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2016年4月18日

2016年4月18日 (月)

E235系田町でも停止位置修正w 今回もアンダーラン。

今日2周で6回目。

ボロボロやなあ。

E235系今度は駒込でアンダーラン、かつ、修正ソフトのバグ?で、1回修正失敗したw

今日はガチでgdgdやなあw

私も大収穫や。

今度は駒込でアンダーラン、

日暮里でまたアンダーラン

日暮里が弱いのは、それはそれで間違いないんやけど・・・

東京駅から、JR東日本社員と外国人1人が、運転室に6人とその外に2人入ってきたw

後ろの2人のハナシによれば、外国人はベルギー人みたい。

ベルギーの鉄道資本家(技術者、コンサル)の視察、というとこやろなあ。

JR東日本はベルギーにどうやって食い込むつもりなんかなあ?

その後、上野駅で、乗務員室と客室のドアを開けて、ベルギー人ご一行様総勢8名は降りてった。

山手線ATCって、前方列車に当たると、信号も見えずに勝手にブレーキかかるなあ。私は運転士ではないけれども、感覚的におかしい。

だって、フツー、前方列車に当たったら、前方列車に当たらない信号が表示されて、その信号以上の速度がでていたら強制的にブレーキがかかり、そのことが運転士に通知されるべきやろ?

私が観察している限り、"前方列車に当たったら、前方列車に当たらない信号が表示されて"の部分がなくていきなり減速する。

そして速度表示のあたりがオレンジ色になんか光っとるけど、何キロまで減速すればいいのかサッパリワカランし、どんだけのブレーキ力がかかっとるのかもワカラン。

ブレーキ圧は表示されとるけれども、回生ブレーキで得られたブレーキ力がどれくらいかワカラン。

ノッチだって、運転士の入力だから、システム側からの出力を表すものではないし。

私が運転士ならば、知らねばならぬ情報をかなり知らされぬまま、運転しとる気がするなあ。


他のATCもこんな挙動するんかなあ?

こんな挙動するのであれば、運転士という職業が、判断力を失っているのかも知れん。

案外、SLの時代からカンに頼ってきて、運転士に対してデータを提示するという概念が双方にない可能性もあるけどさあ。

そうそう、E235系はドアに緑色入れて、緑色のライン廃止しとるやろ。アレ、車両窓上のステンレス部を広告スペースにするためと私睨んどる。

さっき原宿駅で、ホームドア板に広告を入れているのを見て思い出した。

てか、ホームドア板も広告スペースになるんやなあ。

代々木でアンダーラン、1周で3回かよw

けっこうgdgd。

停止位置はスグ修正できるけれども、"止まれない"ことを問題にせな。

E235系が2度もたて続けに停止位置修正するのを見て、雨の降り始めというのに気づいた

やっぱ雨の降り始めはブレーキ制御難しいのか?

この前雨のさなかに乗ったときはそうでもなかったもんなあ。

さらに日暮里で停止位置修正なう

さらに日暮里で停止位置修正なう
また手前で止まった。

なんかgdgdやなあ。

早速上野で停止位置修正なう

手前で止まった。

撮影する時間なかった。

いつもと違う駅で停止位置修正する事実を掴んだ。

やっぱりソフトの作り込み程度では直らん。

久々にE235に乗ったら、隣にラブライブ!のラッピング電車来た

久々にE235に乗ったら、隣にラブライブ!のラッピング電車来た
久々にE235に乗ったら、隣にラブライブ!のラッピング電車来た
ただそんだけ。

今日は上司らしいのが1人乗っとる。

魔法ってそもそも何なのか?

「マジックトレードセンター」でも、魔法がテーマになっていたので、魔法について書く。

この作品において、私は、魔法とは核兵器の隠喩である、と書いたけれども、もともとは違うと思う。

人間、コンピュータがない時代は、自分のカラダで動き、アタマで考えていた。


たとえば、隣の島まで何百何千キロと離れている、絶海の孤島であるイースター島に、人々が流れ着き、ポリネシアとして島々で交流があったのは、空に浮かぶ雲を見て、その下に島があると、当時の、飛行機を持たぬ人々は判断したそうだ。


ならば同様に、現世や、過去であっても一般人の想像できないようなものごとをピタリと言い当てることができる人は、「魔法使い」と呼ばれていたはずである。


だからこそ、未来が言い当てられる卑弥呼は、日本の女王になれたし、中世では領主からそのチカラを恐れられて、革命分子圧殺のための"魔女狩り"が為されたのだろうと想像する。

天皇家も"現人神"とされているが、最初は、このように未来を言い当てる能力があったのかも知れない。

そういえば、原発は大規模な断層の上ばかりにあるが、これも、人々が何代も続く長年の知恵として、断層上に集落を作ってはならないと知っていて、人々がいないところを、日本政府の為政者が、人がいないから原発立地に適することに、勝手にしてしまったのではないかと想像する。


「マジックトレードセンター」でも、確か"未来を支配する魔法"が最高だったような気がする。

"未来を言い当てる能力"は、革命家にとっては必須である。


けれども、革命家にひっついてきた一般人や、彼らの子孫にとっては、"未来を言い当てる能力"はまずないのが実態なので、彼らが死に絶えてしまっては、自分の地位を保証できない。

だから、"未来を言い当てる能力"を身につけるのではなく、未来を言い当てられなくとも高い地位にいられる仕組みを考えついてしまうのだと思う。

これは、革命の側が保守に転向したことを示す。


私には、戦争がなくならないのと同じくらいに、革命の側が保守に転向しないことは難しいと考える。

人間のサガも考慮したら、20年に1回くらい革命が起き、その都度政権が打倒されるくらいが、長い目で見て人々にとって、いちばん幸せなのではないか?

twitterで伊達娘あんまコメントしてないなあ

twitterで伊達娘がリツイートしている、ダレノガレ明美さんを見たら、有名人が率先して震災情報を発信して、大勢からリツイートされている。

有名人が為すべきはこういうこと。

自分が有名になったら、情報発信力が出てくる。

自分が有名になったら、いざというときに人々を助けられる。

これがいちばん、有名になることの必要性だったりする。

カネのためではないねん。

【ネタバレあり】「マジックトレードセンター」2回目観てきた。さすがに2回だけではあやなんの違いを理解できんかなあ。

ちょっとは理解した。

てか寝落ちしたのでいまごろの投稿になる。
最後の、セクシーなポーズを決めるところ、確か前回観た時は立ったしぐさだったが、今回は壇上に座ったしぐさだった違いはあった。
けれども、演技が上手くなった、とかいう感触まではなかった。
脚本が難解過ぎて、役者がいろいろ工夫してみるところがない、といったらいいのか。
舞台と、映画やドラマの違いはそこかなあと思う。
映画やドラマは、同じ映像を繰り返し観ることができる・・・、逆にいえば1回しか演じることがないので、役者の考えが及ばないような設計を監督が入れられたりする。
是枝監督とか、小津安二郎もやっていたと思うが、どういうシーンか言わずに単にそのシーンを淡々と撮る、ということができる。
俳優がその役柄に一切感情移入しない方法があるのだ。
舞台は違う。
どんな役柄だって、何時間も何回も演じる、それこそ役者さんは”役を作る”と言ったりしているが、その役柄に感情移入してしまう。
そうすると、このシーンはこういう意味なのではないか、と自分なりに考えて、演技がどんどん変わっていく。
先日のぽんみゆの”雨のち晴れ”ではそんな感じを受けたけれども、今回のあやなんの”マジックトレードセンター”では、回ごとに役を作っている感じまでは感じられなかったので、そこはあと1日、何か違うようにして欲しい。
あやなんに関して言うと、無難にセリフをトチらずに言えてはいるけれども、トチるかどうかという次元ではなくて、トチってもいいから、もっと役に入り込む、言い換えたらナチュラルな役になる、というのを考えて欲しい。
決してできていなかったというわけではないけれども、役者さんを前にしたらどうしても、舞台をやったことないぶんだけ感情が入ってないと思ったから。
感情を入れるというのは、強く大きく言うだけではなくて、逆に弱々しく小さくなることもある。
喜怒哀楽と、それぞれの大小だけでも8パターンはある。
さらにそれらを、デジタル的なものではなくて、あいまいな感情を入れていったら、もう無数に演じることがあることに、あやなんは思い至って欲しい。
それで、脚本のほうだが、魔法をかけて消えたオズが、最後にクエ同然の姿となって一瞬出てきて終わるところが、物語が繰り返す感じが出ていて、気持ち悪かった。
そうやって、気持ち良い物語で終わらせないほうが、人々に対して考えさせられるとは思うのであるが、あの描写は個人的には要らないかな、と思う。
だって、そこまで描いたとして、それに気づくのはマニアだけで、そのマニアは「ココに気づいた!」と声高に言うだけで、
「クチで言うだけでなく、自分から行動しよう」
などと言うことはないからだ。
クチで言う人間が多いけれども、どうして実行できないのか?
私はひとつ前のブログの投稿で書いたけれども、クチで言う人間自らのクビを絞めることになるから、いざ実行できないのだと考えている。
私は、日立製作所時代に、小貫孝子というヤツが原発反対を唱えていたのを見た。
Facebookでご丁寧にも、恥ずかしげもなく自分の顔を出している。
・・・いや、私が主張していることが、未だに理解できていないのだろうか?
その可能性大いにあり得るなあ。
日立製作所時代、私は小貫に向かって、「本当に原発を止めたいならば、日立製作所がやっている違法行為を主張すれば、原発なんて止まってしまう」と主張した。
けれども小貫は、抽象的な概念で抽象的なことしか主張せず、なにひとつ行動しなかった。
Facebookを見ても、”U理論”とやらをちょっとかじったことを自慢しているらしい。
”U理論”とは、なんか新しい単語で、難しいことをしているのかと思ってサラッと見たら
なんのことはない、PDCAを螺旋的に向上させて大きな目標を達成することを、別の側面から言い換えただけである。
人間、新しいことを勉強するだけが能ではない。
これまで勉強してきたことを土台として、その勉強と新しい理論とはどこがどう違うかを分析して、本当に違うならば取り入れるべきであるが、正直大半のものは既に考えられた概念を、別の説明方法にしているだけである。
この、別の説明方法に次から次へと手を出しているような人々は、言い換えると、それまでに学習したはずの理論がアタマの中で使えておらず、単なる暗記のまま残っている。
だから、新しい課題が出てきた時も、「これまで覚えた理論を、自分が率先して実践しよう」とはならずに、「この課題に対して誰がどのような解決策を出すのか、勉強しよう」という受け身の行動になってしまうのだ。
そんな人間の、受け身の姿勢をもっとズバリと言い当てた上で、なんとか行動を起こしたいと思わせるような物語ってできないものか?
・・・・そのためには、行動を起こすきっかけが大事である。
”マジックトレードセンター”に即していえば、抽象的な”平和”の概念が、人々の間で齟齬を起こしていて、それが最後まで解決されていないとも言える。
雷鳥の、「好きな子に恋をして、カップルになる」というのは、全員の平和を願っていないかも知れない。
けれども、自分の欲求を満たした上で、オズに対して、「お前もユムナとカップルになれ」という一言、これこそが、自分の平和を友達とも共有する、ひとつの究極の平和なのではないか?
壮大な夢を言うのも必要ではあるけれども、同時に、具体的に自分たちでできる平和を見つけること、これもまた大事である。
なんでもものごとは、点ではない。いろんな見方がある。
ロダンの「考える人」を見て、「なんかめっちゃ考え込んでいる」と思う人もいれば、「なんで考えるときにこんなめんどくさい格好をしているのだろう」と思う人もいるだろう。
そしてそのすべての疑問が正しいものであるし、そのすべての思いのいくつかに対してでも、「そんなふうに見えるのは幼稚だ、空気を読んでない、おかしい」とハナから言ってしまう人間がいれば、それがもう反革命であるというジレンマもある。
人間誰しも、ココロの底ではラクがしたいと考えていて、その利害が一致して、人々は知らず知らずのうちに革命よりも自分の利益を優先してしまう。
自分の将来だけは安定させたいと思う、そのココロが、革命の一番の妨げになる。
そのココロが、「自分の将来だけは安定させたい」と思う本心とは違うはずの、”平和”の概念を具体的に共有する行為を妨害しているように、私には思える。
私であれば、そこをどうにか、もっとクリアに描いてみたいものだと思う。

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