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運命の転換点4 死闘!203高地 上
今回から本格的に日露戦争に巻き込まれます
西暦1904年
7月3日
中華大陸北東部
満州
遼東半島
遼寧省
大連
「旅順要塞」
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ従軍神父
やぁやぁタヴァーリシシ(同志)の皆さん!お久しぶりになるかな?ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!!お元気にしていましたかな?
現在私はひじょーーーーーーに、忙しい状況であります。
何故かと言いますと・・・・・
「おい、そこのお前!そこの弾薬箱を持って早く203高地に持って行け。早くしろ!」
「ダッ、ダー。ダー!(わかったわかった!)」
某有名な戦争映画の様にアパーム、弾持って来い!のように、弾薬係を任せられています。こんなのは従軍司祭がやる仕事ではないと思うのですが、此処では非常に当たり前のこととなっております。何でも国際法に従軍司祭が弾薬運搬作業をしてはいけないという決まりが無いらしい。
これは例のコンドラチェンコ少将が言っていた事なので嘘か本当か分からないし、自分はこうした戦争に関する国際法はハーグ陸戦条約の少ししか知らない。
例えば毒ガスやダムダム弾の禁止、捕虜虐待の禁止や赤十字への攻撃禁止ぐらいしか知らない。
ゆえに、彼の言葉の真意を確かめる事はできない。
今はとにかく先程見知らぬ下士官らしき男に渡された弾薬箱を、言われたとおりに203高地の塹壕に持っていくべきだ。出なければ絶対に後が怖いし、何より弾薬は近代戦では必要不可欠な存在だ。
弾切れになったら万歳突撃をするしかない。あっ、此処はロシアだからyaaaaaaaaと言って突撃するべきか?
とまぁ、そんなくだらない考えは置いといて、自分が何故こんな状況に置かれているのかを説明しよう。そもそもの始まりは、旅順攻囲戦全3回の1回目の前にあった前哨戦が史実より早くに始まったせいである。本来なら多くの犠牲者を出す旅順攻囲戦の前菜である前哨戦は、
7月26日に始まるはずなのだ。
この旅順要塞は「ポート・アーサー」、または「難攻不落」とも呼ばれている現代でも高い評価が付けられている堅固な要塞で、軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、
旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任。守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団
(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)この他、東シベリア第5狙撃兵連隊や要塞砲兵隊、
騎兵・工兵など総勢4万4千名(これに軍属他7千名、海軍将兵1万2千名)、
火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた。
ちなみにロシアでは狙撃兵師団とは普通の歩兵師団の事を意味する。現代のロシア軍も歩兵部隊を機械化・自動車化狙撃兵師団と称している。それを知らずにソ連軍やロシア軍の事を調べると、文字通り狙撃兵で構成されていると勘違いしがちである。
この要塞は日本にとっては喉に突きつけられた短刀の様な存在であり、仮にロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の主力艦船群増派艦隊がいまだ健在の旅順艦隊にこれらが増派で加われば、日本海軍の倍近い戦力となる。もしこの合流を許した場合、極東の制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になると考えられた。
それゆえ極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により攻城特殊部隊を擁する第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。
軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、
開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わっている。
当時の先端知識を学んでいた人材、
特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わっている事は、
旅順難戦の打開に大きく貢献した。ドイツの築城スキルは当時世界有数であったからだ。第一次世界大戦時の塹壕の出来具合を連合軍のと比べてみると良い。
直ぐにドイツの塹壕の方が協力である事が分かる。
この要塞を攻略することに決めた海軍は、単独で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出。6月31日、
大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。
しかし、旅順要塞を攻略することを当初念頭に置いていなかったために、陸軍はこれら要塞の情報が不足していた。露軍の強化した要塞設備に関する事前情報は殆どなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山披山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書いているなど誤記が多かった。日本陸海軍はまさに「戦場の霧」に苦しめられている状況だ。
こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では西正面からの攻略が有利であると考えられていた。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、
中朝国境近くのこの地にはインフラが整っていないので鉄道や道路も無く、攻城砲などの部隊展開に時間を要し「早期攻略」ができないと考え東北方面の主攻に変更する。だが新たに軍令部次長となった長岡外史や、満州軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となった。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。一方その頃第三軍は、
6月26日までに旅順外延部まで進出していた。
そこでコンドラチェンコ少将の部隊が逆襲に転じるが、塹壕で彼らを待ち構えていた日本軍に撃退されるというのが史実のはずだった。だが、現実は違う。何と最初から東北方面の主攻の方針で攻めて来ているらしく、
我らがロシア勢が迎え撃とうと準備する前に、東方の大弧山を占領してしまったのだ。なのでこちらは逆襲しようともまだ準備で着ていないので史実の様に実施されず、1・2週間睨み合いが続いた。
そのにらみ合いの状態は僅か3日ほどで終了し、現在203高地を中心に日本軍が大弧山から旅順要塞一帯に攻勢を仕掛けている状況だ。大弧山に設置された史実で旅順要塞陥落に大いに貢献した二十八糎榴弾砲と三十一年式速射砲の砲撃が、我らロシア軍の陣地地面を爆音と衝撃と共に次々と耕していく。
二十八糎榴弾砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、
元々は対艦用の海岸砲として日本内地の海岸に配備されていたものであったが、日露戦争では攻城砲として使用された。バルチック艦隊の極東派遣が現実のものとなった明治37年8月5日、大本営は朝鮮海峡の制海権を確実にするために、
東京湾要塞・芸予要塞に設置されている同砲を、朝鮮半島鎮海湾と対馬大口湾に移設することを決定した。
その後の8月21日に旅順要塞総攻撃が失敗したため、寺内陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきことを主張していた有坂技術審査部長を招き意見を聞き、この意見を採用することを決断し、山県参謀総長と協議して、合計18門が旅順に送られたのだ。
二〇三高地の戦いを含む旅順攻囲戦では延べ16940発を発射した。特に旅順攻略において3週間かかるといわれた砲床構築を徒歩砲兵は9日で完成させ、6門にてロシア軍陣地に大打撃を与えた。さらに観測点となる高地の奪取後は旅順湾内に停泊するロシア海軍旅順艦隊(第1太平洋艦隊)に対し砲
撃を行った。旅順艦隊をほぼ殲滅することに成功し、旅順降伏後の二十八糎榴弾砲は日露戦争の陸戦における最終決戦(会戦)である奉天会戦にも引き続き投入され活躍している。
重量は10758kg (砲身重量・閉鎖機共)で、砲弾は堅鉄弾・九八式破甲榴弾・二式榴弾と色々と有り、平均的な重量は220kgだ。
最大射程は7800mである。この時代の榴弾砲としては重量などを考慮すると少し良い程度である。
三十一年式速射砲は、日本陸軍が明治31年(1898年)に制式砲とした大砲。三十一年式野砲と三十一年式山砲の2種類がある。著名な銃砲設計者である陸軍中将有坂成章(帝国陸軍初の国産小銃の開発者である村田経芳の後継者で、この三十一年式速射砲と三十年式歩兵銃を開発)が開発したもので、別名「有坂砲」といわれる。
日露戦争での主力砲として活躍した。
口径は7.5cm、射程は野砲が7800mで山砲が4300mとなっていた。重量は908kgである。日露戦争中に仰角の修正や防楯の装備等改良を加え、性能を向上させている。
大砲としての性能は高く、特に砲弾の性能はロシア軍を凌駕していた。それ以外の射速度・最大射程の側面では劣ったが、日露戦争の陸戦の勝利には、この大砲と二十八サンチ榴弾砲、三十年式歩兵銃の貢献が大きかったといわれる。
とは言うが、本砲が「速射砲」と呼ばれたのは、初めて無煙火薬を使用したことにより、それ以前の黒色火薬による排煤作業が不要となり「速く撃てる」ようになったことに過ぎない。本砲は簡単な復座装置(砲車復座式:発砲の反動で砲架は後退するが、砲架に装着されたバネの力で元の位置に戻る)しか備えておらず、発射の反動で砲架全体が移動してしまう点は従来の火砲と同様であった。
従って、人力で砲架を元に戻してまた照準をやりなおさなければならず、速射砲といえども実際の射撃速度は1分間に2~3発とあまり高くなかった。
また、砲架をまっすぐ後退させることが前提の設計なので当然ではあるのだが、
砲身の可動範囲は俯仰のみで、方向射界を与えるには、わずかの修正であっても砲架ごと向きを変える必要があった。
日本陸軍が初めて本格的な駐退復座機を備えた火砲を導入するのは、三八式野砲の登場を待たねばならない。弾薬は分離薬莢式であり、弾丸と薬莢を順々に装填する必要があった。ちなみに三八式野砲は日露戦争終結後の1907年に採用されている。
これ等の火砲がそれぞれ2門・20門ほど大弧山に設置されており、どんどん砲弾の雨をこちらに景気良く降らしてくる。確かこの時代の陸軍は今の陸上自衛隊と同じで貧乏である筈だが、まるで第一次世界大戦の西部戦線の様に、どんどん砲弾を撃ち込んでくる。こちらも何とか反撃はするが、丘と山の位置関係ではどうしても山の方に勝ち目があるので、
丘より上の山に展開する日本軍の砲撃が勝るのは当然だ。
それゆえ、こちらは大人しく山から見えない場所に塹壕を作り、息を潜んで攻撃に備えながら耐えるしかない。下手に打ち返そうと砲兵隊を地表に展開したり、
その山頂の砲兵陣地を潰そうと歩兵を突撃されると射的の的の様に狙い撃ちされるので、大人しく砲撃が止むまで耐えるのだが、その間は本当に地獄である。
周りの小さな息遣いが微かに己の耳に聞こえる中で、自分が土壁を見つめながら時間を潰していると、ある時急にドゴーンとかドガーンといった重い音と衝撃が周囲に響き、それと同時にパラパラと塹壕の土壁や、司令部や通信設備の整った哨戒所などが入った施設の天井から土やホコリなどが落ちてくる。その砲撃音で耳がしばらく使い物にならなくなるので、鼓膜が破れないように口を開けながら耳を塞いでしばらく蹲るしかない。
これがまだほんの1日に一回10分程度ならまだ良いのだが、30分から50分程度の砲撃が一日に不定期に5・6回は襲い掛かってくるものだから、こちらとしては堪ったものではない。砲撃の嵐に慣れていない新兵同然の我らロシア兵はたちまち精神的にやられるものが続出し、砲撃開始後日後あたりからほとんどの兵士が、塹壕や陣地の中で無言で蹲っているようになった。
数人は発狂寸前の状態だったので、戦争の邪魔なので仕方なく後方に運ばれた。彼らは皆、所謂シェルショックこと戦闘ストレス反応を患っているのだ。
自分も塹壕の中で砲弾の破片などにやられないように身を低くしながら、頭の中でかつてプレイしてきたエロゲーのエロシーンを思い浮かべて妄想に浸らなかったら、今頃発狂していたかもしれない。
この点は日本のエロゲーに感謝だ。かなり酷い理由だけど。
それはともかく、
こうも砲撃の弾幕が激しいと迂闊にこの付近に展開する我々ロシア軍は身動きが取れない。それゆえ他の友軍部隊、例えば旅順要塞守備隊などが別働隊として部隊を割いてくれるとありがたいのだが、
司令部は別働隊を割いたりなど明確な対応を取ったりしていない。司令部所属の兵士達が陣地での宴会でぼやいていた事だが、どうやら司令部のほうで何やら今後の対応を巡って論争が起きているようだ。
何でも予想以上の日本軍の強さと動きに驚愕し、戦前の計画通りに対応してよいのかステッセリ中将とコンドラチェンコ少将、そして史実では8月10日に戦死しているはずのヴィトゲフト准将の3人を中心に論争が起きているのだそうだ。
ヴィリゲリム・カールロヴィチ・ヴィトゲフトはドイツ系ロシア人で、この世界では負傷ですんだが史実では戦死したステパン・マカロフ提督の後を継いで臨時極東艦隊司令長官に任命された。前任者とは対照的に、優勢な日本海軍の旅順口攻撃の前に旅順港内に閉じこもって戦力を温存する策を採ったが、旅順が日本軍の包囲を受けると退嬰的な姿勢が批判を浴び、ついにはロシアのトップである皇帝ニコライ2世の電報を受けて8月10日にウラジオストク港への脱出を目指して出撃したが、港から40海里を過ぎたところで東郷平八郎率いる連合艦隊に捕捉され、海戦となる。その最中、ウィトゲフトが居た旗艦「ツェサレーヴィチ」艦橋の司令塔を12インチ(30.5cm)砲弾が直撃、羅針艦橋で指揮を執っていた彼を戦死させた。彼の戦死によってロシア艦隊は大混乱となり、旅順艦隊はほぼ戦力を壊滅して組織的な脱出に失敗したという悲運な将軍だ。
この世界では前任のマカロフ提督が病院のベッド送りとなったので、史実と同じく臨時の艦隊司令官となったが、史実より早くも極東艦隊が壊滅したので、居候の身として彼を含んだ海軍の残存軍人達は、要塞で陸戦隊として祖国のために軍人としての勤めを本職とは違うが立派に尽くしている。
ともかく3人は自軍(5万6千人と火砲436門)の戦力で、如何に援軍が到来するまで日本軍の猛攻を凌ぐかと策を打ち立てているのだが、見事に1つの意見に纏まらないみたいだ。ステッセリ中将とヴィトゲフト准将の2人は現状維持、または防御戦術を今後の作戦の主体とする事を訴え、コンドラチェンコ少将はこのままではジリ貧なので勝機を掴むために逆に攻勢に出る事を訴えている。
ステッセリ中将とヴィトゲフト准将の意見は、この旅順要塞と地形を上手く活用して、本来の予定伊通りに敵に出血を強いながらも時間稼ぎに励み、援軍が来るまで無理な冒険はしないということだ。
この考えは至極妥当な判断だと個人的に思う。この旅順要塞一帯のロシア軍は時間をなるべく稼ぐ事が勝利の決め手であるので、ここで下手に攻勢に出て犠牲を防御時より出してまで行なう価値は見当たらないので、あまり良い作戦だとは思えない。
更にこの旅順要塞は東洋1最強の要塞として名高い堅牢な要塞だし、地形を上手く利用した効率的な防衛線が周囲に敷かれているので、敵が余程の名将だったり奇想天外な策を講じたりしない限り、
この要塞を陥落させることは大変苦労するだろう。実際に自分もこの目で要塞の全容を知ろうと歩いて探索したが、まるでマジノ線のように理論上は堅牢な造りの要塞となっているので、確かに東洋1を謳うのは当然だと思った。
だが、コンドラチェンコ少将は違う意見を唱えている。彼曰く、「まだ敵は、
本格的な長期戦に耐えられるだけの準備をしておらず、更に今のところ我ら列強であるはずのロシア帝国軍は、新興国の日本に一度も勝利せず惨敗し続けている。何れ援軍が来るので最終的に勝利は間違いないが、此処は1つ連中に攻勢に打って出るのはどうだろうか?彼らはまさかロシア軍がこの堅牢な要塞からわざわざ飛び出して攻撃してくるとは思ってもいないだろうから、
その油断を突いて戦術的な勝利を刻み、
低下し続けている自軍の式を何とか盛り返すべきである。
このまま要塞と防衛戦に篭り続けるような消極的な行動では士気の低下は免れず、やがて脱走兵や出たりするなど風紀が乱れるかもしれない」とのことだ。
自分はその意見を聞いて、日本軍を少し舐めていないかと思ったが、史実の日本陸軍の事情を知っている身としては少し納得の行く理論でもあった。確かに日本はまだ富国強兵の真っ只中で列強と呼ばれるほどの国力は持っていないし、島国ゆえに海軍を中心に予算を注ぎ込んだので、帝国陸軍の装備はドイツやフランスなどといった当時の列強諸国と比べると見劣りしてしまう。
更に今まで戦ってきた相手がオスマントルコと同じくかつての大国、東洋の瀕死の病人である清国としかないのだ。これが本格的な世界を支配する白人の列強との戦いであった。それも兵士の動員数では列強最多のロシア帝国との戦いだ。
そのロシアは白人の列強に連なる大国の1つであるが、民族そのものが同じ白人(特に西洋の列強)からも少し下に見られていた。なぜならロシアは長い間、
「タタールのくびき」に苦しんできたからである。それゆえロシア人はタタール(モンゴル人)とのハーフと思われて、
一歩下に見下されていたのだ。図体と人口ばかり大きい野蛮な国だと。このように一歩下に見下されてきたロシア人にとって、いくらかのイギリスが同盟を結んだ国とはいえ、自国のように産業革命に乗り遅れた新興国でしかも劣等の黄色人種の島国に負けているとなれば、余計に他の西洋の列強からの評価が下がるのは間違いないだろう。
したがって、これ以上の無様な敗北は政治的に不味いので、
何としてでもロシア軍は日本軍に何かしらの大打撃を与える必要が遭った。彼らの列強と白人としてのプライドを守るためにも。それゆえ中々3人の戦略プランを巡る討論は、そういった重い理由があるので中々決まらなかった。
そして、そんな事を話し合っている間にも、日本軍はどんどん防衛戦へと近づいて行った。総攻撃を前に第三軍は軍司令部を鳳凰山東南高地に進出させた。
更に団山子東北高地に戦闘指揮所を設け、戦闘の状況を逐一把握できるようにした。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3kmという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになる。そして自分を含めたロシア軍兵士にとっては、上層部があーだこうだとしている間にも敵軍の攻撃が激しくなってくるので、早く何かしら有効的な作戦を考えて欲しかった。このままだと一方的に砲撃されるままなので戦力が低下し続けるだけで敗北に繋がるので、それを防ぐ為にもどうにかしないといけないからだ。
自分達下層の連中は早く上が良い策を練るのを期待しながら必死に日常を生き延びる事に専念し、
今日も毎日塹壕を採掘したり修復したり、弾薬を運んだり野砲を撃ち返したり、交代で休息したり防衛戦から日本軍を見張ったり、このような定期的なサイクルが繰り返される日々を繰り返している。第一次世界大戦の西部戦線の塹壕の日々の予行演習だ。ちょくちょく砲弾が飛んでくる最前線で無い限り暇の一言に尽きる。
何せ今まで戦争中ではあったが前線ではなかったので、ある程度の自由は許されていたのだ。例えば定時までに帰る事が可能ならローテンションを汲む事で外出を許可したり、または朝鮮半島38度線のように、
定期的に半年に一回のペースで前線で任務に当たっている部隊を後方に下がらせて休息を取らす代わりに、別の本国から派遣されてきた部隊が任務に就くなど、
平時の様な余裕が1ヶ月前ぐらいにはこの旅順要塞にあったのだ。
そう、あったのだ。平和な時間が。
だが、今はそんな余裕はここには全く無い。前述したように常に一定の間砲撃が行なわれるので、
前線の部隊はその轟音と衝撃でぐっすりと休息できずにいて、常に砲撃後の攻撃に備えているので精神と体力をすり減らして行く。更に此処最近1・2週間は遂に中隊単位で歩兵が突撃してくるような、小規模だが本格的な攻撃が行なわれるようになったので、銃撃戦がそこかしこの陣地や塹壕などで行なわれるようになった。しかし、日本軍はただ相手の戦力などを探ろうとする威力偵察に気が生えた程度の戦いしかしないので、こちらも前述の理由から損害を出すわけには行かないと、消極的に身をなるべく出さないようにしながら砲撃戦と銃撃戦を行なうので、あまり死傷者は出ないが膨大な弾薬の消費が費やされて行く。毎日6~7万発の弾丸が消費されるので、その消費分の弾薬を補充する作業が大変なのだ。
シベリア鉄道によってウラジオストックまでは列車で兵士と弾薬など、人体で言う血液の様に戦争に必要不可欠な軍需物資が運ばれてくるのだが、ウラジオストックから旅順まではまだ線路などの交通網が敷かれていないので、必然的に馬を利用した輸送集団で運ぶ事になるのだが、鉄道と比べて時間は懸かるは一介に運搬されてくる量は少ないはと色々と劣っているので、今はまだ何とか重要と供給のバランスは保っているのだが本格的な戦闘が始まったらそのバランスが崩れるのは必然だ。最悪の場合は弾薬と食料が尽きて万歳突撃ならぬウラ(ура)ー!突撃するしか選択肢がなくなるだろう。
それを防ぐために何とか大量の軍需物資を要塞に運び、貯める必要があるので補給部隊はフル活動していて人員も増加されているのだが、
前線にしばしな兵士の慰安として向かう自分としてはまだまだ足りない気がするので、補給作業に立候補したのだ。慰安任務で前線に赴く際に一緒に軍需物資を運ぶと。それに対して反対の意見は少々あったが(従軍神父の役割に反するのでは?そもそもそれは軍部補給担当の問題だがら管轄外の者が口出すのはいかがなものか?etc)、その話を聞きつけたコンドラチェンコ少将が自分のことだと知ると、
「実に愛国的な精神に基づく行いなので反論するまでも無いだろう」と援護しだしたので、それもそうだと同調するものが佐官連中や兵士連中に増加したので、
見事自分の訴えは賛成多数で認められたのだった。
こうして今日も前線へと軍需物資を運ぶ任務と、牧師としての勤めを同時に平行して自分はこの旅順の戦地で日々を過ごしている。今日の予定は午前中に、史実では8月22日に日本軍に占拠された大頂子山と、有名な203高地の陣地に軍需物資を届けると共に牧師として慰安任務を行い、午後には旅順要塞に帰還して負傷者の回復を願う祈祷を行うと同時に、野戦病院で治療の手伝いをして一日が終わる予定だ。今自分は現在進行形で、
えっちらほっちら背中に弾薬箱や衣料品などが詰まった背嚢を背負いながら、
歩いて大頂子山の山頂に向かっている。
空模様は生憎の曇り空、道は獣道の様に舗装されていない荒れ野のように凸凹としているが、躓きそうな石などは全く見当たらないので坂道特有の歩きづらさがあるだけで何とか済んでいるが、空の曇り模様を見ていると何れ雨が降りそうなので、もし降ってきた場合に備えて早く目的に着かなければならない。
しかしまぁ、なんだ。背負っている荷物の量と重さが半端無いのでひじょーーーーーに歩きづらい。
全部合わせると50kg以上はあるんじゃないかな。とにかくひたすら重くて肩にリュックの紐が食い込んでくる。なによりもまず、ちゃんと真っ直ぐにバランスを取りながら山道を歩くのが大変だ。
重さの所為で一歩一歩足を踏み出して前進するたびに、背中に負荷が掛かりまくりなので重心が後ろに下がってしまい、
そのまま背中から地面に転倒しそうになるのだ。
この重たい荷物を背負ったままでの転倒は危険なので、転倒のリスクを下げるべく自分はあるものを持ってきた。それは「杖」である。とは言っても、しっかりとした代物ではなく単なる長めの棒を少し削ったりして杖っぽくしただけだ。
この杖もどきは結構バランスを取るのに便利なもので、少し力を込めて体を支える視点にしても壊れない程度の頑丈性はあるので、これを作った1週間前から7・8回は転倒の危険から助けられている優れた代物だ。
最もこの杖もどきは自分1人の手で作ったわけではない。
先に此処に派遣されていた前任者が作り方を教えてくれたのだ。彼はその後どうなったかと言うと、自分の着任後にアムール地方へと派遣された。それはさておき、自分がその杖片手にえっちらほっちら苦労しながら歩いて1時間ほど経った頃、ようやく目的地の大頂子山陣地に到着した。
木の杭と鉄条網が組み合わさった柵が陣地周辺に入り口付近を除いて山を取り囲むように設置されており、その柵の後ろには塹壕が張り巡らされており、陣地には1個師団程の兵士が駐留している。
そして塹壕付近にはM1877 87mm軽野砲・M1900 76mm野砲・M1902 76mm師団砲・M1877 107mmカノン砲
・M1877 152mmカノン砲の5つの火砲がずらりと展開し、大弧山を中心としてこちらに攻め寄せて来る日本軍に砲門を向け、連中が射程範囲内に入ったらその砲門の先の地面を砲弾で耕していくのがこの陣地の日常だ。
陣地周辺には木や草などの自然が少し生い茂っているが、
この陣地と大弧山の間の距離にはそのような自然は一切見受けられない。砲弾によって草木が燃えたり、または大きな穴が開いたりしたので、この地での戦争が終わるまで元の自然を取り戻す事はないだろう。死体や血のりは一切見受けられないが、そことなく戦場だと実感できるような重い空気と火薬の鼻につく匂いが、鼻につーんと漂ってくる。長い間此処にいると嗅覚が麻痺しそうだ。
そんなことをつらつらと思いながら、
自分は何か防衛戦の点検などをしている付近の兵士などに物資集積所と弾薬庫の場所を聞くと、任務を果たすために目的地に向かった。塹壕を突っ切り陣地内部へと入った自分の目には、大勢の兵士達が行き交うまるで戦争映画の1シーンの様な光景が繰り広げられていた。
野戦救護施設らしき大型テントには、
地べたにシーツを敷いただけのお粗末な寝台が設けられており、その寝台の上に全体の約5割ほどを兵士が占めており、
包帯でぐるぐる巻きにされながら横たわっている。歩きながら見たので詳しく分からないが、どうやらそこには重傷や重体の兵士が寝かせられているようだ。
なぜ、そう思ったかと言うと、鉄分溢れる血の臭いはプンプンと臭ってくるのだが、それ以外の臭くて甘ったるいような死臭が全く漂っていないからだ。そして全員横たわっている兵士達の胸が呼吸のためか上下に動いているので、彼らは死んでいるおらず、
他に重傷や重体の者はいないと自分は判断したのだ。
その隣のこれまた大型テントには、医者と看護師らしき年輩と若い男達が白衣と白のエプロンを着用して、寝台の上に横たわっている患者の様子を見ている。
白衣とエプロンの所々に血らしき赤黒い液体が飛び散った後があり、彼らの持っているカルテにも何やらそれらしきものが所々に見えるのは気のせいだろうか?
隅っこの方に手足らしき物体が山積みとなっているし、こっちは見ているだけで寒気を覚える。
だが悲しい事に、
運んできた軍需物資の中には戦争に必要不可欠な医薬品も当然含まれている。
つまり、結局いつかはここに絶対に入らなければいけないのだ。それゆえ、ここに入ることは最後にしてまずは最初の目的地であり、荷物が一番多い弾薬庫まで一路向かった。
先程の野戦救護施設を後にして5分ほど、最初の目的地のテントに着いた。しかし、此処で問題が発生した。持ってきた弾薬をそれぞれ別々に分ける作業が必要となり、地面において分別作業を開始したのだが、その結果、頼まれた筈のマキシム重機関銃のライセンス銃であるPM1910重機関銃の弾薬箱(100発)が、予定より1個リュックの中に入ってない事が判明したのだ。
「何てこった!」
思わず小さくそう叫んでしまった。これはかなり重大なミスである。今から戻るにしても時間的にスケジュールが狂うからそれは無理だし、
歩兵小銃モシン・ナガンM1891/30と並んで一番弾薬の消費量が激しいものが無いとすると、
戦闘時の弾幕の形成に穴を開けることに繋がるから大変だ。
これはかなり重い責任問題となるので、
この後どうしようかと地面に出された数々の弾薬を見ながら悩んでいた時、ふと、あることに気づいた。そしてそれが、
もしからしたらこの難問を解決する秘策になるかもしれないと思うと、ほんの少しだけ気分が楽になった。
一体何を思いついたのかと言うと、小銃の弾で代用する考えだ。PM1910重機関銃とモシン・ナガンM1891/30は、同じ口径の7.62x54mmR弾を使用しているので、
お互いに弾を相互交換することが可能なのだ。というか、
そもそも持ってきた弾薬はこの7.62x54mmR弾しかない。理由は言わずもがな、1人の人間に運べる量は限られているので、一番軽くて需要があるものを任されたのだ。
とにかくこのモシン・ナガンに装填されている5発のクリップに纏められた7.62x54mmR弾を一旦ばらばらにし、空の弾薬箱を見つけたのでそれに詰めなおす作業を開始し、どうにか予定通りの数を揃えることに成功した。
ここで「あれれ?それじゃあモシン・ナガン用の7.62x54mmR弾が足りなくなったのでは?」
と思うだろうが、
そこはご安心を。
翌日に本職の方々が弾薬をたんまりと持ってくるので大丈夫なのだ。自分は彼らの手助けのために余計に7.62x54mmR弾を持ってきたようなものなので、他の大砲の弾薬などは一切持ってきていない。あくまで本来よりも多く7.62x54mmR弾が多く貯蔵されるように手助けしただけなので、実はそんなに今回に限っては責任が重くなかったりするのだ。
ちなみにこの7.62x54mmR弾は、
ロシア帝国により開発された起縁式小銃用実包であり、1891年に軍用弾薬として導入された。
開発から1世紀以上経過しているが、
現在でもロシア連邦軍の他、中国や北朝鮮、ベトナムなど冷戦時代には東側陣営に属した国々で広く用いられている。
本弾薬は開発当初、モシン・ナガン用として設計され、帝政ロシア時代の後期から、現代のソビエト連邦の終結までを通じ、機関銃やトカレフM1940半自動小銃のような小銃に採用されている。
この実包は幾種か作られた代表的な起縁式実包の一つで今だに軍に残って用いられており、かつ、
世界のすべての軍が作り出した弾薬の中でも最長の採用年数を持つので特徴だ。
こうして何とか提出する弾薬箱をそろえる事に成功した自分は、任された任務を達成するために弾薬庫まで赴き、補給担当の兵士に明日の補給部隊が来る前に先に少し弾薬を持ってきた事を告げ、
両手の弾薬箱を掲げて彼らの視界に見えるようにする。すると担当係の兵士は笑顔で「いやー、まさか聖職者の人が弾薬箱を持ってくるとは大変珍しいですな。それはそうと、どうもご協力感謝します。ここではほぼ毎日大規模な戦闘から小競り合いなどでよく弾薬を消費しますから、多くあるにこしたことはありませんからね」と言って、
弾薬箱を自分から受け取ると、所定の位置に運ぶよう他の者に命令していく。
肩襟から察するに、どうやら目の前の担当係は伍長のようだ。
とりあえず自分は彼に弾薬箱とクリップに装填された7.62x54mmR弾を提出して、出し終わると「では、また」と挨拶して、2番目の目的地である物資集積所に向かった。物資集積所は木造ハウスそのまんまであり、ドアを開けると様々な物資がぎっしりと部屋一面に積み上げられていた。
毛布やランプ用のオイルタンク、薪に水の入ったタンクとロシア名物ウォッカを含む酒樽、そして様々な食料や缶詰などが保管されている。自分は此処に毛布とマッチを置き、それらを置いた事をこの建物の責任者に報告して、いよいよ最後の目的地である先程スルーした野戦救護施設に向かった。
先程何やら治療を行なっていたそこにはもう終わったらしく、寝台の上に先程までいたはずの兵士と付き添いの看護師は居らず、石が何やら小さな椅子を寝台の傍においてボケーっとしている。見た限り、どうやら一仕事終えて休憩に入っているようだ。その証拠に、さっきの様な不気味な雰囲気は流れておらず、逆に何度か見ているこちらが疲れていくるようなだらけっぷりを見せている。擬音で表現するなら「でろーん」とか、「ぽけー」という表現が適切だろう。
とりあえず自分は任務を達成するために、仕事で疲れすぎて呆けている哀れな男の休息の時間に介入し、医薬品を届けに来た事を伝えるべく、「失礼しまーす」と言いながらテントの中へと入った。
「お届け物に参りましたー。包帯と医薬品をお持ちしましたので、確認のほどをお願いします。」
そう言って自分が背中のリュックの中身残り全てを彼の目の前に置くと、彼は最初は相変わらずぽかーんとした顔でリュックと自分の顔を交互に見比べていたが、直ぐにハッと気づいた様子で目を一旦ぱちくり瞬きした後、
「あっ…あぁ、どうもありがとう。そこに置いといてくれないか」と、少しきょどりながらそこに置くよう指差したので、自分は指定された場所へと向かい、
持ってきた品を置いた。さて、こうして頼まれた軍需物資の運搬も終わったので、自分は旅順要塞に帰ろうと思ったそのときだった。
「なぁ、ちょっと待ってくれ、少し時間はあるかね?」
医者らしき白衣を着た件の男に呼び止められたのは。
コポポポポ……!
カチャン
「さぁ、一杯飲んで行きなさい。此処まで徒歩でくるのはかなり疲れただろう。」
「これはこれは、
わざわざ有難うございます。」
自分は件の男と対面するように向かい合わせで寝台の真横に椅子を置いて、彼から入れてもらったウォッカを飲んでいる。さすがロシア人!
こんな真昼間からウォッカの様な強い酒を平然と飲めるその神経!そこに痺れないし、全くあこがれない!
とまぁ冗談は置いといて、普通にこんな真昼間からウォッカを飲めるとは以前の自分ならありえなかっただろう。かつて日本人であった頃なら、ほぼ絶対にありえなかっただろう。何せ下戸なので、
直ぐに遠慮しますといってそそくさと退散していて、無理に飲んだりしたら直ぐに夢の国に飛ぶかリバースのどちらか一方だっただろう。
だが、心はそうでも肉体は不思議と子の様に昼間からの飲酒が大丈夫なポテンシャルと成っており、2瓶ぐらい空けないと簡単には酔わない強靭な体と成っているので、このように平然と酒を受け取る事ができるようになったことは、やはり自分が日本人から酒が大好きなグルジア人になった事を自覚させた。
本当にマジで今までの下戸が嘘みたく、うわばみのようにどんどんと飲酒できるので。何時か急性アルコール中毒であの世に行く日が来るかもしれない。
さて、こうしてコップいっぱいに注いで貰ったウォッカをごくりと飲んだ自分は、自分を引きとめて酒を奢った彼の真意を考えていた。単純に自分の此処までの運搬を労うためにやったのかもしれないが、自分は牧師なので、何か人前には相談できない事があってそれを相談するために引きとめたのでは?と疑っているのだ。一応職業柄、
様々なありとあらゆる思考・階級・生活の人間に悩みを相談される職場に勤めているので、このような思考を思いつくのは職業上当然だろう。それゆえ、自分は彼から話し出すのを黙って彼の事を見つめながら待っていた。
しばらくの間、そうやって静かな空気が流れると、やがて彼の方から話を切り出してきた。どうやらその表情から察するに、今回の戦争に関して何やら彼なりに思うところがあるようだ。
「牧師の方ならあまり実感できないかと思いますが、このたびの戦争は何処かおかしいです」
「おかしい?おかしいというと…?」
「かつてロシアが此処まで多くの死傷者を一度の戦闘で出し、更に両軍ともこのように塹壕を張り巡らせて砲弾を避け合うような戦場は今まで一度も無かったのですよ!それが今回このようなことになっていて、気が滅入りそうだ…」
かなり憔悴した様子で話してくれたが、どうやら第一次世界大戦や第二次世界大戦に通ずる塹壕戦と火力戦という新しい戦争形態に大きなショックを覚え、それらの戦争形態によって生まれた負の側面にかなり打ちのめされているようだった。まぁ、現代に生きてきた自分からしてみれば、今更何を当たり前のことにショックを受けているんだかと少し呆れるのだがね。
クリミア戦争の頃から分かっていたはずだ。近代の火力戦による即死や手足が吹き飛ぶような多くの死傷者の続出は、
決して避けられない道であるということが。この日露戦争はまさに、これから起きる第一次・第二次世界大戦の前哨戦であるのだ。そしてその後のベトナム戦争などにも通じる火砲の進化による犠牲者の増加、その惨状はもうこの時点で芽生えていたのだ。榴弾砲の爆発によって前進を引き裂かれた兵士や、カノン砲によって手足の一部しか残らなかった兵士、それらの砲撃の破片によって体の一部を失う兵士、今の戦争でも見受けられる光景はクリミア戦争の頃から繰り広げられていた。
「貴方の気持ち、
少しは共感できます。こんなにもあっけなく人は神の御許に旅立つのですよ。」
「そう、そうなんだ!!始めてこの地に前任者と交代して来たときには既に20人の患者がいた。
しかし彼らの内10人は懸命な治療を施しても間に合わず、
着任して5日以内に全員死んだよ。渋滞だったので言葉を喋る余力も無いぐらいに衰弱してね。彼らの死体を処理して直ぐにまた次の日には50人ほど運ばれてきて、その内30人がその日の内に死んだよ。砲撃で身体をズタズタに引き裂かれてた所為で出血多量が原因だ。かわいそうに、まだ前の兵士達と違い彼らには意識があったから、
家族の名前を呼びながら血を吐き出して、発症風や大量出血によるショックなどで死んでいったさ。」
「その後も来る日も来る日も運ばれてくる患者は半分以上は助からずにあの世に旅立ち、助かった患者の兵士達も、そのほとんどが手足を切断する破目になったさ。前述の死んだ兵士達も半分ほどが身体を切り刻んでまで助けようとしたが全員助からなかった。
全員だ!全員。そんな事がずーーっと2ヶ月も続けば、気が狂いそうだ!!
……頭が狂いそうだよ、この地獄に…」
自分がその言葉に少し共感できる節を伝えたところ、彼は興奮した様子で自分が今まで経験してきた惨状に付いて喚き散らすように語り、
最後の方には自分が狂いそうになっている事をぼそりと呟いた。それを聞いて自分は少しの憐れみと、「こいつは新人かな」という、ほぼ呆れた感情を覚えた。
史実の日露戦争での戦死や病死も含めた死者数は6万2千人ほどだが、ここ旅順要塞周辺でのロシア軍死者数は約1万6千人ぐらいで、史実第一次世界大戦や大祖国戦争(独ソ戦)でのロシアの死者数に比べれば少ない方だったので、これぐらいで泣き言を漏らすぐらいではこの先が思い知れるなと思った。そもそも畑で人が取れる国なので、多少の犠牲を考慮したうえでの作戦を取るロシア軍の軍医が精々1000人の患者を診察したぐらいでこんな情けない事を洩らすとは、精神的にかなり甘いなと思った。
「ですが、これは戦争です。一応相手はあの世界有数の列強である大英帝国が同盟した、黄色人種の新興国である日本ですよ?先の日清戦争や義和団の件で、
そこそこ侮れない軍事力を持つ国であることが分かっているはずですから、これぐらいの犠牲が出るのは当然であり、
多少の覚悟の内ではないですか?」
自分ことヨシフが彼にそうツッコミを入れるように話すと、彼は「分かっているんだ。多少の犠牲は戦争だから仕方ないということは。だが、覚悟が甘かったよ」と、呟くようにボソリと言った。その表情は見ているだけで少し鬼気迫るものがあり、何よりも顔色が優れなくてまるで死人のようだった。見ているとかなり精神的にきているのが理解できる。
「最近、夢を見る事が多いんですよ。
それも悪夢の類である夢を。助からなかった兵士達が死んだときの血まみれの姿で、私の事を呼びながら恨めしそうに迫ってくるのです。
どうして先生は俺達を救ってくれなかったのか?とね。」
(あちゃー、これはかなり重傷だねぇ。鬱病の一歩手前、
もしくはPTSD発症の一歩手前かな?
さすがにこうしたPTSDまたは鬱病を患っている人の対処方法って知らんぞ…!どう対応すればよいのだろう…?)
遂に彼は死んだ患者の兵士達が迫る悪夢を見るとまで呟きだした。これはまさにPTSD発症の診断例の1つである、
反復的かつ侵入的・苦痛である想起に苦しんでいると思う。これはPTSD発症を示す症状の1つで、彼の様に悪夢に苦しんだり不眠症にかかったりする症状で、俗に言う「フラッシュバック」である。彼は今まさにそれを発症しているのだ。
とりあえず一応神に仕える身であり、
この戦場に派遣されている身としては、精神的な側面でしかこの哀れな羊を助ける事しかできないので、何か此処で彼の苦悩を打ち消すような気の効いた言葉を言うべきなのだろうが、生憎そのような名台詞を思い浮かべる能力は持っていない。史実の偉人が発した・または二次元のキャラクターの発した名台詞なら多く知っているのだが、さすがにそれをそのまんま言うのも何だか風情が無いし、
パクリでもあるから本物を至極尊重する元日本人としては出来れば言いたくない。
であるから、ここは1つそれを参照した言葉を言う事にしよう!………………………えっ、何何?…パクリとどう違うのかって?………………辞書を引けばわかる。以上、終わり!
「全く情けないお方だ。男でしょう!!」
彼の治療のためにまず最初に行なったのは、最初に思いっきり叱る・または怒鳴りつけて萎縮させる事だ。当然いきなり大きな声で怒鳴られたので彼はびくん!と一瞬仰け反り、こちらをビックリした様子で見つめていた。その表情といったら、
まるでソファの上でぐっすりと寝ていた犬猫が、ふとした瞬間に地面に落ちた時の様な顔をしているのだ。少し笑えてくる要素があって、
思わずクスリと笑いそうになるのを何とか我慢しながら次のステップに移った。
「貴方は医者だ。
誰が何と言おうと医者だ。病気や負傷した人を助ける術を持っている限られた人間だ。貴方は凄いのだ。そんな貴方が女に振られたようにめそめそとしていてどうする!?あなたがそんなんでは、助かる人も助からなくなる。助からなかった人たちを踏まえて多くの人を助ける使命があるんじゃないか!!??まだ戦争は終わっていなく、
これからもまだまだ続くんだぞ!多くの怪我人が此処に運ばれてくる事になるが、貴方がそんな弱気でいたら治療に支障が出て、助けられるはずの兵士も死んでしまうぞ!!あなたはそうやって後ろばっかり見てなくて前を見るべきなんだ。
あなたの様な医者の手はこれからどんどんますます必要なんだから、さっさと前を向いて今生きている患者達の治療に励むべきなんじゃないのか!!??」
彼の顔と自分の顔を鼻と鼻がぶつかり合うぐらいに近づけて、彼の目と自分の目が見詰め合うぐらいに互いの顔を寄せて威勢のよい言葉を吐いた。ほぼよいしょする内容で少し熱血物みたいな感じだが、彼の様に精神的に疲弊している人間にはかなり効果的だと思い、そんな熱血教師的なセリフを吐いたのだ。
結構これが効果的だったようで、現代ならば「ちょっとあざとすぎないか」、
「いや…こいつ、
何1人で勝手に熱くなっているんだ?」、「熱血教師は今時ドラマだけだよねー」と1歩引かれるかも知れないが、この時代ではそんな風に捉えられずに真摯に受け止められ、かなり一瞬あっけに取られながらも次第に彼の体にみなぎるものをびんびんに感じ、
彼の体から発していた重くて暗い雰囲気が薄れて行き、彼の目に元気と希望が満ち溢れてくるのが自分には分かった。
そのまま自分は黙って彼が何か決意した言葉を発するのを待って、1分経ったぐらいだろうか、彼は沈黙を破って次のような事を言った。
「ありがとう、君の励ましを聞いてまだ医者の仕事を続けようとする意欲が沸いて来るのを感じるよ。そうだ、私は兵士を助ける軍医だ。
まだまだこれからどんどん患者が運ばれてきて忙しくなるというのに、こんなめそめそといつまでも過去を嘆いて落ち込んでばかり入られない。こんな状態では余計に患者の兵士達を死なせるだけだ。
君の言うとおりに今の僕の使命は、何とか助かった患者の兵士達を、元の健康な身体に戻す事だ!」
このように背後にシャキーン!!というテロップが浮かぶようなまでに雰囲気が明るくなり、さっきまでの憂鬱になりそうなくらい雰囲気は微塵も感じられなかった。何か自分の使命を語りだす始末で、ぶっちゃけるとあまりの変化に少しドン引きしている。だがしかし、
元気な様子になったことは結果的にオーライなので、彼に元気を取り戻した事を祝福する何か言葉を掛けようとしたときだった。
……ューーーーーーン
「あれっ?何か風の様な音が…」
「はっ、これは大変だ!先生、直ぐに耳を塞いで床に伏せてください!!」
「わっ、分かった…!」
ガタガタッ!
ゴワァーーーーン!!
グワァーーーーン!!
何やら風切る音が聞こえたと思ったら慌てた様子で軍医が床に伏せるよう怒鳴りつけるよう指示したので、その指示に従って自分が転げ落ちるように床に伏せた途端、近くに砲弾が着弾した音とその衝撃で発生した突風が野戦医療所のテントを襲った。その突風のあまりの強さに、
床に伏せていなかったらおそらく風に吹き飛ばされて転倒し、危うく負傷したりテントが全部めくれて中の色々な物が吹き飛ぶところだった。まさに間一髪と言ったところだ。
「うぅ……、一体何事だ…!?」
床に伏せた状態で顔だけ上げて自分がそう呟くと、直ぐにその答えとなる音が周辺から聞こえてきた。「マカーキども(日本軍)の砲撃だーー!」「誰か物資の運搬を!このままだと爆発に巻き込まれるぞ!!」と、
外からわーわー!とテント周辺を駆け回っている兵士達の声が聞こえてくる。
どうやら周辺のこうした様子から察するに、実に不運な事に自分は日本軍の攻撃に巻き込まれたようだ。タイミング悪いとはこのことだろう。
とりあえず伏せていた状態から立った状態へと戻り、これらから自分はどう動くべきなのか考えるために周囲を見渡してみたところ、机の下に隠れて砲撃から身を守っていた件の医師の男が這い寄るのが目に映った。
彼は自分に気づくと立ち上がり、慌てた様子でこう言った。
「どうやらかなり近くに着弾したようだな……。君、今ので分かったと思うが此処は危険だ。戦争に巻き込まれるから早く塹壕に非難しなさい!」
「ばっ、場所は!?一体何処に行けば良いのですか?」
「此処から真っ直ぐ出て行って、南の方に向かって行けば直ぐに見えるはずだ。
さぁ!急いだ方が良い。直ぐに非難しないと戦闘に巻き込まれるぞ!」
自分に早く此処から立ち去るよう言ったので、善は急げといわんばかりにありがとうと感謝の言葉を述べてすぐさま此処を立ち去り、急いでテント内から出た。
すると目に映ったのは、遠くの大弧山と思わしき山からどんどんこちらに砲撃され、陣地のあちこちに砲弾が打ち込まれて急いで物陰や塹壕に隠れようとするロシア軍の姿だった。
騎兵や将校が乗る軍馬が興奮状態で暴れだそうとしているのでその騎手らしき兵士が手綱を握って何とか落ち着かせようとしていていたり、
砲弾の破片が身体に刺さったので悶える兵士達に、砲撃が運悪く直撃して自分の方に飛んできたので、慌てて自分は体を捻って避けたらそのまま15m程地面に飛ばされたままぴくりとも動かなくなった兵士など、まさに陣地は混乱の極みである。
後方に吹き飛んで言ったその兵士の死体はほとんど肉体が焼け焦げて千切れており、まるでバーベキュー時に焦がした乱雑に切られた肉のようだ。それを見て思わず避けた状態から腰を抜かしてしまったのは無理も無い話だと思う。だが、
ちょっと吐き気が込み上げてリバースしそうになるのを我慢しながら自分は言われた場所目掛けて、
腰を抜かした状態の身体に活を入れて何とか立ち上がり、
少しよろめきながらも歩き出した。
陣地の中を横切る形で歩いている最中でも、歩いている自分の周辺を兵士達が忙しく行き交っているのが見える。
急いで前線の塹壕へと駆け足で小銃を抱えながら向かう兵士の一団や、急いで前線の部隊や砲兵部隊などに弾薬を届けに行く、日本で言う輜重兵(しちょうへい=水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を第一線部隊に輸送して、同部隊の戦闘力を維持増進することが主任務)の役割を司る後方支援の連中など、
色々な軍属の人間が自分の周りを忙しく動いている。
あまりのその多くの人間が忙しく動いている様は、まるで遊園地の開園直後の人気アトラクションへのスタートダッシュみたいだと、自分は歩きながら密かにそう心の中で思った。
その歩いている最中にも、一定間隔でヒューーンと何か飛来する音が聞こえたと思った次の瞬間に何処かで爆発音が響き渡り、数人はびくっ!と身体を震わすも、大半の者は気にする素振りを見せずにさっさと動いて目的地のある方に向かって行く。どうやらかなりここでは日常茶飯事のようで実に慣れた様子だ。自分ことスターリンの身体は、まだ戦場に慣れていないのでどこかで爆発音が響く度にはびくっ!と身体を震わすので、もう戦場慣れした者が大半のこの空間ではある意味異物の様な疎外感を覚えてしまう。
中の人である自分もまだ慣れていない所為もあるかも知れない。けど、こればっかりは流石に前々からなれることは無理だった。前世の日本人ならば自衛隊に所属するか富士の総合火力演習に毎回参加するなどすれば少しは慣れたかもしれないが、生憎自分は幼少の頃から花火の様な火薬を扱う大音量の代物が苦手だったので、多分それら一連のことをやっても慣れることは無理だっただろう。そしてこの20世紀前半のロシアに転生しても、流石に火砲の発射になれるような環境には住んでいなかったので、こうして前世と全く変わらずに一々砲撃音が鳴り響く度に驚いているのだ。
多分これに慣れることは悲しいが今後の人生でもほとんど一生無いと思う。しかし、一々砲撃の度にびくっ!とする自分をイメージするとかなり笑える光景だと思う。読者の皆さんも想像してみて欲しい。
砲撃の度に一々スターリンがびくっ!、びくっ!とまるで尻尾を踏まれた犬の様に身体を震わす光景を。結構腹にくるものがあると思うのだ。
とりあえずそんなメタい発言と馬鹿な考えは置いといて、
自分はどんどんと突き進んで行って数分後に、ようやく彼に言われた目的の塹壕へと辿り着いた。
そこには既に自分の様な軍属だが民間人と代わらないような人間(コック、軍医、輜重兵、そして同僚etc)が大勢居たので、自分は彼らに挨拶をしながら塹壕内部に入って行き、
開いてるスペースを見つけて一息吐こうと思った
その時だった。
「マカーキーの連中がここまできやがった!!手の空いている健常な奴は武器を取れ。戦闘体制を整えろ!おい、そこのお前達!ザムノーイ(ついて来い)、
ザムノーイ!」
何やら予想外のハプニングに巻き込まれてしまった……!!
ちくしょう、ちくしょう。これは絶対魔女の婆さんの呪いだ!!!
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