法にはない。大聖人の御真意を否定する背信行為であると、糾弾されねばならない。
③「過去のあらゆる宗教の行き方は、人間の外に、人間をはるかに越えた畏怖すべき存在を設定し、人間は、この存在つまり『神』に服従し、礼拝を捧げれば、この『神』によって守られ救われるということであった。」
日顕宗は本講義録で指摘された通りのことを実行したのであり、「権威主義」の権化となった。
具体的には、大御本尊のみに成仏の力用があるとし、歴代諸師の書写による御本尊が大御本尊の分身である原理(「分身散体(ぶんしんさんたい)の法」)を否定した。
そして〝大御本尊に御目通りしなければ罪障を消滅できない〟との「脅迫」をもって、不敬にも大御本尊を〝畏怖すべき存在〟と位置付けることにより、信徒を宗門に隷属させようと謀るのである。
以上の通り本書には、御書の真実義が明かされ、日顕宗の迷妄そのものを如実に映し出していたのである。学会の講義録もまた、「明鏡」と言えよう。
6.〝御本尊はあなたの胸中に〟――池田名誉会長
『日女御前御返事』にかかる池田名誉会長の講義を、共々に学んでいきたい。
◇
(1)御本尊は自身の胸中にある
大聖人から賜った御本尊が、末法で初めて顕された未曽有の御本尊だと知り、日女御前はどれほど感激したことでしょう。
ところが、大聖人は、さらに驚くべき真実を明かされていきます。
すなわち、「この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである」と。
大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ。「胸中の肉団」へ。なんと劇的な転換でありましょうか!
(『大白蓮華』2011年12月号)
(2)唱題が〝胸中の御本尊〟を呼び顕す
当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。〝現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある〟と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。
そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。
無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。
〝御本尊は胸中の肉団にいらっしゃる〟この仰せの元意を拝するならば、大聖人が認められた御本尊は、実は、自分自身の胸中の御本尊に目覚め、胸中の御本尊を呼び顕すための御本尊であるということです。
自分の外にある御本尊を拝んでいる時、全く同じ御本尊が自分の胸中にあるのです。自行化他の題目を唱えるわが生命に厳然と顕われてくるのです。
(同)
(3)〝永遠真如の自分にかわる〟
翌年に送られた日女御前御返事では、宝搭品の所在について「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」(一二四九㌻)とも言われています。日女御前は、御本尊が「胸中の肉団」にあるとの本抄の仰せを思い起こしたことでしょう。「胸中の肉団」とは、「御胸の間・八葉の心蓮華」です。
この御本尊がある「胸中の肉団」とは、別の言い方をすれば「九識心王真如の都」です。九識は阿摩羅識・根本清浄識などともいわれ、これを「心王」と立てます。「真如」とは虚妄を離れたありのままの真実であり、心の「王」の住所であるゆえに「胸中の肉団」、私たちのこの生身の肉体が「都」と言われています。
法華経の行者であられる大聖人が成就された仏の生命。真如と一体の大聖人御自身の生命、すなわち「にちれんがたましひ」そのものを顕されたのが御本尊なのです。
また御本尊は「曼荼羅」の形式です。曼荼羅とは、サンスクリットの「マンダラ」の音写で「輪円具足」とも「功徳聚」とも釈されます。
「功徳聚」すなわち無量の功徳の集まりなのです。それを自由自在に引き出し、味わっていけるのです。
戸田先生は「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう」と語り、こう断言されていました。
「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、我々の生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです」と。
(同)
7.御本尊には〝三諦〟の姿がある
前項の文中に、ブッダは「本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己」とに目覚めたとある。仏陀最後の言葉に「法灯明・自灯明」があり、「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」と訳される通りである。
大聖人の仏法においては、次の通りとなる。
「法」とは、信心の正境であり〝本門の本尊〟である。
「自」とは、真実の自己であり〝胸中の本尊〟である。
「灯明」即ち、よりどころとするとは〝信心〟である。
三諦に訳せば、次の通りである。
「法」は、〝我らの眼前に御座します本尊〟で「仮諦」である。
「自」は、〝我らの胸中に御座します本尊〟で「中諦」である。
「灯明」は〝我らの信心に御座します本尊〟で「空諦」である。
この御本尊は別個に存在するのではなく、互いに関連し合って本尊の力用が生ずる。そのときは、衆生の三諦は仏の三身と顕われ、三身即一身、一身即三身となる。
仮諦とは「色形」を捉えた「如是相」であり「応身如来」である。
空諦とは「心性」を捉えた「如是性」であり「報身如来」である。
中諦とは「身体」を捉えた「如是体」であり「法身如来」である。
よって仏界湧現のカギが、空諦であるところの信心である。空諦であるゆえに常に有り、あるいは常に無いと言うものではない。日寛上人の観心本尊抄文段にいわく。
◇
譬えば水なき池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に『介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す』と云うなり。譬えば水ある池には月便(すなわ)ち移るが如し。
(『日寛上人文段集』四六五㌻、『富士宗学要集』第四巻 二三二㌻)
信心がなければ、本門の本尊を御安置しようとも、本尊の功徳は生じない。本尊を信受し、「信心の御本尊」(報身)が胸中に湧現して、はじめて「本門の本尊」(応身)と、「胸中の本尊」(法身)との三身が相即し、一身の本尊の体となるのである。
ここで報身とは本来、智慧身を言うのであるが、「以信代慧(いしんだいえ)」をもって信心を体とする。「信心が無ければ御本尊も紙墨」とは、この原理を言うのである。
しかしながら、御本尊と信心さえあれば、すなわち功徳が生じるのではない。謗法が混じれば、すべてが失われてしまうのである。
「登山して大御本尊にお目通りしなければ、家庭の御本尊を拝もうと功徳はない」との宗門の妄言は、歴代諸師が信徒に御本尊を書写し、授与してきた宗史をも否定する。
何よりも、大御本尊を誹謗した日顕が宰領する大石寺に登山することこそ、日顕の謗法に与同することとなる。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しつほんしんこ)は是なり」
大御本尊を眼前に拝そうとも、日顕と宗門とを呵責しなければ、功徳はすべて消え去り、奈落に堕ち逝くこととなる。ゆえに我らは、本山には決して近づくことはない。
主君耳入此法門免与同罪事(一一三三㌻)にいわく、
「法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ」
(法華経の敵(かたき)を供養すれば、たとえ大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる)
衆生身心御書(一五九五㌻)にいわく、
「まこと(誠)ならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず」
(真実でない人を供養すれば大悪とはなっても善とはならない)
(了)
妄説:93 「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事・新編 1388頁、全集 一二四四頁)
〔御文証の解釈〕
この御本尊は、全く他に求める必要はありません。ただ私たちが法華経を受持して(御本尊を信じて)、南無妙法蓮華経と唱える胸中におられるのです。
〔創価学会の解釈〕
○本来、御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適う信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れる。(聖教新聞 H五・九・八 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
「法華経を持ちて」の法華経とは御本尊のことです。
「本来、御本尊は妙法を唱える人の胸中に存するもの」というのは、邪教中山門流の「己心本尊論」と同じものであり、「信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくても、仏界が涌現(ゆげん)する」とは邪宗日蓮宗が本尊よりも題目を中心とする邪義に通じるものです。
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ」といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具(そな)わる仏の生命のことです。
日達上人は
「胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。(中略)自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥(おちい)って地獄の苦を受けるということになる」(達全 2-5-526頁)
と仰せです。
現在の学会では、ことさらに「御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存する」と主張し、会員を本門の本尊抜きの信心へ改変しようとしているのです。
破折:
1.『日女御前御返事』――宗門がうろたえ避ける重書
本抄は、御本尊の真実義を明かされた重要御書である。ゆえに宗門は、信者がこの御書を拝し「胸中の肉団」(=自身の生命)に内在する御本尊を覚知することを恐れるのである。
大聖人が御本尊を図顕されたのは、法華経において一切衆生に〝仏智見〟を開かしめん、と説かれた仏意の本体を明かされたことであり、その真意を信者に知らしめることであった。
宗門が危惧するのは、「拝むべき正境の本尊」が建立された意義は、「胸中の肉団に(御本尊が)おはします」ことを自覚せしめるためであったと、信徒が知るに至ることである。
そうなれば、僧侶が一方的に御本尊を独占し、僧俗差別が当然であるとしてきた根拠が打ち消され、さらには大聖人、日興上人への違背であることも明らかとなり、宗門僧侶の存在意義すら消え果てる――。
それを何としても避けるべく、何の関係も無い「中山門流の『己心本尊論』」なる迷論を持ち出し、話を攪乱させようとする。
あげくは「自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります」と、学会を誹謗するための作り話までもご披露に及ぶ。
だがそもそも、「自分自身が御本尊だ」との不見識極まる妄言を吐く者が、〝日顕〟以外に誰が居るか。
細井管長の弟子から「自称・御本尊」を宣する痴(し)れ者が出たとは、皮肉なものである。不肖の弟子が「増上慢に陥(おちい)って地獄の苦を受けるということになる」との管長の予言は、そのまま的中しよう。
さらには「『此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ』といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具(そな)わる仏の生命のことです」として、宗祖の御文を打消そうとする。
大聖人の御真意を否定する宗門の輩こそ、「増上慢」かつ「地獄の苦を受ける」者である。
戸田会長はこのように講じた。
「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即(そく)私たちと信ずるところに、この信心の奧底があります」(『戸田城聖全集』第五巻)
御書を信受してはじめて、御本仏の御意に叶う。すなわち大聖人の正統は、まさしく学会に存する。
これに対し、御本尊を信徒支配の具、御供養収奪の手段と見なす宗門は、〝御本尊は胸中に御座します〟と明かされた御書を〝無視して避けたい〟のである。このことは宗門が大聖人の後嗣たる意義を失い、令法久住の任がすでに学会に移行したことを証している。
本抄に焦点が当たるとき宗門はうろたえ、「大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている」などと、駄々っ子が憤(むずか)るごとく感情を剥き出し、勝手に作り上げた妄想を口走って罵る。
この醜態を晒したのが、宗門の管長であるとは。学会の歴代会長の境界とは、雲泥の差が存すると言わざるを得ない。
2.御本尊に込められた仏意
『日女御前御返事(別名:御本尊相貌抄)』の本旨を学ぶ前に、仏が〝法華経〟を説いた目的を確認し、あらためて〝御本尊〟が建立された意義を知っておきたい。
妙法蓮華経巻第一方便品第二に、仏が衆生をして、仏智見(=仏の智慧に基づく正しい認識)を〝開示悟入〟せしめると説き、仏が現世に出現した目的と明かされる(「開示悟入の四仏知見」)。
「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
舎利弗よ。是れを諸仏は唯(た)だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと為(な)す。」
(『妙法蓮華経 並開結』聖教新聞社刊 一二一㌻)
ここに明かされた通り、末法の御本仏・日蓮大聖人が御本尊を図顕された目的とは、一切衆生に御本尊を与え、もって「胸中の肉団」(=自身の生命)に内在する本尊を覚知させ、仏智見を開かしめんとのことである。
従って「此の御本尊全く余所に求める事なかれ」と訓戒されるのである。
御義口伝巻下(七六三㌻)にいわく、
「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり」
(いま、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡にあらゆる物の像を浮かべるように、一切の事象を明らかに知見していくのである。この明鏡とは法華経であり、別しては宝塔品すなわち御本尊である。または御本尊を信ずる者の一心の明鏡である)
御本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えるとき、自らの「胸中の肉団におはします」御本尊の明鏡が顕われ、仏知見を開示悟入していくのである。
ところが「御本尊は大聖人の体である」からと、信者は御本尊をひたすら崇拝・礼讃し、頼りきればよいとするなら、仏が御本尊を顕わした意図は歪曲されてしまうことになる。
この誤りに陥っているのが、宗門である。妄説には「本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません」(「妄説:15」)とあり、信徒に否応なく登山させ、御開扉料を収奪する名目とする。
これは大御本尊を〝おすがり信仰〟へと貶めること、御本尊を「余所に求むる」ものである。
大聖人の御本意に違背した宗門の下にあって、大御本尊に御目通りしようとも、明鏡の曇りを拭うことはできない。自身の胸中に御本尊(仏界)が映じることは無いのである。
3.死後も共にある御本尊
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「後生(ごしょう)には此(こ)の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に燈(ともしび)の如く、険難の処(ところ)に強力(ごうりき)を得たるが如く、彼(かし)こへまはり、此(ここ)へより、日女御前をかこみまほり給うべきなり」
(後生には、この御本尊が左右前後に立ちそって、あたかも闇夜に燈火を得たように、また険難な山路で強力(ごうりき)を得たように、彼方へまわり、此処に寄りそって、日女御前の周りを取り囲み護るであろう)
本抄の前段には、「日女御前の死後も、御本尊が厳然とあなたを守ってくれるであろう」と仰せである。もし、御本尊が自分の外にあるものであったら、死後も一緒にいて守ってくれるとは、到底信じられない。そこで、大聖人は「御本尊はあなたの胸中にある」と明かされたのである。
この通り御本尊とは、自身の生命に内在する本尊を覚知させるために、大聖人が一切の衆生に平等に与えられたのである。決して特定の人間の所有物とはならず、まして御開扉料を徴収して、拝観させるためではない。
御本尊を特定の人間が独占すれば、そこでは信者が有難がり、平伏して礼拝を捧げる。さらに占有者の意思において、拝観させる人を選別する。すなわち権威主義の横行である。それでは大聖人の人類救済の大目的は、潰(つい)えてしまう。だが、その非道を実行しているのが宗門である。
4.『日女御前御返事』の真義(1)
『日女御前御返事』の御書講義録(昭和51年発行)には、真に的確かつ重要な講義が掲載されており、その部分を抜粋して紹介したい。
① 御本尊は衆生の「生命の奥底」に実在する
この御本尊は、自分の外にあるものと思ってはならない。「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」我々衆生の「胸中の肉団(にくだん)」にある、と仰せである。この文は、御本尊の正体、実体が何であるかを端的明快に示された、非常に重要な一節である。
既に述べたように、この御本尊は、釈尊が己心の生命を悟って、それを法華経として説き示したところにあらわれており、日蓮大聖人も、御自身の生命をそのまま図顕して、この御本尊を顕わされている。このことからもこの御本尊は、仏たると衆生たるとを問わず生命の奥底に実在する一実体にほかならないことが理解されよう。
ただ、この自身の奥底の生命を覚知した人を仏といい、それを覚りえず、瞬間瞬間に起こる妄想と妄念に惑わされている人を凡夫、衆生というのである。仏はこれを覚知しているから、その覚ったものをあらわし示してくれる。衆生は、仏によって顕わし示されたもの――すなわち本尊によって、自身の内に秘められた同じ生命を顕現していく。
(『日蓮大聖人御書講義』 第26巻 編著者 御書講義録刊行会 昭和51年3月16日発行)
② 「畏怖すべき存在」を崇めさせる宗教
仏がこの御本尊を図顕した目的は、衆生に衆生自身の生命に内在する本尊を覚知させることである。したがって「此の御本尊全く余所(よそ)に求める事なかれ」と戒められているのである。もし、御本尊をただ仏によって与えられたものとして、信仰・礼拝さえすればよい、これに頼っていさえすればよいというのであれば、仏としてはこの御本尊を顕わした意図は満たされないどころか、全く違った方向へ歪められてしまったことになる。
御本尊を余所に求めている人は、あたかも鏡に映った自らの顔を見て、他人の顔と思い込んでいるようなものである。鏡は、それによって我が身を正すためにあるのであって、他人と思って喜んでいるのでは鏡としての用は果たせないのである。(中略)
ただ、このことから更に大切なことは、ここに日蓮大聖人の仏法が既存のあらゆる宗教と全く異なる基盤に立つものであるということである。
すなわち、過去のあらゆる宗教の行き方は、人間の外に、人間をはるかに越えた畏怖すべき存在を設定し、人間は、この存在つまり「神」に服従し、礼拝を捧げれば、この「神」によって守られ救われるということであった。このような宗教の行き方が、権威主義的な人間性格を形づくることは必然である。
(同)
数ある御書講義録中でも、とりわけ〝生命〟という存在を的確に説き明かし、かつ事物の真相を穿ってやまず、今日あらためて読み返しても少しも色褪せていない。肝心な事は上記においてすべて述べられており、新たに付け加えることは無い。
要点を挙げると次項の通りである。
5. 『日女御前御返事』の真義(2)
①「御本尊は、仏たると衆生たるとを問わず生命の奥底に実在する一実体にほかならない。」
〝己心の本尊〟は宗門が何と言おうと、学会の創作ではない、前述した通り大聖人が明らかにされたことである。
かつて細井管長(日達法主)が「自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか」(「妄説:11」その一)との、見当外れの誹謗を学会に浴びせたが、それを体現したのは弟子の日顕であった。
今回の「自分自身が御本尊だ」云々もまた、〝自称・御本尊〟の日顕が該当する。正法の行者・学会に怨嫉し誹謗すれば、吐いた唾は自らに還る、これは仏法の道理である。
常忍抄(九八〇㌻)にいわく、
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」
学会が目障りになれば、御書に明確に説かれる真理まで打ち消して止まないのが、宗門である。信者が真理に目覚めるとき、坊主は己の存在意義が無くなることを、本能的に知るのであろう。
②「御本尊をただ仏によって与えられたものとして、信仰・礼拝さえすればよい、これに頼っていさえすればよいというのであれば、仏としてはこの御本尊を顕わした意図は満たされないどころか、全く違った方向へ歪められてしまったことになる。」
宗門は「本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません」(「妄説:15」)と言って、〝おすがり信仰〟に信徒を招き入れようとする。
だが古来より大御本尊への御目通りとは、特別な縁故の者や信心の篤い者への「内拝」であり、非公式な参拝であるから、成仏のために必須ではない。
ましてや〝聖地崇拝〟など、大聖人の仏法にはない。大聖人の御真意を否定する背信行為であると、糾弾されねばならない。
③「過去のあらゆる宗教の行き方は、人間の外に、人間をはるかに越えた畏怖すべき存在を設定し、人間は、この存在つまり『神』に服従し、礼拝を捧げれば、この『神』によって守られ救われるということであった。」
日顕宗は本講義録で指摘された通りのことを実行したのであり、「権威主義」の権化となった。
具体的には、大御本尊のみに成仏の力用があるとし、歴代諸師の書写による御本尊が大御本尊の分身である原理(「分身散体(ぶんしんさんたい)の法」)を否定した。
そして〝大御本尊に御目通りしなければ罪障を消滅できない〟との「脅迫」をもって、不敬にも大御本尊を〝畏怖すべき存在〟と位置付けることにより、信徒を宗門に隷属させようと謀るのである。
以上の通り本書には、御書の真実義が明かされ、日顕宗の迷妄そのものを如実に映し出していたのである。学会の講義録もまた、「明鏡」と言えよう。
6.〝御本尊はあなたの胸中に〟――池田名誉会長
『日女御前御返事』にかかる池田名誉会長の講義を、共々に学んでいきたい。
◇
(1)御本尊は自身の胸中にある
大聖人から賜った御本尊が、末法で初めて顕された未曽有の御本尊だと知り、日女御前はどれほど感激したことでしょう。
ところが、大聖人は、さらに驚くべき真実を明かされていきます。
すなわち、「この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである」と。
大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ。「胸中の肉団」へ。なんと劇的な転換でありましょうか!
(『大白蓮華』2011年12月号)
(2)唱題が〝胸中の御本尊〟を呼び顕す
当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。〝現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある〟と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。
そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。
無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。
〝御本尊は胸中の肉団にいらっしゃる〟この仰せの元意を拝するならば、大聖人が認められた御本尊は、実は、自分自身の胸中の御本尊に目覚め、胸中の御本尊を呼び顕すための御本尊であるということです。
自分の外にある御本尊を拝んでいる時、全く同じ御本尊が自分の胸中にあるのです。自行化他の題目を唱えるわが生命に厳然と顕われてくるのです。
(同)
(3)〝永遠真如の自分にかわる〟
翌年に送られた日女御前御返事では、宝搭品の所在について「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」(一二四九㌻)とも言われています。日女御前は、御本尊が「胸中の肉団」にあるとの本抄の仰せを思い起こしたことでしょう。「胸中の肉団」とは、「御胸の間・八葉の心蓮華」です。
この御本尊がある「胸中の肉団」とは、別の言い方をすれば「九識心王真如の都」です。九識は阿摩羅識・根本清浄識などともいわれ、これを「心王」と立てます。「真如」とは虚妄を離れたありのままの真実であり、心の「王」の住所であるゆえに「胸中の肉団」、私たちのこの生身の肉体が「都」と言われています。
法華経の行者であられる大聖人が成就された仏の生命。真如と一体の大聖人御自身の生命、すなわち「にちれんがたましひ」そのものを顕されたのが御本尊なのです。
また御本尊は「曼荼羅」の形式です。曼荼羅とは、サンスクリットの「マンダラ」の音写で「輪円具足」とも「功徳聚」とも釈されます。
「功徳聚」すなわち無量の功徳の集まりなのです。それを自由自在に引き出し、味わっていけるのです。
戸田先生は「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう」と語り、こう断言されていました。
「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、我々の生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです」と。
(同)
7.御本尊には〝三諦〟の姿がある
前項の文中に、ブッダは「本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己」とに目覚めたとある。仏陀最後の言葉に「法灯明・自灯明」があり、「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」と訳される通りである。
大聖人の仏法においては、次の通りとなる。
「法」とは、信心の正境であり〝本門の本尊〟である。
「自」とは、真実の自己であり〝胸中の本尊〟である。
「灯明」即ち、よりどころとするとは〝信心〟である。
三諦に訳せば、次の通りである。
「法」は、〝我らの眼前に御座します本尊〟で「仮諦」である。
「自」は、〝我らの胸中に御座します本尊〟で「中諦」である。
「灯明」は〝我らの信心に御座します本尊〟で「空諦」である。
この御本尊は別個に存在するのではなく、互いに関連し合って本尊の力用が生ずる。そのときは、衆生の三諦は仏の三身と顕われ、三身即一身、一身即三身となる。
仮諦とは「色形」を捉えた「如是相」であり「応身如来」である。
空諦とは「心性」を捉えた「如是性」であり「報身如来」である。
中諦とは「身体」を捉えた「如是体」であり「法身如来」である。
よって仏界湧現のカギが、空諦であるところの信心である。空諦であるゆえに常に有り、あるいは常に無いと言うものではない。日寛上人の観心本尊抄文段にいわく。
◇
譬えば水なき池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に『介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す』と云うなり。譬えば水ある池には月便(すなわ)ち移るが如し。
(『日寛上人文段集』四六五㌻、『富士宗学要集』第四巻 二三二㌻)
信心がなければ、本門の本尊を御安置しようとも、本尊の功徳は生じない。本尊を信受し、「信心の御本尊」(報身)が胸中に湧現して、はじめて「本門の本尊」(応身)と、「胸中の本尊」(法身)との三身が相即し、一身の本尊の体となるのである。
ここで報身とは本来、智慧身を言うのであるが、「以信代慧(いしんだいえ)」をもって信心を体とする。「信心が無ければ御本尊も紙墨」とは、この原理を言うのである。
しかしながら、御本尊と信心さえあれば、すなわち功徳が生じるのではない。謗法が混じれば、すべてが失われてしまうのである。
「登山して大御本尊にお目通りしなければ、家庭の御本尊を拝もうと功徳はない」との宗門の妄言は、歴代諸師が信徒に御本尊を書写し、授与してきた宗史をも否定する。
何よりも、大御本尊を誹謗した日顕が宰領する大石寺に登山することこそ、日顕の謗法に与同することとなる。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しつほんしんこ)は是なり」
大御本尊を眼前に拝そうとも、日顕と宗門とを呵責しなければ、功徳はすべて消え去り、奈落に堕ち逝くこととなる。ゆえに我らは、本山には決して近づくことはない。
主君耳入此法門免与同罪事(一一三三㌻)にいわく、
「法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ」
(法華経の敵(かたき)を供養すれば、たとえ大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる)
衆生身心御書(一五九五㌻)にいわく、
「まこと(誠)ならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず」
(真実でない人を供養すれば大悪とはなっても善とはならない)
(了)
スポンサーサイト
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №91~100
トラックバック
コメント
プロフィール
Author:墨田ツリー
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
- 2016/04 (15)
- 2016/03 (26)
- 2016/02 (17)
- 2016/01 (26)
- 2015/12 (25)
- 2015/11 (23)
- 2015/10 (20)
- 2015/09 (27)
- 2015/08 (26)
- 2015/07 (23)
- 2015/06 (31)
- 2015/05 (22)
- 2015/04 (28)
- 2015/03 (29)
- 2015/02 (26)
- 2015/01 (28)
- 2014/12 (20)
- 2014/11 (27)
- 2014/10 (31)
- 2014/09 (23)
- 2014/08 (20)
- 2014/07 (28)
- 2014/06 (28)
- 2014/05 (31)
- 2014/04 (28)
- 2014/03 (29)
- 2014/02 (28)
- 2014/01 (29)
- 2013/12 (27)
- 2013/11 (27)
- 2013/10 (6)
- 2013/09 (32)
- 2013/08 (23)
- 2013/07 (21)
- 2013/06 (22)
- 2013/05 (26)
- 2013/04 (20)
- 2012/09 (13)
- 2012/08 (10)
- 2012/07 (15)
- 2012/06 (15)
- 2012/05 (14)
- 2012/04 (11)
- 2012/03 (16)
- 2012/02 (4)
- 2011/12 (14)
- 2011/11 (2)
- 2011/10 (16)
- 2011/09 (17)
- 2011/08 (7)
- 2011/07 (13)