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独ソ戦 スターリングラードの奇跡 上
太平洋だけでなく、ヨーロッパ方面でも大変です
西暦1942年
6月28日
ソビエト連邦南部
ヴォルガ川西岸
「スターリングラード」
枢軸国軍約85万人
赤軍約175万人
「独ソ戦」。この言葉を学校の授業で聞いた事のある人は大勢いるだろう。
特に西洋史専攻の人やミリターリーオタク、または第二次世界大戦に興味を持つ人で独ソ戦を知らない人はいないだろう。それぐらい有名な戦争だ。独ソ戦とは第二次世界大戦中の1941年6月22日から1945年5月8日にかけて、
ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
当時のソ連は国民を鼓舞するため、
フランスのナポレオン・ボナパルトのロシア遠征に勝利した祖国戦争に擬えて、この戦争を大祖国戦争(Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線(der Ostfeldzug)と表現される。
この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。
なお独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人である。
民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。
両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、
およそ100万人が死亡した。東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、
1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が、ベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。
第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年にラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツは「ヴェルサイユ条約」により過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されてさらに兵器も制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。
一方ソ連も共産主義国家として孤立し、
シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。
ドイツには資源と場所が皆無だった。
ソ連は資源と場所は恵まれていたが、
技術が乏しかった。
両国は互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、
ドイツとソ連は手を結んでしばし互いにソ連の地での軍事教育や技術提供などで蜜月の時を刻む。
だがそれも1933年にヒトラーが政権を握ると、その蜜月の時間も終焉を迎える事となる。
ヒトラーをはじめとするナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を唱えており、ソ連はナチスを「ファシスト」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、
互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また「赤いナポレオン」ことトゥハチェフスキーの粛清の一因に、SD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒの謀略があったともされる。その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ連包囲網を結んでいるのではないかとの被害妄想から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避けることを目論んで、1939年8月に「独ソ不可侵条約」を結ぶこととなる。これには打算的な理由がある。
1939年8月23日に締結した「モロトフ=リッベントロップ協定」。所謂独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからも分かるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス党政権下のドイツは反共の急先鋒であったからである。さらにナチズムは、『我が闘争』にみられるように「東部におけるドイツの生存圏の拡大(東方生存圏)」を唱えており、両者の利害は相反するものであった。しかし欧州を巡る混乱の中、反共という包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエトは、イギリス・フランスとの同盟を望んでいたが両国は条約につながるような同意に至らず、その煮え切らない態度に対してドイツと手を握ることにしたのだ。
そしてドイツが領土問題を抱えるポーランドとの戦争に踏み切ると、ソ連はモロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づき緩衝地帯の分割を進め、
このポーランド分割によって、ドイツとソ連という根本的な部分で相反する列強は国境を接することとなり、もとより、
信頼しあうわけでもない両列強の開戦は時間の問題となっていった。ドイツは安心して戦力を西方のベネルクス3国やフランス、そしてイギリスに回すことができ、ソ連はバルト3国併合とルーマニアの支配地ベッサラビアの割譲、そしてフィンランドとの冬戦争に臨んだ。この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。
しかしヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ、侵攻計画の策定を命令した。
この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、
工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした。一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、
欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、
練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、
「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している
1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の作戦準備を正式に指令した。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、
イギリス政府や赤軍の情報部(GRU)、そして日本のゾルゲなどから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。スターリンはそうした情報を自分とヒトラーとの仲を裂こうとするものだとして、逆にソ連とドイツを疑心暗鬼にさせて開戦させようとするイギリスの陰謀だとして、
まともに取り扱わなく逆にドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。他にも独ソ不可侵条約締結のわずか2年後に、ドイツが攻撃してこないだろうとスターリンが確信していたという説がある。スターリンはヒトラーが対英戦を終了させた後にしか自国を攻撃することはないと信じていたという説もある。
更に此処最近2000年代以降に出版された本によると、スターリンは1942年まで軍の改革と拡張を計画しており、
それらが終了した暁には逆に連合軍と激闘を繰り広げているドイツに対し、不可侵条約を破り戦争を仕掛けるという予定だったという話が記載されている。
ドイツに対してソ連があれほど下手に出たのもその42年までに攻められないよう時間を稼ぎ、ドイツに難癖をつけられて侵攻されないように物資を送ったり部隊を国境線から撤退させたというのだ。
この話は先にも述べた2000年代以降に出版された本に多く記載されている話なので、信憑性はあるだろう。実際に冷酷で現実認識能力に優れたスターリンなら、その考えを抱いていもおかしくは無いと思うのだ。少なくとも、従来のドイツに恐れていたなど様々なスターリンが無能であるという諸説よりかは妥当性があると思う。まさかヒトラーが先の大戦と同じ徹を踏んで二正面作戦を行なうとは思わなかったのだろう。
こうして1941年6月22日、バルバロッサ作戦の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。当初は5月の侵攻を予定していたが、
ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令し(コミッサール指令)、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている。
これはアドルフ・ヒトラーはソ連との戦争を、ファシズムと共産主義との「イデオロギーの戦争」
「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していたからだ。
開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断されて多くの部隊が投降・捕虜となった。またソ連赤軍の航空部隊は独ソ戦勃発時には、はるかに時代遅れでありドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。だが、ドイツの包囲網の中でドイツ軍が驚くほどにソビエト赤軍は激しく戦い、そのためドイツ軍は多大な犠牲を払った。また、
ドイツ軍歩兵部隊の機動力が低かったため、(ヒトラーが懸念していたが)包囲を完成させるのが遅れ、多くのソビエト赤軍将兵が包囲網から脱出しまうこととなった。結局ソビエト赤軍将兵29万人が捕虜となり、
砲門約15000門、戦車2500両が破壊されたが、
代償に25万人が脱出することができた。
ヒトラーはドイツ軍の勝利がビアウィストク、ミンスクでの勝利が限定的であったと非難し、両装甲軍司令官へ包囲網に隙間が存在することをさらに非難した。そのため、両装甲軍は隙間を埋めるための歩兵連隊が到着するまでの1週間を無為に過ごさねばならなかった。そのため、装甲軍の東への進撃が止められ、ソビエト赤軍にドニエプル川-ダウガヴァ川以東の防衛強化を行う時間を与えてしまい、両装甲軍司令官はひどく悔しがった。しかし、ここまでのドイツ軍の早い進撃はスモレンスクの攻略の可能性を導き出しており、そこからモスクワへの攻撃が可能となると推測された。そして、
ドイツ軍内ではこの戦いの結果、ソ連との戦いはすでに結果が見えているという雰囲気が流れ始めていた。そして南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、
進撃が遅れ気味であった。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった。
ドイツ軍の迅速な攻撃は戦線北部、
中央部で大きな成功を収めていたが、
南部ではまだソビエト南方方面軍の巨大な突出部が存在していた。ウーマニの戦いにおいて、ドイツ軍はソビエト赤軍を撃破していたが、
セミョーン・ブジョーンヌイ配下の部隊はキエフ内外に集中して配置されており、未だに健在であった。ソビエト南西方面軍には装甲兵力とその機動性が不足しており、また、
ウーマニの戦いで装甲部隊が撃破されているにも関わらず、その時点でドイツ軍の進撃を拒む大きな障壁であった。
8月末、ドイツ国防軍最高司令部はモスクワのへの前進を続けるべきか、南西方面のソビエト赤軍部隊を撃破するべきか検討を重ねていたが、これはドイツ南方軍集団に、ソビエト赤軍を包囲する戦力が欠乏しており、
中央軍集団から部隊の移動が必要であったことが原因であった。国防軍最高司令部は議論の結果、
第2装甲集団の大部分と第2軍を中央軍集団から切り離し、南方軍集団へ移動、キエフ包囲の支援を行わせることを決定した。
ドイツ軍のバルバロッサ作戦により、
ソビエト南西方面軍の将兵約66万5000名が包囲されていた。しかし、この時キエフはまだ包囲されておらず、クライストの第1装甲集団とハインツ・グデーリアン配下の第24軍団が、キエフ東部193kmのロフビツァ(Lokhvitsa)で合流した9月16日に包囲は完成した。
ドイツ軍の包囲がキエフ東側で完成した時、南西総軍司令官「セミョーン・ブジョーンヌイ」元帥、西部方面軍司令官「セミョーン・チモシェンコ」元帥、政治委員「ニキータ・フルシチョフ」らは、
すでに包囲網から脱出していた。ソビエト赤軍の退却路は塞がれ、指揮官も装甲部隊も存在しない南方方面軍に脱出の可能性はほとんど存在せず、 後はドイツ軍による殲滅を待つのみとなった。
ドイツ南方軍集団の第6軍及び第17軍は、中央軍集団の第2軍のように、
2個装甲集団の支援を受けて包囲網を縮小し始めたが、
ソビエト赤軍は大粛清によって士官がいなくなったので、
包囲されたら降伏するという軍事上基本的な事を知らなかったので、最後まで抵抗することをやめようとしなかった。
包囲内のソビエト赤軍を殲滅するために、ドイツ軍は空軍の支援を受けて砲撃、戦車を用いた激しい戦いを行わなければならなかった。
9月19日、キエフは陥落したが戦いはまだ続いていた。
結局10日間の激戦を重ねた結果、
キエフ東地区のソビエト残存部隊は9月26日に降伏した。
この包囲戦はソビエト赤軍にとって、
先例の無い大敗北であり、その損害は1941年6月から7月のミンスクの戦いを上回った。9月11日、ソビエト南西方面軍は75万2000から76万の将兵(予備、支援部隊を含むと85万)。砲門と迫撃砲3923門、戦車114両、航空機167機が配属されていた。
ドイツ軍はソビエト赤軍将兵45万2700名、大砲と迫撃砲2642門、
戦車64両を包囲したが、その内、
約15000名は10月2日までに包囲から脱出した。全体としてソビエト南西方面軍は犠牲者70万544名を出し、
その内61万6304名がキエフでの戦いの1ヶ月間で戦死するか捕虜となるかで喪失した。その結果、ソビエト赤軍第5軍・第21軍・第26軍・第37軍の4個軍とその配下43個師団が消滅、
残りの第40軍は大損害を受けていた。そのためソビエト南西方面軍は戦力のほとんどを喪失した。
ハインツ・グデーリアン率いる第2装甲集団(1騎兵師団・6装甲師団・自動車化歩兵師団2個師団1連隊・6歩兵師団)は、9月13日突如北東に向かい、
ソビエト赤軍の防衛線から120kmほど離れたオリョールを目指す。同装甲集団は10月3日にオリョールを落とし、同時にブリャンスクを攻撃した。さらにヘルマン・ホト率いる第3装甲集団、
エーリヒ・ヘープナー率いる第4装甲集団がモスクワの真西に位置するヴャジマ方面へ突破。ブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有するソ連軍を壊滅、事実上ソ連第19軍を主力とする西部戦線司令部は機能しない状態にまで追い込んだ。
10月14日には、第3装甲集団はヴォルガ川を渡河し、
モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末にはグデーリアンの部隊がトゥーラ近郊(モスクワの165km南)まで到達することに成功した。
そんなモスクワ陥落の危機に、ヨシフ・スターリンはレニングラード攻防戦を一段落させた「ゲオルギー・ジューコフ」に首都防衛を命じた。同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開しつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行する。
これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られた。
このコムソモールとはどういう意味かと言うと、マルクス・レーニン主義党、
主に共産党の青年組織である。いわゆる青年団の一種。大体15歳から35歳までが相当年齢とされ、党の路線を学習する・学園や労働組合青年部で党の路線を宣伝する・少年団組織の指導をするなどが任務として挙げられる。また、コムソモールで幹部を務めた者は、将来、マルクス・レーニン主義党の幹部候補となる場合が多い。その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール「ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ」も含まれている。
彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となった。
SS(武装親衛隊)師団 ダス・ライヒと第10装甲師団はモジャイスク周辺でソ連軍の反撃を受け、突破した部隊も進撃の勢いは失っていた。10月になりついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化した。これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も、物資の補給もままならなくなった。一方ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、
ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかった。この10月中のドイツ軍の前進の鈍化がモスクワの防衛体制を整える時間的余裕を与えた。
また、このときモスクワではドイツ軍が迫っており、焦土戦略が取れるようにモスクワの各主要な施設には爆弾が仕掛けられ、市内から避難しようとする市民や防衛のために集まった兵士による混雑などで混乱状態であった。そして彼らは何時スターリンが此処を離れるか注目していた。既にモスクワの地下鉄には専用の列車が待機しており、何時でもスターリンを東に運べるような準備が整えられていた。彼はその時クレムリン内部の執務室で今後について幾度も思考を張り巡らせており、その結果、此処に踏みとどまって指揮を取り続けることに決めたて賭けに出たのだ。
そして戦意高揚の為に、この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行した。この際にスターリンは周りに、「革命記念日のパレードは予定通りに実行せよ。その様子は映画にして全国に配布し、仮にドイツ軍の爆撃で死傷者が出ても直ぐにその死体を片付けて、
パレードを最後まで実行せよ。私もパレードの後に演説を行なう」と言った。
パレードと演説により彼の賭けは成功した。混乱状態であったモスクワ市内には平静と秩序が戻り、逆に市民達から臨時の義勇兵の形で志願され、防衛隊が次々と結成された。
彼の賭けによって市民達だけでなく国民達にもモスクワを守るという愛国心が芽生え、士気は大いに高まったのだ。
1月になると天候は回復して気温が低下。霜が降りて路面状態は良好となり、
ドイツ軍の進撃スピードは回復する。
しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていた。何よりもレールの規格が違ったので列車で物資を運ぶ事ができず、一々ソ連式からドイツ式に線路の規格などを変えないといけなかったので、物資集積所と成ったワルシャワには冬装備などが備蓄されたままとなっていた。更にソ連はドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、線路の破壊や物資集積所襲撃など後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。
また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施したので、これ等が原因で燃料や食料などの補給物資の現地徴収や前線への輸送がほぼ不可能となり、ドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕した。一方でソ連も、戦場となる場所で軍事的に重要な工場や労働者を、
貨物列車によりドイツの手の届かない内陸部にまで疎開させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。
11月末には各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、
これを迂回し前進を継続していたが、
モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止された。
北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進したが、
北部からのモスクワ突入はならなかった。西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したとの噂もあった)あった。
しかし、例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止する。気温がマイナス20℃以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となった。
医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出した。特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に釘が冷気を伝えるので凍傷の原因となった。
対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等防寒装備は充実していた。
ドイツ空軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領したが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となった。さらにドイツ軍の攻勢に同調した日本軍の極東ソ連への侵攻計画なしとの10月4日付のゾルゲからの東京情報に、
スターリンは安心してソ満国境に配備された冬季装備の充実した精鋭部隊(通称:シベリア軍団)を、モスクワ前面に移送して首都防衛を強化する有様だった。
ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人にもおよび、この年だけで戦死者は20万人に達していた。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された。ドイツ軍は守勢に立たされ、
戦うことよりも自分の生命を守ることを優先するほどで退却を重ねた。12月5日、モスクワ攻略の続行不可能が明白となり、ブラウヒッチュ、ボック、レープ、ルントシュテット各元帥、ホト、ヘープナー、グデーリアン各大将と35名の将軍更迭を以て作戦は失敗に終わった。
史実ではこの時デミャンスク包囲戦がおきて、ドイツ軍が無事に退却に成功している。これらはモスクワの戦いにおけるドイツ軍の敗北に続く、ドイツ軍の退却の結果であった。
包囲戦はソビエト赤軍によるデミャンスク攻勢作戦として開始され、1942年1月7日から5月20日に行われた攻勢作戦の第一段階は、
北西方面軍(司令官パーヴェル・クロチキン)が中心となって行われた。
この作戦の目的はデミャンスク周囲のドイツ軍を分断し、
ドイツ第16軍の連絡線であるスタラヤ・ルーサ鉄道を断つことであった。
しかし、森林地帯や湿地帯が多い地形であった上に大雪、
そしてドイツ軍による激しい反撃のために、ソビエト北西方面軍の進撃は最初は遅々としたものであった。1942年1月8日、新たにルジェフ-ヴャジマ攻略攻撃作戦が開始、
さらに前回の作戦を含んだ1942年1月9日から2月6日まで行われたトロペツ-ホルム攻略作戦も開始し、南側での攻撃を担当、さらに第二次デミャンスク攻略作戦が北側の攻撃を担当として、
1942年1月7日から5月20日まで行われ、これらはドイツ第16軍(司令官エルンスト・ブッシュ)所属の第Ⅱ軍団、そして第Ⅹ軍団(司令官クリスチャン・ハンセン)の一部を1941年~42年の冬をかけて包囲した。この時、ドイツ軍の第12・第30・第32・第123・第290歩兵師団・第3SS装甲師団トーテンコプフらが包囲された。
そして同時に、
国家労働奉仕団
・秩序警察・トート機関などの補助部隊も包囲の中にあり、
全体でドイツ軍将兵90000名と補助部隊10000名が包囲された。
北西方面軍の攻撃はドイツ第16軍(に所属している第2軍団の極一部)の北面を取り囲む予定となっており、ソビエト赤軍は北西方面軍がこの攻撃に成功した後、進撃を続けさせようと考えていた。最初の攻撃は、
ソビエト赤軍最高司令部所属予備戦力であるソビエト第11軍、第1突撃軍、
第1・第2親衛狙撃兵軍団が行った。
そして第34軍の進撃を支えるために2個空挺旅団を投入して包囲したドイツ軍をさらに攻撃するために、第二波としてカリーニン方面軍の第3、第4突撃軍が2月12日に投入された。しかし、悪天候と困難な地形のため攻勢は徐々に停滞し、戦線は固定化された。包囲されたドイツ軍に対してドイツ空軍第1航空艦隊により毎日270tの必要物資を供給することができるとの確証を得たドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、包囲された各師団に包囲が撃破されるまでその位置を維持するよう命令した。包囲内にはデミャンスクとペシュキの2箇所に能力の高い飛行場が存在した。2月中旬、天候が回復したが積雪が多いにもかかわらず、この地域のソビエト空軍が脆弱であったことからドイツ空軍による空輸活動はこの地域において大きな成功を収めていた。しかし、この輸送のためにドイツ空軍は輸送能力の全てを使い果たし、爆撃能力の一部も犠牲となっていた。
ソビエト北西方面軍は包囲内のドイツ軍を殲滅する必要に迫られ、デミャンスクとスタラヤ・ルーサの脆弱な連絡線であり、Ramushevo村を通る通称「Ramushevo線」に対して、冬、
春に渡り繰り返し攻撃を行ったのだが、
撃退され続けた。
しかし、5月末までにソビエト赤軍最高司令部は方面軍の担当地区において全体的な状況を判断、
その注意を夏にドイツ軍の新たな攻撃が予想されたモスクワ地域に移すことを決定した。
1942年5月21日、ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ中将軍指揮下のドイツ軍は、包囲内の「Ramushevo線」を使っての退却を計画した。数週間をかけてこの連絡線を広げ、
包囲下のドイツ軍の撤退が行われた。
4月21日、集団は重い犠牲を払いつつも脱出に成功した。
この包囲内に取り込まれていた将兵10万人のうち3355名が戦死、10000人以上が負傷していた。しかし、ドイツ軍の激しい抵抗でソビエト赤軍最高司令部は他の戦線に送り、
重要な局面に投入することもできた戦力をこの戦線に縛り付けられることとなったので、決して無駄ではなかったといえるだろう。包囲が形成された2月初旬からデミャンスクが事実上放棄された5月の間にホルムを含む2つの包囲内にドイツ軍は陸上・航空を問わず、物資65000tと増援31000名を送り込み、36000名の負傷者を後方へ輸送した。
しかし、その代償として損害は大きく、
ドイツ空軍は「ユンカースJu」52106機、「ハインケルHe」11117機、「ユンカースJu 」862機を含む航空機265機を失い、パイロットや搭乗員を387名も失った。ソビエト空軍は包囲内の攻撃に、戦闘機243機を含む航空機408機を失った。ドイツ空軍の成功はヒトラー、ヘルマン・ゲーリング国家元帥にも影響を与え、彼らは東部戦線において効果的かつ、保証された空輸作戦を行う方法と戦術を発案したと考えた。しかし、
この経験がスターリングラードの戦いにおいて空頼みを持つ原因となった。
こうして戦線はモスクワ手前で硬直し、ドイツ軍と赤軍の両軍はお互いに戦闘の傷を癒しながら次の戦場に備えて構えていた。両軍の兵士達はすぐに自分の国の独裁者の考えで、直ぐにまた新たな地獄を見る事を知りながらも、この常に緊張感が漂うが静かで平和な時間が何時までも続けばよいと思っていた。
そんな中、1942年5月最後の日が終わり、日付が変わって6月になった途端に、ソ連側で一斉に謎の電波と暗号が飛び交っているのが前線のドイツ軍の元に入ってきた。その電波は今まで聴いたことも見たことも無い電波であり、そして暗号はラテン語や謎の同盟国である日本語の様な言葉(後に津軽の方言だと判明)で構成されており、あまりにも複雑で色々な言語によって構成されているので、その解読作業は難航していた。そして前線がとりあえずこの事を総司令部に伝えようとして連絡を入れたところ、
とんでもない返答が帰ってきた。なんとベルリンが突如海からやって来た飛行機によって空襲され、兵器生産工場や基地など戦争に重要な軍事拠点や関連施設が破壊されたと。
此処で5月最後の日である31日のドイツで一体何が起きたのか見てみよう。
流石に戦争中とはいえ、枢軸陣営の盟主であるドイツ第三帝国の首都ベルリンの午後は、今日も大勢の人で賑わっていた。有名なベルリン国立歌劇場の前やポツダム広場などには、「アーリア人」である健全なドイツ国民や警備のドイツ国防軍の兵士、そして武装親衛隊所属の隊員などが行き交い、
戦争中ではあるが彼らは日常を謳歌していた。しかし、それでも流石に戦時中でイギリスから飛来してくる爆撃機の空襲に備え、某吸血鬼化武装親衛隊を率いる少佐の大好きなアハト・アハトこと8.8cm高射砲や、3.7cm対空機関砲などがベルリン周辺に建築された高射砲塔最上階などで配備され、訪問を空に向けて何時でも撃てる様に空を睨んでいた。
同じく某madで総統閣下シリーズの主人公として有名なアドルフヒトラー総統は、この日いつもの習慣で昼食を取った後に午後の執務に入るのではなく、
珍しく何時も戦争が始まってから過ごしている総統大本営を離れて、ベルリンの中央省庁の建ち並ぶヴィルヘルム街に設けられていた良く過ごしていた総統官邸の執務室で、「世界首都ゲルマニア」の完成したイメージ通りに作られた模型を眺め、色々とこの建物は排除して隣の建物をその分拡張すべきだとか、ドーム型集会ホール「フォルクス・ハレ(別名「聖杯神殿」)」はもう少し東にずらすべきかとか、色々と壮大な見ているだけで時間を潰せそうな精密な模型で出来た町並みを前に色々と細かい調整をしながら、手元にあるノートに書かれた世界首都ゲルマニア建設計画のイメージ像を削除したり、変更して後から付け加えたりしていた。
そのノートに書かれている世界首都ゲルマニア建設の際に立てられる建物のイメージ像は、一国の独裁者が書いた絵にしてはかなり丁寧でとても上手に細かく描かれている。それもある意味当然だ。
ヒトラーは元々美術学校に入学して画家になろうとしていた過去が有るのだから。残念な事に当時の主流の観点からは見ると彼の画風はダサかったので入学試験に合格できず、
彼は結局画家の道を諦めてその後色々とあって今は独裁者となったのだが、
この様に未だにこうして自分の美意識に基づいた建築物を立てたがる癖があり、人物画を描くよりも得意であった建物のデッサンで多くの建築物のデザインをノートに書き溜めていたのだ。なのでこの世界首都ゲルマニア建設の際にその趣味は絶賛発揮され、
この様に素人には到底掛けないような緻密なデザイン画が描けるのだ。
彼の脳裏には、
今は戦争や政治のことなど一切頭の中に無く、ただ世界首都ゲルマニアに相応しい建築物や道路、
そしてそれらを飾る装飾などのデザインを思い浮かべてこれはっ!と思ったのをノートに書くので精一杯で、誰にも邪魔されずに1人で趣味に没頭するこの時間は、戦争が始まって以来あまりストレスを発散する機会などが少なくなってきた彼にとって、心身を休ませる数少ない癒しの時間となっていた。なので彼はどんどん思いついたデザインを心の赴くままにノートに書いて、何れ必ず達成したい夢の首都建設に向けて希望を抱きながら描いていた、その時であった。
ウウウウウウウウゥゥゥゥゥーーーーー!!
ウウウウウウウウゥゥゥゥゥーーーーー!!
「何事だ!?騒々しいがまさかRAF(イギリス王立空軍)の爆撃か!!??」
バタン!!
「マインフューラー(総統閣下)!大変です!北海から謎の飛行機の大編隊が接近して来ています!!急ぎ総統地下壕に非難してください!!」
突如ベルリン中に大きくサイレンの音が鳴り響き、その音がRAFことイギリス王立空軍の戦略爆撃機や戦術爆撃機による爆撃かと思ったヒトラーは、サイレン独特の音が鳴り響く中で急いでノートを閉まって周りにそう叫んで誰か答えてくれるのを期待したところ、それに答えるように隣の党官房長執務室から党官房長のマルティン・ボルマンが飛び出してきて、自分の上司である総統閣下に迫りながら彼の求める答えについて、焦ったように激しい口調でドイツの北にある海からの攻撃だと答えた。そして直ぐにこの総統官邸の地下に築かれた地下壕に非難するよう訴えた。
マルティン・ボルマンは国家社会主義ドイツ労働者党総統アドルフ・ヒトラーの側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握り、
ルドルフ・ヘスの失脚後は官房長となり、党のナンバー2となった人物で、親衛隊名誉指導者でもあり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将にまで上り詰めた人物だ。彼は1933年アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握した年に、副総統個人秘書兼官房長に任じられた。
彼はヒトラーの信頼を得るためにも、
彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモを取っていた程だ。
そんな明らかにスネ夫タイプの様な人間で、権力争いに熱中していたナチス党の幹部の間でこの男みたいな人間はライバル視されるのが普通だが、運が良い事にヘスの秘書時代のボルマンは、他の党幹部からはさほど関心を払われる存在ではなかったようである。ヨーゼフ・ゲッベルスもこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしているぐらいだ。
第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで、
彼に国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。
翌日にヘス単独飛行を聞いたヒトラーははじめ副官ボルマンを「共犯者」と疑い、ボルマンを招集したが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明した。更にボルマンは後継の副総統の座を狙ったが、5月13日にヘス単独飛行の件で党幹部がオーバーザルツベルクの山荘に招集され、この際にヘルマン・ゲーリングがヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対の意をはっきりと示した。
ヒトラーはボルマンの副総統就任はあり得ない事をゲーリングに明言している。
結局、副総統の事務所は党官房(Partei-Kanzlei der NSDAP)と名を改められ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することになった。副総統にはなれなかったが、党官房長に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る。ヒトラーはこの時ドイツ軍最高司令官としての軍務にますます忙しくなっており、党務にまでとても手が回らなくなっていた。
党務は事実上ボルマンにより掌握される事となった。また党務だけでなく、
軍部や行政機構にも影響を及ぼすようになっていった。
党官房長や大臣職より地味であるが、
より重要な物として総統の個人秘書的な立場を手に入れたことがある。この職位には初め名称がなく、1943年4月12日になってようやく「総統の秘書兼個人副官」という名称を冠された。しかしこの立場を手に入れた事はボルマンにとって非常に大きく、
ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶきっかけとなった。ボルマンはヒトラーへの情報統制を制度化しようと試み、1943年1月には首相官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマースと国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥とともに「三人委員会」を創設した。この委員会は総統に出された提案を総統に通すかどうかを審議するための機関であった。しかし他の党幹部の反発が強く1944年には解散した。
秘書となったボルマンは、常に彼のそばを歩くようになり、菜食主義的な生活を送っていたヒトラーのために大好物であった肉を控えるようにするなど徹底的にヒトラーに合わせた生活を送るようになった。ヒトラーの愛犬「ブロンディ」を用意したのもボルマンだった。こうしたヒトラーの影のように仕える奉仕ぶりや、ヒトラーがどの報告に目を通し、
どの人間に会うかを決める権限が実質的にボルマンが有したため、「ヒトラーの耳に情報が入るには、まずボルマンを介さなくてはならない」と揶揄されるようになった。また、
情報を監督するためにヒトラーのプライベートな会話も逐一記録させていた。「ボルマン覚書」や「ヒトラーのテーブル・トーク」の名前で知られるこの記録はヒトラーやナチズムに関する一級資料であり、後にイギリスの歴史家で男爵の爵位を持っている「ヒュー・トレヴァー=ローパー」によって出版された。
1943年2月のスターリングラードの戦いの敗北以降、
ヒトラーは総統大本営に引きこもりがちになった。以降のヒトラーが主要幹部の中で定期的に会うのはボルマン、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、国防軍最高司令部作戦本部長アルフレート・ヨードル上級大将の三人だけになった。それ以外はたまに親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥、各司令官たちが現れるぐらいであった。他の来訪者はヒトラーがどうしても直接会う必要がある者だけに限られた。そしてその判断はボルマンに一任されていた。総統大本営へ入るためにはボルマンの許可証が必要であった。そのためボルマンの権力はドイツの戦況悪化、ヒトラーの引きこもり化とともに増していく事になった。
このようなボルマンの立場、また彼の上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度のために、ボルマンは他の党幹部や国防軍上層部から非常に疎まれていた。党のナンバー2で空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、敗戦したドイツの処遇を決めるニュルンベルク裁判において、「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。ヒトラーに最も寵愛された世界首都ゲルマニア建設にも関わった建築家で、軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアも「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と、述べているぐらいに大層な嫌われ者だった。
また副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されたその女癖の悪さから、ヒトラーの愛人のエヴァ・ブラウンもボルマンをひどく嫌っていた。
更に1941年以降の反ユダヤ主義の命令にはほとんど例外なくボルマンの副署があり、反ユダヤ主義にも重大な責任を負う。ユダヤ人を東部に移送する命令や親衛隊の下にユダヤ人の管理を強化する命令、ユダヤ人虐殺を隠ぺいするための命令にサインしている。これだけでも古代中国の宦官の様に、最初は単なる独裁者の側近であった秘書的な存在が、
やがて権力を握って好き勝手に振る舞う典型的なパターンの人物であるのが分かるだろう。
そして彼の口にした総統地下壕とは一体何なのかと言うと、映画「ヒトラー最後の12日間」の舞台として有名な総統官邸の地下壕を指す。この地下壕は1935年に総統アドルフ・ヒトラーが、
総統官邸の中庭に地下壕を設置させたのが始まりだ。
当時は主要施設に地下壕を設けるのは別に特別なことではなかった。その後東西の戦況の悪化を受けて、1943年に防御機能を高めた地下壕が新たに建造された。二つの地下壕は階段で接続されており、約30の部屋に仕切られていた。
新造部分は「総統地下壕」と呼ばれ、
旧造部分は「旧地下壕」と呼ばれていた。地下壕は総統大本営としての役割を果たしており、国防軍最高司令部や陸軍総司令部・空軍総司令部といったドイツ軍中枢に関わる人物がここで勤務していた。ヒトラーが関係者以外の立ち入りを禁じたためにヒトラーの愛人のエヴァ・ブラウンら部外者は空襲時に避難する以外は地下壕に立ち入らなかった。
1945年1月16日からヒトラーはここでの生活をはじめた。ヒトラーとヨーゼフ・ゲッベルスらが総統地下壕に居住し、ゲッベルスの家族やマルティン・ボルマン等他の者は旧地下壕に居住した。ソ連軍がベルリンに迫った4月15日、疎開先のベルクホーフからベルリンに移っていたエヴァ・ブラウンは、家具を地下壕に運び入れさせ、ヒトラーの側で生活することを決めた。ヒトラーや軍需相シュペーアが避難を勧告したが、エヴァは応じなかった。
ヒトラーはベルリン市街戦末期の4月30日にここで自殺した。翌日には後継首相のゲッベルスも自決し、5月2日にはソ連軍に占領された。地下壕は攻撃に耐えられるよう厚さ4mものコンクリートによって造られ、
深さは15mに達した。構造は強固で、
空襲やソ連軍によるベルリン攻防戦での砲撃にも見事耐え抜いた。だが急ごしらえで建築されたため各所で水漏れが起きており、ヒトラー自身が換気を嫌ったため空調は良好ではなく、決して完璧なつくりとはいえなかった。また、当初こそヒトラーが嫌っていた喫煙は硬く禁じられ利用者もそれを守っていたが、映画にも1シーンとしてちゃんと登場していたように、戦況が絶望的になるにつれヒトラーの姿がない所では堂々とタバコを吸うようになってゆき、末期にはヒトラーが目の前を通り過ぎてもタバコを吸うようになったのだ。
閑話休題
とりあえず彼に連れられてヒトラーが執務室のドアの外に出ると、そこに広がっていた光景は、
広い廊下で警備に当たっている武装親衛隊所属の隊員やベルリン警察の警官などが、MP40やKar98kを肩に吊るしながらこの官邸に居た職員らを誘導している姿であった。
ふと、窓の外を見て見ると、外では相変わらずサイレンの音が鳴り響く中で迎撃用の戦闘機が飛んでいるらしく、飛行機雲が多く見えてその戦闘機のエンジン音らしき音が微かに彼とボルマンの2人の耳に聞こえてくる。
それをチラリと眺めながら2人はどんどん廊下を突き進んでいく。2人の歩みを邪魔するものはこの官邸内どころか、
この国には表立って存在しないだろう。
何せこの国は親愛なるアドルフヒトラー総統閣下によって惨めな屈辱の時代とおさらばをして、かつての本来あるべきであった栄光と誇り、名誉を取り戻してきたのだ。そんな彼の行く道を妨げるような不届き者は此処には絶対いなかったのだ。
そして何より総統閣下の隣にはあのボルマンが一緒にいるのだ。権力の亡者で何時も女性の尻を追いかける嫌な側近がいるで、彼の行く手の邪魔をして目を付けられたら大変だ。
なので避難する準備に追われている職員や警護の連中は、
2人が視界に入ると失礼な態度と思われないように直ぐに行なっていた動作を一旦やめて、「ハイル、ヒットラー」と彼らの邪魔にならない場所に移動してから敬礼して止まるので、2人は急いでいるので全員に敬礼する事無くたまに敬礼し返すと、途中から合流してきた親衛隊の隊員達に囲まれながら早足で地下壕へと向かっていった。
その間も後ろでどんどん空襲に備えて人々が忙しなく動いているのを尻目に、
2人と親衛隊の退院達は地下壕中に入って行き、その後ろをナチス党最高幹部やそれの関係者、政府または軍部高官らが警護の連中に囲まれながら続いて地下壕に続々と避難した。他の警護の連中らはこの地下壕入り口まで彼らを護衛した後に、直ぐに退去して他の地下壕へと避難した。何故こんなにも高官ら重要な連中しか中に行かないのかと言うと、
この地下壕はこうした空襲などの緊急時にしか入れない安全な場所なので、
なるべく重要な地位についている連中しか入れないのだ。
そんな感じでベルリン市内が避難のために少し混乱状態に陥っている中、ベルリンのティーアガルテン地区・フリードリヒスハイン地区・フンボルトハイン地区の3つの地区に建設された高射砲塔は、その建設された意義を果たそうとして備え付けられた数々の対空火器を北に向けて、何れ来るだろう謎の飛行機の大編隊を何時でも撃ち落せるように待ち構えていた。
この高射砲塔は第二次世界大戦中に、
ドイツ空軍が連合国の空襲から戦略上重要な都市を防衛するための都市防空設備として、建築した鉄筋コンクリート製の巨大な高層防空施設である。第二次世界大戦が現実のものとなるに従い、都市に対する「戦略爆撃」の脅威に対する防御は重要であるとして、各国では防空体制の整備に努力が注がれた。ドイツにおいては、都市の地形によっては地表面に配置した高射砲では取れる射界が狭く、
都市の全域をカバーするには極めて多数の高射砲陣地が必要であり、効率的な防空体制の構築は予算的にも部隊の規模的にも困難である、
との分析がなされた。実際に当時のドイツの財政力でそのような防空体制を計画通りに建築したら、間違いなく軍の予算は減らされるのは間違いなく、史実の様な大活躍を装備が貧弱な所為で出来ないと思うので、その分析は正しいだろう。
これを解決するために、高層建築物の上に高射砲を設置し、広い射界を確保して効率的な防空体制を構築すべく建設が進められたものが、
この「高射砲塔」である。重要都市の中心部に建造され、
都市防空の中核と位置付けられていた。
最初の高射砲塔は1940年にベルリンに建設され、次いでハンブルク、ウィーンに建設された。
しかしこの多機能重武装の高射砲塔も、連合軍の圧倒的な数の爆撃機の前には大きな効果をあげることはできなかった。何故ならこのドイツでも連合軍の使用するVT信管のような近接信管が開発されておらず、その撃墜率は日本より幾分マシ程度であったからだ。実戦で大きな戦果を挙げたという記録もほとんど残されていないが、例外として史実1945年のベルリン市街戦では、市内に侵攻して来たソビエト軍第8親衛軍がティーアガルテンの高射砲塔と戦闘を行ったことが記録されている。
高射砲塔は高さ30m以上にもなる巨大な鉄筋コンクリート製の建築物であった。爆撃による大型爆弾の直撃弾にすら耐えるために厚さ数mの分厚いコンクリートで作られており、どの塔においても高射砲や対空砲が針鼠のように配備されていた。高射砲塔は、高射砲の設置された G(Geschütz:「砲」の意)塔と呼ばれる砲戦塔と、レーダーや高射指揮装置を備えそれらが発砲による衝撃波の干渉を避けるよう数百m離した位置のL(Leitung:「指揮、指導」の意)塔と呼ばれる指揮塔で構成され、
両者は通信線用トンネルで連結されていた。高射砲塔には建造時期によってデザインの変遷があり、概ね三世代に分類される。 最も古い第1世代G塔は基礎部が一辺70.5mの正方形で高さ39m、
地上5階地下1階、5階屋上に重砲用砲台4基、一段下の4階屋上に中・軽砲用の張り出しを3×4の12基(のちに5×4の20基に増強)、L塔は50m×23mの長方形で高さ39m、屋上四隅に中・軽砲用の張り出しを4基(のちに20基に増強)、
屋上中央に観測機器用の高さ9mの上屋が設けられた。
それぞれ天井厚が3.5m、外壁厚が最下部で2.5m、上方にいくにつれ薄くなり最上部で2mである。 第2世代のG塔は基礎部一辺が57mの正方形で高さ41.6m、L塔は50m×23mの長方形で高さ44m、その他の諸元は第1世代と似通っている。
第3世代のG塔は43m四方の基礎上に高さ54mの円筒形(外壁は16面体)で中・軽砲用の張り出しは8基、L塔は第2世代のものとほぼ同じ。この塔の構造には様々な工夫がみられる。屋上部に高射砲や対空機関砲が設置されており、
下層階は民間人用の避難場所となっている。
この高射砲塔は市街戦の際には「要塞」として長期に渡って篭城できるように、発電機や貯水槽までもが設置されていた。そして備え付けられている兵器は連装の12.8cmFlak40(有効高度10675m・発射速度毎分10~12発)、「魔の4連装」こと2cmFlakvierling(有効高度2200m・発射速度毎分720~1800発、
3.7cmFlak37(有効高度2000m・発射速度毎分80~160発)、ウルツブルグ対空レーダーこれ等4つを装備していた。
そしてこのベルリンだけでなくハンブルクに2つ、ウィーンに3つと合計3つの都市に8つ建造されていた。
そんな高射砲塔に勤務するドイツ空軍 に属する軍人達は、この塔に備え付けられている対空砲や対空機銃などに急いで配置に付き、北の方角に向けて油断無く目を光らせて、
その謎の機体が来るのを今か今かと待っていた。そうして待機して数分経った時に、彼らの望み通りにお待ちかねの機体が飛来してきた。
その機体は今まで見たことがないシャープな機体で、目ざとい者はそれが従来の戦闘機とはかけ離れた機体である事を察した。それと同時に、その機体から発せられるゴォォォー!!という謎の轟音(ジェット音)に彼らは唖然とした。
だが、それよりも彼らの口を半開きにさせ、絶望の感情をじわりじわりと覚えさせたのは・・・・
「シャイセッ(畜生)!!何て素早い速度で動いているんだ。これじゃ照準が定まらないぞ!!」
あまりのその機体の素早さに、思わずそう叫ぶ兵士がいたがそれはしょうがないだろう。何せこの機体はMiG-5戦闘機と呼ばれている戦闘機だが、最高速度は1200km/hと当時の戦闘機の2倍の速さで動くジェット機であり、近接信管を装備していないドイツの対空火器でこれを撃墜するのはかなり困難だ。そしてこの時にはまだミッドウェー海戦がまだ起きていないので、
詳しい情報は同盟国の日本からドイツにはまだ伝わってなく、このジェット戦闘機の情報を一応は太平洋戦争の情報を得る際に少しは知っていたのだが、その衝撃は目の当たりにすると計り知れなかった。色々とこのドイツでも謎のジェット戦闘機を扱う部隊がいる事は知っていたが、それは情報だけなのでこうしてリアルに目の当たりにすると、その凄まじさに思わず息を呑んでしまったのも無理はないだろう。
「フォッ、フォイヤー(撃て)!!」
それでも彼らは勤めを果たすべく対空砲火を撃ち始めたが、近接信管を装備していない対空砲火でジェット機を撃墜するのはかなり困難だ。それでも彼らは勤めを果たすべく照準を必死に機体のスピードに収めて撃とうと努力するも、全て間に合う事はなかった。あまりの速さに照準を動かすスピードが間に合わず、
逆に…
ヴォォォォォォォォォ!!
バシュン!バシュン!
「畜生!!砲座が潰された!!一体何という高火力な武装を施しているんだ!!??」
MiG-5が搭載している23mm機関銃の機銃掃射と82mmロケット弾によって、砲座が次々と潰されていき、
そこに配属していた兵士達が攻撃の音がしたと同時に次の瞬間には、スイカ割で割られたスイカの様に肉片となって血煙を挙げながら飛び散って死んでいき、
爆発の衝撃と火炎で体が燃えたりバラバラに肉片となって飛び散ったりと、
断末魔の悲鳴を挙げるまもなく死んでいく。運良く疎な目に遭わずに燃えている兵士達も、体に付いた火を消すまもなく地面に倒れていく。
そんな死の競演が繰り広げられる。
おまけに対空砲周辺はその攻撃によってコンクリート片が飛び散り、地面に幾つも穴が開いていくのだが、厚さがあるので外側に穴が開くだけで済んでいる。
連中も本格的にこの塔を破壊するつもりはないらしく、
一通りこの塔を攻撃したら他の場所へと向かっていった。
この高射砲塔はこの攻撃で29人の死者を出した。
そしてこの日ベルリンの町は、強制収容所や軍司令部など重要な施設を集中して攻撃され、その攻撃やそれによる破片に当たるなどで合計約350人が死亡し、約800人が重軽傷を負った。空軍の方は迎撃に向かった戦闘機は約50機ほどが撃墜され、36機ほどが大破した。なお、奇跡的に撃墜された機体から約20人ほどが脱出に成功した。
市街地も所々で工場等を狙って爆弾が落とされた事で火事が発生し、黒煙がチラホラ立ち込めていた。この空襲はそうした目に見える被害をもたらしただけでなく、ベルリン市民に大きな不安と恐怖という目に見えない被害をもたらした。
見慣れない機体が聴いたことのない轟音をベルリンの町に響かせながら、猛スピードで自国の飛行機を撃ち落して我が物顔で空を支配し、
そして1機も落ちる事無く北に消えていったのだから、
まるで悪夢に囚われていたような気分をベルリンに住む人間は味わったのだ。
そしてそれはそのような民間人だけでなく、政府の人間やナチスの党員なども味わったのだ。もちろん、アドルフヒトラーもそうだ。彼は地下壕の中で地上の総統官邸が攻撃を受けて破壊されていくのを聞いていた。
そして密かに外見上は威厳ある姿でいたが、内心その攻撃が何時自分のいる地下壕にまで及ぶかと密かに震えていた。
そんな恐怖体験を味わった独裁者なので、攻撃が終わった後の怒りはそれはもう凄まじかった。
彼の怒りはまず首都の防空を担当する空軍に襲い掛かった。モルヒネデブことゲーリングは空軍元帥の座を追われ、
彼と同じ空軍の将官クラスの人間の何人かは左遷された。
そして次に彼の怒りの矛先を向けられたのは情報部だ。
親衛隊組織の国家保安本部とその傘下のSDこと親衛隊情報部や、秘密警察局に刑事警察局。
そして国防軍のアプヴェーア(ドイツ語で防御の意味)など、ナチスドイツ国内に存在する情報・諜報機関らの関係者にも左遷の嵐は飛び交い、カナリウスなど有能なスパイが一時的に職を解雇されたり給料半年分半額の目に遭ったりと、
今回の空襲を防げなかった関連組織や人間は全て何かしら罰せられたのだ。
こうして今回の奇襲の結果、ドイツ国内は奇襲による被害やその後のヒトラーの対応などで混乱が発生し、前線の指揮などにも影響が少し出る醜態を晒したのだ。そしてその事が先ほどの報告などで前線にも伝わると、
今回のこの奇襲に対する不安やベルリンに住む家族の心配などで前線にも混乱が生じ、史実で起きた「ブラウ作戦」は実行する所の話ではなくなったのだ。
ブラウ作戦とは、
第二次世界大戦中の1942年夏から1942年初冬にかけてのドイツ軍・ルーマニア軍・イタリア軍のソ連南部への攻勢である。なお、
作戦名の「ブラウ」はドイツ語で青の意である。
バルバロッサ作戦の経過により独ソ戦を短期間に終わらせることに失敗(モスクワ攻勢での敗退)したヒトラーは、長期戦にむけた戦争経済に傾倒し、資源地帯であるソ連南部への攻勢を決定することによって、
軍事主体の戦略・作戦を組む参謀本部と意見を対立させることになる。ヒトラーは、北方軍集団はレニングラード包囲を継続し、中央軍集団はルジェフ付近での現状維持に努めるとし、南方軍集団は長期戦に備えるためカフカース油田地帯を確保、「ペルシア回廊(第二次世界大戦中のソビエト連邦へ、イギリスやアメリカ合衆国によるレンドリースを輸送するための補給ルートの名前で、ペルシャ湾からイラン経由でソ連のアゼルバイジャンへの経路を通る)」を遮断してソ連の継戦能力を奪い、
また黒海の制海権を握ってトルコを枢軸国側に引き込むことも狙ったのだ。
前年の攻勢においてソ連を屈服させることに失敗したナチス・ドイツの人的損害は膨大であり、
再び同規模の作戦を実行することは出来なかった。残された資源による限定された戦力において最大限の効力を発揮するであろうこの作戦の目標である地点までは相当な距離の進撃をしなければならず、広大な側面を赤軍にさらすはずであった。そしてその側面を防衛するには、
ドイツ軍単独では戦線を支えるのにあまりにも兵力が足りず、錬度・軍備の劣悪な同盟枢軸軍に頼らざるを得ない状況であった。
立案の段階におけるブラウ作戦は、
カフカース地方に攻勢をかけるもので、スターリングラードは補給線後方の防御拠点確保という副次的なものでしかなかった。計画ではスターリングラードを8月に早期占領し、
その後快速部隊でカスピ海沿岸の都市アストラハンに進出、ソ連軍のバクーへの陸上交通を断って後方の安全を確保した上で、バクーを攻略する予定だった。
ドイツ軍の将軍達、特にフランツ・ハルダー参謀総長は補給路と戦力の分散を懸念してこの作戦に反対したが、ヒトラーは絶対の自信を持ってバクーとスターリングラードの両方を奪うという作戦を決行した。カスピ海からの海運をになうヴォルガ川において、スターリングラード周辺地域はきわめて重要であることは間違いない。この地を確保することはヴォルガ川の海運を制圧するということと同じ意味であり、
全域に及ぼす影響は計り知れないものがあった。
南方軍集団は、
ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカース地方のマイコプ・グロズヌイを経てバクーを目指すA軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など兵力約100万)と、A軍集団の側面をドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖するB軍集団(男爵マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将指揮。第2軍、
第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、
ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)に分かれ、1942年6月28日一斉に進軍を開始した。ドイツ軍の機甲戦力は以下の通り。A軍集団の第1装甲軍には6個装甲師団、1個自動車化歩兵師団、
グロースドイッチュラント師団、SSヴィーキング師団が参加。B軍集団の第4装甲軍には
4個装甲師団と2個自動車化歩兵師団が参加したのだ。
だが、この作戦はベルリン空襲による一連の混乱によって、
作戦を実行するところではなくなったので行われる事なくそのまま停滞した状態が続いたのだ。
一方のソ連側も史実では1942年5月に、ウクライナ屈指の大都市ハリコフの周辺で行われた、
「第二次ハリコフ攻防戦」でハリコフ奪還を目指したのだが、そもそもこの戦いはドイツのモスクワへの攻勢(タイフーン作戦)を防ぎ、
久しぶりの大戦果に酔っていて、ドイツ軍に進撃の余力が無いと見るスターリンによって企図された攻勢の一つである。
装備・熟練度とも痛手から立ち直っていないソ連軍が大敗、
6月からのドイツ軍の南部戦線での攻勢(ブラウ作戦)で、
ソ連軍の一方的敗走を招く原因となった。この頃のスターリンとソ連軍は戦争が下手で、攻勢に出るたびに大きな損害を出して負けていたのだ。
1941年11月頃の南部戦線は、
ロストフ・ナ・ドヌ(ロシアのロストフ州の州都。ドン川の下流河畔の丘上に開かれた町で、アゾフ海の付け根・タガンログ湾郊外に位置する要衝である。
町の本来の名前である「ロストフ」に付加された「ナ・ドヌ」とは、ロシア語で「ドン川にある」という意味)でドイツ側が突出していた。
ソ連はドン川に面し、カフカース方面に通じる要衝であるロストフに攻撃を加え、ドイツはタガンロク(黒海の北部、
アゾフ海のタガンログ湾に面する都市で、ロストフ・ナ・ドヌから西に約70kmの位置に存在し、
ロシアを代表する劇作家であるアントン・チェーホフの生地としても知られる。
ロシア南部の重要な産業の中心である。イロヴァイスクとロストフ・ナ・ドヌを結ぶ鉄道が通る)
まで引き、ハリコフ・アルチョーモフスク・タガンロクに強固な陣地を敷いた。
これに対しアゾフ海へとドイツ軍を追い詰めるため、ソ連軍は1942年1月18日に、ハリコフ=アルチョーモフスク間からドニエプル川目指して進撃を開始した(バルヴェンコヴォ・ロゾヴァーヤ作戦)。だが、
この作戦はドイツ軍の反撃で突出部(イジュム突出部、バルヴェンコヴォ突出部とも言う)を作るに留まり、以後クリミア以外の前線は1942年5月までドン川以西で膠着した。
突出部を作った事は、ソ連にとっての攻撃の好機でもあったが、ドイツにとっても包囲殲滅の好機でもあり、両者の思惑がぶつかることになった。現有戦力で南部全戦線での攻勢を起こすのは不可能と判断したソ連は、
ハリコフ奪還に限定した作戦を行う事にした。4月、主攻撃部隊がイジュム突出部から時計回りに進撃、副攻撃部隊がハリコフ北東のヴォルチンスクから反時計回りに進撃して、
ハリコフを包囲・奪還する作戦が決定されたのだ。
5月12日、副攻撃部隊がソ連第28軍を中心に、右翼の第21軍・左翼の第38軍がドネツ川を越え、ドイツ第6軍左翼に攻撃を開始し、
この地点で攻勢の予定の無いドイツ軍は突破を許した。
同じく12日、突出部のソ連第9軍・第57軍が防御しつつ、主攻撃部隊ソ連第6軍がドイツ第6軍右翼へ攻撃を開始し、クラスノグラードに迫った。だが、
ドイツ軍の迅速な増援の展開と、ソ連の熟練不足のために前進速度は1日数kmに過ぎず、ドイツ軍の反撃を許す事になった。
前日のソ連の攻撃に対し増援部隊の手当てを終えたドイツ軍は、13日「フレデリクス作戦」を南翼において発動する事を決定し、クライストの第1装甲軍に、
第3装甲軍団・第44軍団・第52軍団から成る増援を加え再編成「クライスト軍集団」に改組、
17日にイジュム突出部への攻撃を開始した。同じく17日から、ソ連副攻撃部隊への反撃も開始された。ソ連軍の指揮系統はここに来て破綻し、各部隊は個々に目の前の敵を防御するに終始し、
連絡を取り合えないままに包囲されていった。8日に包囲戦が終わった時、24万人が捕虜となり、大半の戦車はドネツ川を渡れず破壊・捕獲され、航空機の半数が失われ、何より攻勢を担った優秀な将校が多数戦死してしまったのだ。
双方がこの作戦に投入を予定していた戦力は、兵士数・戦車数・航空機数どれもそれ程差は無かった。だが、ドイツ側の巧妙な欺瞞策(隠語名「クレムリン」)により、ドイツ側の主攻撃の目標をモスクワ正面と誤認したこと、ブラウ作戦の準備で兵力を集中させている南部方面に無茶な攻撃を仕掛けたことが裏目となり、逆にウクライナの全域がドイツ側の手に入ってしまった。
ドイツ軍の優位は、豊富な戦闘経験に裏打ちされた自動車化による歩兵の機動力・行き届いた連絡通信網により、単なる数量比較以上の戦闘力が出せる点にあった。さらに重大な事は、まだソ連はドイツの戦車戦術を吸収し切っていなかったため、(前年の損害により機械化軍団は解体され、師団単位で編成するには数量不足であったとは言え)歩兵の中に旅団単位で配置した事にある。ただ、この敗戦の戦訓は生かされ、やがてより良く製造され・編成され・訓練された機械化部隊がドイツを圧倒していく契機にはなったとは、気休めであるが言えるだろう。
だが、この世界ではそのような24万人もの捕虜を出すような無駄な作戦は行なわれず、ソ連軍は前線でドイツ軍からしたら不気味な沈黙を保っていたのである。何せ今までのソ連軍を知る身としては冬戦争の時からそうだが、スターリンの圧力を受けた指揮官や政治将校の指示の元に、一斉に砲撃と共に犠牲を省みずに人海戦術で突撃してくるという定番のスタイルがあったのだが、此処最近は無闇にそうした攻撃は行なってこなくなり、
逆にこちらの神経をイラつかせるように一日中砲撃するだけで攻めて来なかったり、逆に第一次世界大戦の浸透戦術の様に少数の部隊がこちらの補給所や司令部に浸透して襲ってきたりと、明らかに今までとは違う戦法で挑んでくるように成ったのだ。そんな状況下であの謎の暗号について報告し、
逆にベルリンが謎の飛行機によって攻撃されたという情報を知らされ、それに伴う混乱によりドイツ軍も攻撃を行なえる状況ではなかったので、6月はそのまま何も前線には動きが無く、そのまま7月に突入しようかとする時であった。
緊急事態が前線各地で発生したのは。
その6月最後の日、ドイツ軍の前線は此処最近の動きのない状況によって平穏そのものであった。
此処1ヶ月は精々前線後方で補給所や司令部など戦争をするのに必要不可欠な場所を赤軍が襲撃するぐらいで、幸運な事に失敗したと思ったら直ぐに撤退するので、前線で戦うドイツ国防軍や武装親衛隊にとっては精々補給や司令部からの指示が一時的に滞るぐらいで、下士官の指示の下で戦うような一般兵達にとってはあまり関係のない事だった。
なのでその最後の日の深夜も、前線の兵士達は塹壕や駐屯している村などで、
タバコや酒を嗜みながらトランプや雑談に興じていた。
一応前線の警戒用に定期的に兵員をシフト制に分けて数名の兵士達が時間ごとに前線で警戒しているので、彼らは敵の侵入などを全く警戒せずに気楽にそうやって娯楽に乗じていた。中には持ち込んでいたギターやハーモニカなどの楽器を演奏して雰囲気作りに一役勝っている兵士もおり、のどかな夏の夜の時間を彼らは過ごしていた。
だが、そんなのどかな雰囲気をぶち壊すかのように、それは訪れたのだ。
最初にそれに気づいたのは、前線で警戒の為に哨戒任務に就いている兵士達であった。彼らは必ず2人以上でペアを組んで、10m間隔に前のペアと後ろのペアとの間に間隔をあけ、互いにカバーし合いながら前線になにか不審なものや人影などが見えないか注意して歩いていた。そして一行がこの辺り周辺の哨戒を済ませて、そろそろ変わる時間なので皆のいる場所に戻ろうとした時であった。
ババッ!!
ザクッ!
突然夜の暗闇に紛れて黒い服装に身を包んだ多くの人影が一行を襲い、彼らが手に持つ小銃や短機関銃を構える暇も無く、サイレンサー付きの突撃銃とサバイバルナイフで彼らを皆殺しにし、その遺体をそこら辺の草むらに引きずり込んで隠すと、すぐさまドイツ軍兵士の多くいる拠点に向けて何かを背負いながら前進したのだ。そして拠点付近に近づいて展開すると、その背負ったものを地面に下ろして組み立て始めたのだ。その背負って来た物の正体は、
「迫撃砲」である。口径は82mmの迫撃砲を地面にセットすると、彼らは腕時計で時間を合わせながら無線でもやり取りをしてタイミングをそろえると、一斉に迫撃砲を撃ち始めたのだ。
ポン!ポン!
そんな軽い空気の抜ける音がすると同時に、ひゅー、ひゅーと空気を震わせて飛来してくる音があたり一面に響き、
その音を聞いた兵士達が一斉に退避しようと試みるも間に合わず、飛来してきた迫撃砲の弾によってどっかーん!という爆発音と衝撃によって吹き飛んだ。
それによって前線の各地の拠点が潰されていく中で更に止めを刺すように、
ドイツ軍司令部にとある凶報が入った。
「赤軍が夜襲を仕掛けてきた。すぐさま援軍を送られたし」
そう、一ヶ月の間不気味な沈黙を守ってきた赤軍が、何と東部戦線全ての地点で大規模な夜襲を仕掛けてきたのだ。
報告された数だけで約40万人。司令部に勤める人間は悟った。今日はとても長い一日になると。
そして攻め込んできた赤軍の戦車や兵士が掲げる旗の中には
「地球連合政府」と記された旗が紛れ込んでいたのだ…!!
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