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スターリンのネタ・短編集 作者:スターリン
3/10

ゲートがあろうことかモスクワに繋がってしまったようです1

Q一体何が始まるんです?

A大惨事世界大戦だ!!
西暦2005年

4月13日午前10時ごろ

外の天気は予報によると日中は雲が少し出るものの、晴れ間が広がるもよう


「第二次世界大戦・アメリカ戦役終結記念日」


『地球連合政府
ロシア地区・ロシア連邦』


別名
『ソビエト社会主義共和国連邦』
通称ソ連、またはCCCP、ロシア第2帝国


ロシア地区特別政令指定都市「モスクワ」


現在、この都市には「汎ユーラシア大陸条約機構(略称PECTO )」構成国

アメリカやヨーロッパ諸国などAEU
(環大西洋・欧州連合)と表される西側諸国

そしてアジアや中東、そしてアフリカ諸国など地球連合政府構成国


以上その中から、
約180の国々が招待を受けて国賓として大勢の要人を派遣して、第二次世界大戦・アメリカ戦役集結記念日を祝うためにモスクワへ来訪。
もうすぐパレードが開始される模様






 「モスクワ」この都市はかつてモスクワ大公国とこの都市の名前を冠したロシアの元となる国があったように、ロシア人にとっては特別な街なのである。
とあるドイツ人の有名な歌手グループもこの街の事をこう歌っている。

「モスクワ、秘密に満ちた異国の街よ
赤い黄金の塔、
氷の様に冷たい
しかし、お前を本当に知っている者は、お前の中で炎がこんなにも熱く燃えていることを知っている」


「モスクワ、過去への門
帝政時代の鏡、
血のように赤い街
モスクワ、お前の魂を知る者は、
愛が灼熱の炎をあげていることを知っている」と。


まさにその通りで、一般的にモスクワと聞いて皆が思い浮かべるのは「クレムリン」とその正面の「赤の広場」だろう。
またヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。
都市近郊の住人をも含めれば約1500万人もの人口を抱えており、世界順位では第10位である。
地理的要因では北緯55度45分、
東経37度37分に位置しており、
都市の中心をモスクワ川が蛇行しながら流れる。
年間降水量は705mmで、6月から8月にかけての夏季に最も降水量が多くなるが、一方で5月から8月にかけては晴天も多くなり、
日照時間も最も多くなる。冬季には降水量は少なくなるものの曇天が続き、
日照時間は非常に少なくなる。



モスクワは中央にあるクレムリンから同心円状に広がっている町であり、
クレムリンからはすべての方角に放射状に幹線道路が延びている。その幹線道路をつないでプリヴァール環状道路、
サドヴォエ環状道路、モスクワ環状道路(大環状道路=1945年に建設)の3つの環状道路がある。モスクワ地下鉄環状線とほぼ同じ場所を走るサドヴォエ環状道路は、1590年代のモスクワ市の土塁跡に作られている。クレムリンは1156年に「ユーリー・ドルゴルーキー」が砦を築いて以来一貫してモスクワの中心であり、
モスクワ大公国時代からロシア帝国初期を通じて王宮がおかれていた。ソヴィエト連邦成立後は「サンクトペテルブルク」からここに政府が置かれ、現在も地球連合政府・ロシア地区ことロシア連邦政府の大統領府があるロシア政治の中枢である。
クレムリンの正面には赤の広場が広がり、広場周辺には帝政期には国営デパートであった「グム百貨店」や「聖ワシリイ大聖堂」、「レーニン廟」などがある。
広場の北東はキタイ・ゴロドと呼ばれ、モスクワ大公国時代からの商工業地域だったところで、
現在では都心の一部となっている。
その北にソ連時代から続き、現在も地球連合政府の諜報機関に多大な影響を及ぼしているKGBの本部の置かれている「ルビャンカ」や、
バレエで有名な「ボリショイ劇場」などがある。クレムリンから北西に伸びるトヴェルスカヤ通りは、19世紀からの目抜き通りであり、
現在でも繁華街となっている。
トヴェルスカヤ通りはその先でレニングラード街道と名を変え、サンクトペテルブルクまで延びている。クレムリンから西へと伸びるアルバート通りは歩行者天国となっており、
商店や土産物屋が立ち並んで観光客が多く訪れる。そしてクレムリンの南西には、モスクワ川に沿って「救世主ハリストス大聖堂」や「トレチャコフ美術館」がある。


市中心部から道路が放射状に伸びていて、北西にはサンクトペテルブルクへと向かうレニングラード街道、北西にはヤロスラヴリ街道、
東にはニジニ・ノヴゴロドに向かうゴーリキー街道、南東にはリャザン街道、
南にはワルシャワ街道、南西にはキエフ街道やスモレンスク街道といった行き先の名をとった幹線道路へつながっている他に、モスクワ環状道路などの環状道路もある。
クレムリンに隣接する市中心部のマネージ広場が道路元標になっている。
他にも1755年に創設されたロシア最古の大学である「モスクワ大学」をはじめとして、モスクワ大学と並ぶ評価を受けているモスクワ国際関係大学や、
モスクワ音楽院、
人文科学現代大学、
全ロシア通信制金融経済大学などといった各種高等教育機関や専門学校が多く存在する。


この都市は1147年にキエフ大公国のユーリー・ドルゴルーキー(手長公)が会合を行った場所として言及されるのが最古の記録である。1156年に砦が築かれて以降、徐々に小都市化していった。1271年にウラジーミル大公「アレクサンドル・ネフスキー」の子であるダニール・アレクサンドロヴィチが遺領としてモスクワを獲得し、「モスクワ公国が」成立した。
モスクワ公国はやがてイヴァン1世の代に「キプチャク・ハン国」の徴税人となったことから力をつけていき、『モスクワ大公国』となった。1480年には『イヴァン3世』が大公国をハン国から完全に独立させ、
『タタールのくびき』を終わらせることで、モスクワはロシア最大勢力の都となった。彼はウスペンスキー大聖堂やブラゴヴェシチェンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂を建設・再建し、
クレムリンを壮麗なものとした。クレムリンの前に赤の広場が建設されたのもこの時代である。
1534年から1538年にはクレムリン北東のキタイ・ゴロドをクレムリンと同じ城壁で囲み、
以後この地域は商工業地域として発展した。


1561年には史実スターリンの尊敬した人物の1人である、独裁者イヴァン4世(イワン雷帝)によって聖ワシリイ大聖堂が建設された。1590年ごろにはクレムリンとキタイ・ゴロドの外側に城壁が築かれ、さらにその外側には土塁が築かれて、モスクワの町は大幅に拡張された。
新しい城壁の内側はベールイ・ゴロド(白い町)、土塁と城壁の間はゼムリャノイ・ゴロド(土の町)と呼ばれた。
16世紀末には動乱時代となり、1610年には偽ドミトリー2世を擁したポーランド・リトアニア共和国軍がロシア・ポーランド戦争を起こしてモスクワを占領したが、商人のクジマ・ミーニンと公爵ドミトリー・ポジャルスキーを中心として組織された国民軍が1612年にモスクワを奪回し、
翌1613年には「ミハイル・ロマノフ」がツァーリに選出されて『ロマノフ朝』が成立した。


ロマノフ朝時代は国土の拡張にともないモスクワも成長を続けたが、『ピョートル1世』が1712年にロシア北西端のネヴァ川河口にサンクトペテルブルクを建設したことで首都の座を譲った。
しかしそれ以後も副首都の座を保ち続け、歴代のロシア皇帝はモスクワにて戴冠式を行うことを常とした。古い貴族階級は遷都以後もモスクワに居住するものが多く、西欧の思想を取り入れる窓口となったサンクトペテルブルクに対し、
モスクワは古いスラブ主義の思想の中心地となっていった。
1755年にはロシア最初の大学であるモスクワ大学が開校した。このころ、
ベールイ・ゴロドの城壁が撤去されて、その跡地にプリヴァール環状道路が建設された。1812年にはナポレオンのモスクワ侵攻(祖国戦争)を受け、焦土作戦の一環として街は灰燼に帰したが、
その後すぐに街は元通りに復興された。


19世紀にはゼムリャノイ・ゴロドの土塁も撤去されて、
その跡地はサドヴォエ環状道路となった。1851年にはサンクトペテルブルクとの間に鉄道が開通し、その後も1862年にはニージニー・ノヴゴロド、
1864年にはリャザン、1868年にはクルスク、1870年にはヤロスラヴリへの鉄道が相次いで開業し、ロシア中央部の商工業の中心としての地位は揺るぐことなく、農奴解放による労働力の流入や軽工業の発展もあいまって、19世紀末には人口は100万人を突破した。
ソビエトによって1918年に首都機能が移転され、ソビエト連邦とロシア・ソビエト社会主義共和国の首都となった。
そして現在に至るまで、この都市はロシアの歴史と長い時間を共に歩んできたのだ。なのでロシア国民がこの都市に抱く思いはとても大きく、そして言葉では言い表せないような複雑な感情をも抱く伝統ある都市なのだ。


そんな伝統あるロシアの都市に、今日は大勢の市民や外国からの観光客、そして地球連合政府を構成する世界各国からの重要人物たちなどの国賓らが、ここ赤の広場に大勢集まり、何かが開催されるのを待っている。
赤の広場は長さは695m、平均道幅は130mほどの大きな広場で、名前の由来である「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであった。広場は北西から南東に長く、南西側にはガガーリンやスターリン、などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北東側にはグム百貨店、
北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある。
この広場は1493年にモスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源とされる。以後、商業地域のキタイゴロドと区別され、
モスクワ大公国やロシア帝国(ロマノフ朝)の重要な国家行事がここで行われるようになった。


当初は先ほどで説明したように、「赤の広場」という名称ではなかった。「トルグ広場」(トルグとは交易や商売を意味する)、広場の隅に立つ至聖三者聖堂(トロイツカヤ聖堂)の名から「至聖三者広場(トロイツカヤ広場)」、1571年のタタール人襲撃で起きた大火による「ポジャール広場(火事広場)」等の名称の変遷を経ている。16世紀には、
石畳もまだ敷かれておらず、当時の風景を再現した絵画では地面に板が敷かれた状態で描かれていることが多い。「赤の広場(クラスナヤ広場)」と名付けられたのは、広場が整備された17世紀後半のことであるのだ。
ソ連時代には、
革命記念日である毎年11月7日に、
ここで閲兵式(軍事パレード)が行われた。世界各国のジャーナリスト達は、
閲兵式のためにレーニン廟の上に並ぶソ連共産党指導者や地球連合政府高官らの並び順を見て、
公式には外に明らかにされないロシア共産党内と地球連合政府内の序列を確認し、権力闘争のゆくえを観測する「クレムリノロジー」の手法を採用していた。
今ではロシア連邦政府高官と地球連合政府高官らの並び順を見て、公式には外に明らかにされないロシア連邦政府内地と球連合政府内の序列を確認し、権力闘争の行方を観測している有様だ。


そんなクレムリンの正面にある赤の広場では、これから第二次世界大戦とその後に発生したアメリカ戦役が無事に終結した事を記念とする日なので、その2つの戦争で亡くなった人達の例を鎮魂する目的も兼ねて、約5日間に渡る盛大な式典と軍事パレードが行なわれようとしていた。中でも此処モスクワで行なわれるパレードでは、毎年この今の世界をリードしている旧ソビエト連邦改めロシア連邦共和国が最新兵器などを先頭に、盛大な第二次世界大戦から現代に至るまでの兵器を利用した軍事パレードを行ない、その後に今の地球連合政府大統領である『ウラジミール・アレクサンドロ・G・プーチン』が簡単に演説するので、大勢の軍事オタクやプーチンをリアルに見ようとする観衆、そして彼に招かれた大勢の国賓クラスの来賓達がこの広場に集まり、軍事パレードが始まるのを今か今かと待っているのだ。





 時間は午前10時になろうとしている。既に赤の広場には大勢の観衆が集まり蟻団子のようになっている。その人の多さは大日本帝国のコミケの会場前のようだと、あるニュースキャスターはカメラに向かって報じている。彼らは皆今回のパレードを楽しみにして集まっており、
背丈の小さい子供達は両親に抱っこされたりしていたり、
人並みの中を行商らしき売り子達が物を売りつけていたりと、軽いお祭り騒ぎと化している。
そんな人ごみとロープで仕切られて入れないようにされてあるパレードの通り道より向こう、これまたロープで仕切られた場所に軍楽隊がパイプ椅子に座って待機しており、何時でも演奏可能なようにスタンバイしている。そして観客の前に仕切るように置かれたロープの向こうには、パレードの邪魔とならないように観客達に背を向けて、ロシア連邦軍所属の兵士達がずらっと整列している。


そしてレーニン廟の上に並ぶ地球連合政府高官や招待を受けた世界各国からの来賓たちは、両隣の同じ来賓と他愛も無い世間話をしながら時間を潰している。
その上空を世界各国の主要報道機関の報道陣を載せたヘリコプターや軍用の無人ヘリコプターなどが開始前なので特別に許可されたので行き交い、今日の軍事パレードと今の地球連合政府大統領であるプーチン氏の演説で、ベストタイミングな場面などを撮ろうと地上でも関係者らが待機している。
広場の周辺や中では制服や戦闘用装備を着用して、サブマシンガンやアサルトライフルで武装した警官や特殊部隊がうろつきながら周囲に油断なく視線を送って警戒に当たり、
広間の周辺の高所や高い建物の屋根などに警察と特殊部隊所属のスナイパーがライフルで怪しそうな人物に狙いをつけて待機しており、
市内の駅のロータリーや大通りなどにはパトカーや装甲車が停車されており、
市街地周辺には軍隊が非常事態であることを示すデフコン1体勢を執りながら、戦闘機から戦車まで繰り出して警備に当たっている様から、一体どれ程厳重な警備が敷かれているのかが分かるだろう。



何故こんなにも厳重な警備が敷かれているかと言うと、
戦後30年のしばらくの間、この式典では多くのテロ未遂事件が起きたのだ。
その犯人はたいていがアメリカ人や中国人、そして新共産主義を名乗る左翼かぶれのアメリカ戦役で消えた過激派の残骸である連中や元ナチスの連中などで、
彼らは狙撃から自爆行為まで模範的とも言えるテロ行為に値する行為をすべて行なったので、彼らによって式典が滅茶苦茶になり、参加者達に犠牲が出てはたまらないということで、あの伝説の政治家スターリン直々の命令でこのような厳重な体制が敷かれるようになったのだ。
それと同時に世界各地で新共産主義者やネオナチ、アメリカ至上主義や中華思想を抱く者らに対する過酷な弾圧と処刑も行われ、70年代後半に差し掛かるともうそのような事を仕出かす連中は皆いなくなってしまった。


何せあの温和で有名なスターリンが、
「このような連中に情けをかける必要は無い。裁判に掛ける事無く問答無用で発見次第、その場で処刑しても構わん!!
いざという時にはそいつの家族ごと皆処刑しても構わない!!」と非常に厳しく命令したので、
ノルマを達成できなければどんなことになるやらと恐れたKGBを中心とした世界各国の諜報部によって、そういった政治信条を掲げている者や疑いのある者は皆あの世に送られたのだ。なのでその過激な命令のおかげで、やらかしそうな連中は全員いなくなったのだ。その過激さと凄まじさに世界各国の指導者層は流石にスターリンに説得や苦言を齎したりしたが、彼はその言葉に耳を傾けることは生涯1度も無く、
逆に
「今連中を全て根絶やしにしないと、何時か必ず大変な事になります!!そうなった時に後悔しない様に、連中を全て根絶やしにして世界中の人間に知らしめる必要性が在ります。連中は絶対的悪だからこの様に殺されて当然であり、連中に加担するような連中もこの様な目に遭うのだということを!!」
と説得され、上手く言いくるめられてしまったのだ。彼がそのように珍しく史実の彼の様な過激な命令を下した理由は、
そういった連中が日本赤軍やドイツ赤軍といったテロリストの様な連中や、
オウム真理教や人民公社のようなカルト教団の様な連中になって、己や自分の家族、自分の知り合いや史実で有能である人物などの殺害を狙わないとは限らないので、殺られる前に殺るといった感じで先手必勝の様に先にそうした動きを全て潰そうと思ったからだ。実に個人的な理由である。
その動きが完全に潰れた70年代後半が過ぎても、まだ用心するに越したことは無いだろうということで、今現在もこのような厳重な警戒態勢となっているのだ。そしてそれが今日のこれから起きる事件に対して大きな手助けとなるとは、
この時誰もまさか思わなかっただろう。


そのような理由から厳重な警備体制の敷かれている中、遂に赤の広場に一面中にゴォーーン!!ゴォーーン!!と壮大な音が鳴り響いた。
赤の広場の外側に立つ『聖ワシリイ大聖堂』の鐘楼が、
10時を知らせる為にその大きな体を震わせたのだ。それを証明するように大聖堂の塔に設けられた時計の針が10時を示している。
その音が広場に鳴り響くと、軽いお祭り騒ぎであったざわついた広間は一斉にシーンと静まり返り、来賓の方々も一斉に話を止めて眼下の広間に視界を移した。
そして完全に響き渡る鐘の音が聞こえたのを確認すると、
司会の男がマイクを片手に今日の軍事パレードの開催を宣言し、それと同時にプーチン大統領から少し話があるとマイクによって広間中に聞こえるよう拡大された声で伝える。


司会がそう言い終えて広間に設けられた壇上から降りると、予め打ち合わせていた通りに鐘楼がからんこらんと鳴り響き、それに続いていく形で軍楽隊が行進曲を流しだす。
最初の曲目は「聖戦」だ。この曲は史実では独ソ戦が勃発した1941年に、
ソビエト連邦の作曲家でモスクワ音楽院教授の資格を持ち、
さらに陸軍軍人でもあった『アレクサンドル・アレクサンドロフ』が作曲した。
彼は自身の名前を冠した赤軍所属の合唱団・演奏団アレクサンドロフ・アンサンブルを創設して、戦時中を通して戦後のソ連軍や、
史実での現在のロシア連邦軍時代と伝統を受け継ぎ存続し、同国において数多く存在するアンサンブルの中でも最古参として、また随一のステータスや力量を持つ「赤軍合唱団」の代名詞的存在にまで成長させた。
その中でも最大の功績は、ソ連国歌を作成したことだろう。


話を元に戻してこの聖戦という曲は、
一体どんな曲かは歌詞を見ていただければ分かると思うが、

「起て、
大いなる祖国よ
戦いへと起ち上がれ
邪悪なるファシストの悪しき軍を破れ
聖なる怒りは波の如く、人民の戦闘、
聖戦へと行け!」

という内容であり、この様に聞いているだけで大粛清で素人ばかりの赤軍兵士や奇襲攻撃で打ちひしがれている国民のやる気を奮い立たせ、ナチスドイツに対する敵意や祖国愛を自然と抱かせるようになる曲だ。


実際に演奏している軍楽隊は心なしかノリノリで演奏しているように見えてきて、聞いている観客の中には自然と歌いだす人もいるぐらいだ。壁を作りながら整列している軍人達は冷静な顔だが。
そんな演奏の中で高級軍人らしい年老いた8人の軍人達が、今のロシア連邦政府を象徴する白・青・赤の色地にロマノフ皇室を象徴する3つの王冠を被った双頭の鷲が描かれた旗を持ちながら、足を膝頭まで上げているかのように並行にびしっ!びしっ!と上げながらゆっくりと行進してくる。


彼らが端まで行くと、軍楽隊は次の曲の演奏に入る。
次の曲目は「近衛プレオブラジェンスキー連隊行進曲」だ。
この曲は大北方戦争(ロシアとスウェーデンとの戦いで、
1700年から21年まで続いた。この戦いでロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また更に、
この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年に元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝{インペラトル}の称号を贈りロシア帝国となった)をテーマに作られた曲であり、
曲の題名であるプレオブラジェンスキー連隊とは、セミョーノフ連隊と並び帝政ロシア軍の近衛兵としては最初に組織された連隊だ。


時は17世紀末、
幼少期のモスクワから母と主に追放されたピョートル大帝が、住んでいたプレオブラジェンスコエ村と近隣のセミョーノフ村から貴族の子弟の少年を集めて「玩具の兵隊」(потешные войска)を組織、戦争ごっこをしていたのがそもそもの始まりだ(このエピソードは3番で触れられている)。
彼の成長と共にその「戦争ごっこ」は現実味を帯びていき、ついには彼らは正規軍に編入、近衛連隊としてピョートルその人に忠誠を誓う存在となったのだ。
そして彼らが最初に投入された大北方戦争が1・2番のテーマとなっている。
ロシアではこの様に近衛連隊ごとにそれぞれ専用の曲があり、その幾つかは革命によりソ連の世となった後も伝統的行進曲として演奏され続けていたのだ。


軍楽隊がそのようにかつての帝政時代から続く曲を演奏している中、司会が2人の軍人の説明を始める。その説明がマイクによって広場に流れる中で、赤の広場に入る門から高級車に乗りながらロシア連邦軍参謀総長でトハチェフスキーの孫である「ヴィクトル・N・トハチェフスキー」が、反対側から同じように乗車してやって来た国防大臣でスターリンの孫である「パーヴェル・A・シュガヴィチリ」と向き合う形で停車させて、
彼に色々な今年の軍の抱負などを報告し、それに対して国防大臣である彼はそれぞれコメントしながら、今回のパレードを祝す言葉を述べた。
そして話が終わると軍楽隊は「戴冠式祝典行進曲」を演奏し始める。この曲は「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」の作曲家で有名な『ピョートル・チャイコフスキー』が、1883年のされたロシア皇帝アレクサンドル3世の戴冠式のために作曲した曲だ。
2人の乗った車はこの演奏が流れる中で一緒に連れ立って広場をぐるりと一周して、途中で広間に整列している部隊全員に対して色々と演説して、彼らの返答である

『「Ураааааааааааа!!」』
『「Ураааааааааааа!!」』
『「Ураааааааааааа!!」』

の大声援を後にして、この広間を去って行った。
その間誰も一言も喋らずに聞いているので広場で他に響いていたのは、観客達や報道陣が静かに写真を撮っているカメラや映像を撮っているビデオカメラの作動音だけである。







 そして3番目にきたのは、今日行なわれるイベントの予定でも2番目に注目されているイベントである「地球連合政府大統領プーチンの演説」だ。今の地球連合政府大統領であるウラジミール・プーチンは史実のロシア連邦と同じ人物であり、もし仮にこの世界のスターリンが生きていたら思わずこう呟いていただろう。

「この世界でもプー帝は威圧感半端ねぇー!!」と。


彼はこの世界でもソ連時代の今のサンクトペテルブルク(旧レニングラード)に、史実では既に死んでいた2人の兄がこの世界では生きているので3人兄弟の末っ子として1952年に生まれた。その後は史実通りにKGBに就職したがその前と後の経緯が少し史実と違うのだ。当時彼は史実と同じようKGBに就職を考えて、史実と同じ方法で就職したのだが、その後他の同僚とは違った任務として世界各地に派遣されて、なぜかモスクワやマサチューセッツ工科大学、
ケンブリッジ大学にパリ大学など世界各国で超エリートが通うので有名な大学に通わされて、
そこで主に政治や国際関係について勉強されたのだ。それが終わると直ぐに本国に戻されて様々なテロとの戦いなどKGB本来の仕事を任せられたのだ。そのことについて他の同僚からプーチンは「何だかやけに上司はお前の事を重用していないか?」と突っ込まれて大変だったと、後に己の回想録で記述している。


だが、これにはちゃんとした理由があるのだ。実は彼は生まれる前からスターリンの手によって、
いずれ政界に進出するように仕向けられていたのだ。スターリンは1970年11月7日に死ぬ前に一度だけ彼を名指しで指名し、彼を自分の隠居先としているスターリングラードにある大きなダーチャ(別荘)にまで、
わざわざ彼を一家ごと此処まで来る様に呼び出したのだ。
けど、これには何ら不自然な理由でもなかったのだ。
何故ならプーチンの父方の祖父であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン(1879年 ー1965年)はプロの料理人であり、スターリンのダーチャの1つにて給仕しており、
それ以前はウラジーミル・レーニンに仕えていたからだ。
なので別に彼を呼び出しても「自分と先代のレーニンに仕えてくれるスピリドンの家族に会いたい」と言えば、何の問題も無いからだ。


更にそもそもこの世界でスターリンの影響力は史実よりも更に大きく、もはや彼に匹敵する影響力を持つ者は誰かと言うと、今のロシア皇帝である「アレクセイ・ニコラエヴィチ」皇帝の孫に当たる『ドミトリー・ペトロヴィッチ』帝か、
大日本帝国の『今上陛下』、大英帝国の『エリザベス2世』。そして今のローマ・カトリック教皇である『ベネディクト16世』ぐらいである。それだけでいかに彼が絶大な影響力を持っていたのかが分かるだろう。
ちなみにロシア皇帝ことロマノフ皇室は、この世界ではニコライ2世の長男であるアレクセイ皇太子に引き継がれ、
彼の手によって史実日本の天皇家の様に旧ソビエト現ロシア連邦の国民の統合の象徴として君臨しており、帝政期の様に独自の近衛連隊を持ったり、多くの宮殿に住むことはできなくなったが、無事に現代に至るまでその血筋を途絶えさせることは無かった。


話を元に戻して、
そのような絶大な権力と影響力を持つ彼の命令に対し、
何も反対するような強固な理由が無い場合は一体誰が反対できようか?
こうして1969年5月1日のメーデーの記念日に、当時17歳であったプーチン青年は、一家揃ってスターリングラードにあるスターリンのダーチャに招待されたのであった。


彼は自己の回想録でその日の事を詳細に記している。その中の主なエピソードをここで挙げていきたいと思う。
プーチン一家が家族全員揃って、本来は議員専用であるチケットを利用して無料で旅客機や列車を乗り継いでスターリングラードの「スターリングラード中央」駅に着くと、送迎用のアメリカ製のキャデラックが駅のロータリーに停車されており、傍にKGB職員とMVD職員が控えていた。
彼らの案内で一家がキャデラックに乗り込んで、車で約20分ほどママイの丘のほうに向かうと、
そこにスターリンのダーチャは存在した。既にそこには大勢のこの別荘に仕えているらしい使用人やKGB職員、それにMVD職員とらが勢ぞろいしており、
その彼らの真ん中に一家を呼んだ張本人であるスターリンが、杖を突きながら皺くちゃの顔で笑みを浮かべて立っていた。その杖を突きながらも堂々とした姿は、今年で91歳になる老人にはまるで見えなかったとプーチンは述べている。


スターリンは一家の事を歓迎し、特に自身の料理人でもあった祖父のスピリドンに対しては盛大なハグで迎えて、
周りに如何に自分が歓迎しているのかをアピールしていた。
そしてすぐさま別荘内部で簡単だが歓迎パーティーが開催された。今日のパーティー用の料理は伝統的なロシア料理ではなく、体に優しくヘルシーだと今世界中で話題の日本食であった。どうやらそろそろこの別荘の主であるスターリンの健康上、基本的に油っぽくて味が濃いのが多くて体脂肪に溜まり易いロシア料理と比べたら、そこそこ旨みが有って栄養バランスの取れていて、更にヘルシーで年寄りにも優しい日本食の食事の方がここ最近はメインらしい。

最初はプーチン少年もここで日本食が出てきたことに拍子抜けしたそうだが祖父が日本食は最高だと言うので食べてみた所、たちまち日本食の美味しさでその言葉に共感して次々と料理を平らげてしまったそうだ。何せ此処の日本食を作るのは、食通のスターリンの為に日本食とロシア料理の両方を極めて、ロシア人が好む味付けの日本料理を作れる料理人しかいないので、ロシア人であるプーチンによって最適の味付けの日本料理であったのが幸いしたのだ。なので現在も彼は必ず週に1回はロシア人向けにアレンジされた日本食を食べないと、非常に精神的に不安定となり周囲の高級軍人や閣僚が被害に遭うので、必ず周りの人間は彼が週に1度は絶対日本食を食べれるように気を遣っているぐらいだ。


そして歓迎パーティーも終わりに近づいた頃に、スターリンはグルジアワインを片手にプーチンと2人の兄達に、将来の夢は何かあるのか?と聞いてきた。
上の2人はそれぞれ父と同じ海軍の軍人だとか科学者になってノーベル賞を授与されたいと答えたそうだが、プーチン少年はその時こう答えた。

「自分はKGBに就職して、一流の諜報員としてこのロシア、いや、世界を裏から守って行きたいです!!」

と、自信満々に告げたそうだ。するとそれを聞いたスターリンはそうかそうかと頷きながら、上の兄2人にはその夢が叶うと良いなと少しアドバイスしながら答えると、彼に真剣な顔をしてこう答えたそうだ。


「君はKGBに就職したら、途中から退職して政治家になる気は無いかね?」


そのように政治家に途中からなる事を進めてきたそうだ。
それについて一体どういうことかと彼が聞くと、
スターリンはこう答えたそうだ。


「君がそうして夢をかなえてKGBに就職できたとしよう。その際に仕事上で色々な苦々しい思いを抱くことも必ずあるだろう。そんな時にそのような苦々しい思いをこれ以上抱かないように、色々と対策をしようとするならば一番良いのは政治家だ。政治家はこの政府と言う一番大きな組織を動かしているからな。

その資金や実行可能な力は諜報組織の数倍もの力を持っているぞ。なので色々な対策や予防策が出来るだろうさ。そして君のやりたいと思った事を実現させる力を大きく持っているのは、今のこの世界を支配している私が作った地球連合政府だ。そこの大統領になれば更に大きな事を実現可能になるぞ!是非とも政治家にそうしたKGBで色々と経験を積んでからチャレンジしてみるのも悪くないと思うぞ??」


このように政治家のメリットについてかなり熱心な様子でアピールしたので、
彼は自分の将来の設計図にKGBに就職する以外に政治家に成る道も組み込んだと回想している。
読者の皆さんなら、
スターリンがこんなにもプーチン少年に政治家に成る事を進めたのが分かると思うが、スターリンは自分の別荘で働いていた料理人が高齢を理由に退職するというので、何かの縁だと思い彼の名前を聞いてプーチンという名前が聞こえたのでまさかと思い、
彼の孫の名前を聞いたところ予想通りの名前が出てきたので直ぐに此処に呼んで、この別荘に来た幼いプーチン少年に史実通りに政治家に成ってもらい、自分の後継者としてこのロシアと世界を守ってもらいたいと思ったのでそのような事を言ったのだ。


その目論見は見事成功し、プーチン少年はあの伝説の政治家である偉大な男(笑)スターリンじきじきにそう勧められたので、彼は感銘を受けたのでその通りに道を歩むことに決めたのだ。

こうして彼は史実通りにKGBに就職し、その後は先ほど説明した通りだがその説明の続きで、
彼はやがて1990年になるとKGBを退職して史実通りに政界に進出する道を選び、スターリンの命令と称して当時のロシア政界の政治家らが党派を超えて全員協力してくれたので、見事サンクトペテルブルク市長に当選し、そして着々に政界に進出して行って1999年にはロシア連邦首相、
翌年の2000年にはロシア連邦大統領にまで成りあがったのだ。





 そして今、彼は遂にスターリンの言われたとおりに政治家として最高峰の地位である地球連合政府の大統領の地位に就いて、この記念式典のパレード前に就任演説以外の初めての公式のイベントでの演説をするために、
赤の広場に設営された特設の壇上に上がって演説しようとしているのだ。
周りのロシア連邦大統領時代からのロシア人の部下達の顔は、他の外国人の部下の顔に比べて一段と輝きながらプーチンの事を見つめている。彼らの視線を体中全身に受け止めながら、プーチンにはその気持ちが痛いほど分かった。この地球連合政府の役職のトップである地球連合政府大統領の地位には、今までロシア人で就任した者は誰1人としていなかったからだ。かのスターリンの時代には初代大統領としてインドの「マハトマ・ガンディー」が、次に就任したのは南アフリカの「ネルソン・マンデラ」が就任し、
そして3番目にアメリカ合衆国の「ジョン・F・ケネディ」が就任するなど、
ロシア人は精々ナンバー2の地球連邦政府首相にフルシチョフやブレジネフらが就任したぐらいで、
誰1人として地球連合政府大統領の地位にロシア人として就いた者は全くいなかったのだ。


そんな状況下で、
プーチン大統領はかつて幼い自分に政治家に成る道を教えてくれた、ロシアだけでなく世界においても偉大な政治家である「鋼鉄の男」の事を思い浮かべながら、壇上に上がる前の場所で彼は自分の過去を振り返り、
これから自分の話す演説が如何に自分の政治生命だけでなく人生にも大きな影響を与える可能性を考え、そしてここに集まっている観客や来賓だけでなく、
世界中の人間の目が自分を注目しているのを思うと思わず心の中で身震いしたが、自分は必ずこの大役を上手くこなせると言い聞かせて、
改めて自分の今の姿を振り返ってあの人が生きていたらどう思うのかと予想していた。


「今年で63周年記念となるこの記念式典に、初めてこの私が参加できる日が来るとはな・・・・・・・・・・・・・。親愛なるスターリンおじさん、天国から見ていますか?私は何とか貴方の仰ってくださった通りに政治家へと成ってここまで来ましたよ。
あなたの様な一流の政治家に自分も成れるでしょうか?」


普段の恐ろしい彼を知る者ならば、思わず自分は何か変な錯覚を見てしまうぐらいに病気なのだと勘違いしてしまうぐらいに、ひどく穏やかで優しい顔をしてそんな事を呟いていた。そして、これで分かったかと思うが、
彼はスターリンの事をとても尊敬しているのだ。


プーチンはあの別荘で個人的に「スターリンおじさん」と呼ぶ事をスターリンに許されて以来、
常に彼の脳裏に存在し続けたのは、
どうしたらあの偉大なる「鋼鉄のスターリン」の様な政治家に匹敵する政治家に成るのかということが常に頭の中にこびり付いていた。あの別荘で年老いた彼の皺くちゃの手で自分の手を握られた時、彼に目で
「自分の後継者としてこの母なるロシアを強いロシアのままに、そしてこの世界を守ってくれ」と、
訴えられたのをプーチンは未だに鮮明に覚えている。
それが一体どれぐらいかと言うと、
自分の手を彼は見る度に、その時のスターリンの手の感触が蘇るほどだ。


そんな彼にとって今日この日は、プーチン地球連合政府の大統領の初めての就任演説以外の大仕事、即ち世界の国家にこれからの地球連合政府を率いていくのはロシアであるという事を始めてロシア出身の地球連合政府大統領として示すだけでなく、スターリンから頼まれた事を今まさに叶えようとする、彼にとってまさに世紀の瞬間の1シーンなのである。
なので彼は思わず深呼吸をして、自分の逸る気持ちを鎮めようと大きく息を吸った。


(すぅーーーー・・・・・・・さぁ!!行くとしよう!!)


こうしてプーチン新地球連合政府大統領はパレード前の演説の為に壇上に上がり、自分が就任演説以来初めて1回目となる記念すべき式典の演説として、一体どんな演説をするつもりなのかと興味深く見ている、後方の国賓クラス(一例として・ローマ法王・天皇陛下・イギリス女王とその後継者・ロマノフ王朝の当主・チベット仏教のダライラマetc)の世界中からわざわざこの日の為にモスクワまで訪れてきた来賓の方々や、彼の眼下に広がる大勢の観客と軍隊を前に、彼が記念すべき第一声を発しようとした、その時であった。


ゴロゴロゴロゴロ

(ん?・・・・・何だかあの空は変だな?そういえば此処最近のモスクワの天気は、何だか例年の天気と比べておかしいと言う話を聞いているが、さすがに急にあのような天気になるとは聞いていないぞ・・・・・!?)


彼の視界に、少し遠くの空に急に雨雲のような黒い雲が雷鳴を鳴らしながら発生しているのが目に映ったからだ。
此処最近のモスクワの天気は1ヶ月前から少しおかしく、
宇宙空間に浮かぶ衛星からの写真や天気予報用のシステムを使ってもありえないような天気の状態となっており、関係者や市民は皆首を傾げていたのだ。
例えば先週の4月6日の事だが、もう既に雪解けの「泥将軍」の異名すらある、地面が地面がぬかるんで泥濘状態になった時期も終わったこの春の日に、突然真冬の「雪将軍」の様な大量の降雪が発生したのだ。
その前の3月30日には積乱雲らしき雲が発生して雷が雨のように大量に落ちてきたりと、此処1ヶ月の間、モスクワの天気は科学的にも常識的に考えてみても不可解な状態であったのだ。

「何かが起きる前触れでは無いか?」

なので一般市民だけでなく、役人にもそのような事を口にする事態に成るのは当然の事であった。
この事態にプーチンとしても流石に自然現象が相手なので気象関係者らにこの事態の原因究明を任せるしか対処しようがなく、彼は流石にこの地球連合の力を持ってしても、素直に解決できなさそうなこの問題に歯がゆい思いを抱いていた。


そんなことなので今日はそのような天気になる様子もなく、今は少し雲が在るものの午後からスッキリとした青空になるということで心配の種が1つ無くなり、これで自分の記念すべき初めての式典を行なえるとして機嫌が良かったのだが、
その機嫌を損ねるものを見てしまったので顔には出さないが少し機嫌が悪くなっていった。だが、
それはまだ序の口であり、最高に機嫌を悪くするものが出現したのであった。
それは・・・・・・


ガッシャーーン!!!

ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ!!

ドドドドドドドドドドドドドド!!


「なっ何事だ!?
一体全体この音は何処から流れてくるのか??」

「見ろよ!!空の様子がおかしい!!
あんな黒い雲が急激に成長しているぞ!!」

「何だ!!??あの黒いゲートらしき物体は・・・・!?」


(一体これはどういうことだ!?先ほどの雲があんな直ぐに大きく成長しだすとは。それにあの空に浮かんでいるゲートらしき物体は一体なんだ!!??)


先ほどのプーチンの見かけた黒い雲が急速に成長して、今ではこのモスクワの上空の半分を埋め尽くすぐらいの大きさにまでなったのだ。
その黒い雲の陰で周り一面が暗くなったのですぐに他の人たちも気づき、報道陣は直ぐにそれをカメラに映しながらキャスターはレポートを開始し、他の観客達や来賓の方々は不安な様子で雲を指差しながらざわついているのが、壇上からでも見える。眼下に整列している軍隊は顔だけ動かして訝しげな表情で雲のほうを見つめているが、
ちゃんと銃を「捧げ筒」のままの状態で構えているのが壇上からでも見える。

プーチンは周りの様子からこれには迅速に対処する必要があると判断し、直ぐに周りの側近達に形態や無線を使用して広場を警備している警官や特殊部隊、そして控えている秘書にモスクワ周辺に待機している軍隊への通信を繋げるように命令して、
無事に繋いだのを確認するとこれら3者に指示を出してから、報道陣や観客らにも指示をテキパキと出した。その姿はまさに強い指導者の姿だ。



「すぐにこのモスクワにいる全ての警察官と特殊部隊員は、直ぐにこの場に居る観客と来賓の方々の避難と、ゲートの包囲を命じる。そしてモスクワ周辺の軍隊は直ぐにモスクワ防衛の為に展開するように命じ、他の基地にもすぐさま戦闘体制準備するように命じろ。良いな!!??万が一の時の為に爆撃機の展開をも空軍に要請しておけ!!」


「此処に今日お集まりいただいた市民の皆様と報道陣の方々、そしてわざわざ遠い所からこの記念すべき式典の為に来てくださった来賓の皆様、どうか落ち着いて私の話を聞いてください。直ぐに警察官と特殊部隊の者が皆さんを安全な場所へと避難させますので、慌てずに彼らの指示に従ってください。彼らは一流の防衛のプロです。
全て任せてください。我々が全力で貴方方をお守りいたします。」


プーチンのとても落ち着いた態度と話し方に、パニックになりかけていた観客らや報道陣は落ち着きを取り戻し、直ぐに彼の話を聞く様子となって真剣に彼の指示を聞いていた。
その非常にいつもと同じ落ち着いた様子でそう語ってくるので、とても頼もしく見えたからだ。
そして一行はその指示の下に警官や特殊部隊が周りを警護しながら指示する避難誘導に従い、落ち着いた様子で彼らはゲートからの避難を開始した。そしてそれを見届けながらプーチンは、速やかに来賓の方々にこんな事態に成ってしまい誠に申し訳ないと謝罪をした。来賓の方々は別に君の所為ではないと言って気にしない素振りを見せて、逆に彼に私達は避難するが君は私達と一緒に非難しないのか?と聞いてくる有様だった。
そんな来賓の方々にご心配は無用ですと言いながら、彼は先ほどのゲートが今どんな様子となっているのか見ようと、
先ほどの空のほうへと視線を移した。


すると黒い雲の方は、成長が止まっているようで先ほどと全く変わらない大きさであったが、ゲートのほうはなにやら凄いことになっていた。何と雲の辺りにあったはずだが地上に移っていたのだ。
ゲート周辺はちょうど広場だったようで建物の被害などは報告されていないが、こうして地上にあるのを見るとその異様性がはっきりと分かった。

まず何よりも異様なのは、いきなりまるで魔法の様に出現したことだろう。
見る限り大きさは城のゲートよりも少し大きいので約4メートルほどだろう。いかにも指輪物語やナルニア国物語などファンタジー世界によくある模様が描かれており、プーチンはこの門の外観を見たときに第1印象として、ルネサンス期の大詩人で政治家でもあった「ダンテ・アリギエール」の作品の1つ、『神曲』を構成する3部作が1つ「地獄篇」に出てくる地獄と現世の境に存在する{この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ}と銘された「地獄の門」みたいだなと思った。
そのような複雑な人や化け物などの彫刻が施されたゲートが出てきたのだが、
今の最新技術を用いても瞬時にこの様な大きなゲートを雨雲の中から出現させるのは無理なので、
まるで魔法のようだとプーチンがそう思っても仕方が無いだろう。


そして次に彼が思ったのは、このゲートの出現と此処最近のモスクワを襲う異常な天候との関連性だ。このゲートが出現する時には今も空に浮かんでいるあの大きな雷を伴った黒い雲が一緒に出現したが、その黒い雲はまるで入道雲の様な雲なので今の季節にはありえないのだ。
よってこの雲の出現を先の異常な天候と関連付けてしまうのは当然であろう。


彼がそうして周りが色々と避難したりその案内をしたりと動いている中、周囲をぞろぞろと集まってきた警護のSPと次の指示を待つ側近などに囲まれながら、既に何とか包囲する形で展開した警察や特殊部隊、そして軍の機甲部隊や戦闘ヘリが門を包囲している場面を壇上から降りた場所で監察していた時であった。


ガチャン 
ギッ・・・ギィーーーーーーーー!!

ゾロゾロゾロゾロゾロゾロ

Gaaaaaaaaaa!!


「うっ・・・・撃てー!!撃ちまくるんだ!!」


何か鍵の様な物が外れる音が響いたと思った途端、門が次第にきしむ音を周囲に響かせながら開いていき、その開いた隙間からモンスターらしき謎の生物が斧や棍棒などで武装した状態で、大きな唸り声を上げながら飛び出してきたのは。
そのあまりの話が通じなさそうな図体と凶暴な雰囲気に、
思わずゲートの周囲を包囲していた警官と軍隊らが現場の指揮官の自己判断で攻撃を開始してしまったが、その判断は決して間違っていなかった。


次々と銃撃によってばたばたと連中は倒れていくのでゲート付近には屍の山が出来上がるが、それでも連中はただひたすらにその屍を乗り越えて明確に殺気を纏って襲い掛かってくる。それらの後ろには明らかに人間らしき鎧で身を固めた兵士が混じっており、何やら剣や槍など中世の武器で武装して統一された装備を身に着けているので明らかに何処かの国家や武装勢力であるのが分かるが、特殊部隊の狙撃や戦車の砲撃や戦闘ヘリからの機銃掃射で次々と死んでいった。

はっきり言って、
ゲートからせっかく飛び出してきたこれ等の謎の勢力と生物らの一団は、まるで生きた射撃場の的の様に(まるでマリアナの七面鳥撃ち的な感じ)次々と射殺されていくので全くの無駄死にであった。
無数の銃弾が彼ら一団の胴体や手足を貫いて骨を砕き肉を貫通し、頭部に開いた穴から脳漿を地面にぶちまけて即死したり、対物機関銃の弾を喰らって上下に身体が分かれるも死ねずに臓器を引きずりながら逃れようともがいて死んでいくもの、すっかり戦意を喪失して失禁したまま頭を抱えて丸くなって震えている者、
グレネード弾や手榴弾と言った爆発物、そして戦車や戦闘ヘリからの砲撃やミサイル攻撃で空中高く血煙と共に肉片が飛び散っていき、
地面には穴だらけや欠損した肉の塊が血溜まりの中に転がっていく。


このようなリアルなスプラッター現場はこのゲートから出てきた一団の中で、
運の良い生き残りの連中が武器を地面に落として降伏する意思を見せたことで何とか終了した。
戦闘によりコンバットハイになっていた警官や特殊部隊や軍隊らも落ち着きを取り戻して行き、
改めて自分達が作り出したスプラッターな地獄絵図に皆一様に恐れを感じて、
あまりの悲惨な光景や死臭と血の臭いなどに吐き気を催してしまい、盛大に地面に吐く者もいた。

周りの側近連中や警備の者達もその凄まじい光景の所為で皆あまり良い顔をしていない。そんな中でただ1人、
プーチン大統領だけはいつもの無表情のスタイルで、この惨劇を冷たい氷の様な目で見つめていた。
彼にとってこのような悲惨な光景は周りと同じく精神的にあまり良いものではなかったが、このような自分にとってもそうだが祖国ロシアにとっても大変めでたい日である今日この日に、明らかに侵攻目的である行為を行ったこの一団のトップに対して、必ず賠償と落とし前を付けさせるという激しい怒りと決意が彼の体の中に湧いていた。
彼はその悲惨な現場に一瞥くれると直ぐに側近達に現場の適切な「処理」を命じて、避難した来賓の方々や観客たちに何とか事態の収拾に成功した事を告げるために、感情を押し殺しながら彼らが一時的に集められているクレムリンの一角に赴いて行った。
その時不運な事につい彼の顔をはっきりと見てしまった者は、一斉に顔色を真っ青にしながら背け、恐怖で高まる心臓の鼓動を抑えるのに精一杯となった。


何故ならその時の彼の顔は怒りのあまり、



とても人形の様に生気や感情をまったく感じず、



まるでシベリアのメチェーリ(吹雪)のような冷たい顔をしていたからだ。




「絶対に潰す・・・・・・・・・・」




神か悪魔か知らないが、このゲートをモスクワに繋げた者はやがて大いに後悔することになるだろう。それが自分が死んでゆく走馬灯の中で思い浮かべるのか?


それとも全てを奪われて何とか命だけ助けてもらえた時に思うのかは、誰もまだ知らない。



が、しかし、1つだけ確かなことが分かる。それは、このゲートを利用して侵攻を試みた勢力は、


間違いなく怒りに燃えるウラジミール・プーチン率いる地球連合軍によって、


容赦なく己たちの築き上げてきた世界を蹂躙されて、
全ての富や所有物など集めてきたものを破壊し略奪されて、
最後にゆっくりと拷問される内にこの世に生まれてきた事を苦痛の中でひどく後悔しながら、あの世に旅立つことになる事を・・・・・・・・・!!!!


そしてこの時帝国は痛快のミスを犯していた。


それは「もう1つ出来たゲート」を通じて、日本国という国の首都に侵攻していたことだ。


スターリンがもし仮に生きていたらこう言うだろう。


「やべぇ、あのオタク自衛官とか自衛隊連中は絶対に俺が転生者だと絶対に気づくだろう」と。


このゲート出現から1ヵ月後、伊丹・菅原ら「特地」に派遣された自衛隊と官僚ら一行が現地の住民ら(テュカ・レレイら)と帝国の皇女であるピニャ・コ・ラーダたちに連れられて見たものは・・・・・・・・


「なっ、何で・・・・・・・・何でB-1爆撃機がここにいるんだよ・・・・・・!!」


米軍のB-1爆撃機に似た爆撃機の編隊が、帝国の市街地に爆弾の雨を降らせている場面であった。


そして更にその機体には・・・・・・



「旭日旗に帝政ロシアの国旗だと??
あの連中は一体何なんだ!!!???」


かつて歴史の彼方に消えたはずの日章と旭光を意匠化した大日本帝国の旗に、
同じく白・青・赤のおなじみのロシアの国旗の色に加え、
青いケープをまとい銀色の鎧を着て白馬に乗った聖ゲオルギウスが赤い野を駆けて竜を退治している図柄の描かれたロシア帝国の旗が描かれていたのだ・・・・!!


そして地上の市街地をとある軍勢が攻めていた。その軍勢はゲートから攻めてきた帝国と同じ装備をしていたが、武器は全く違うものを使用しており、掲げている旗も違った。
彼らの正体は・・・・・・・


「何故、何故連合王国軍が帝国に反旗を翻して街を攻めているの!!??」


「あの連中、明らかにアサルトライフルとRPGで武装しているぞ。一体誰が連中に渡したんだ!!??まるで民兵みたいな連中だ!!」


地球の紛争地帯でよく見かける武装をした、帝国の属国らが結成している連合王国の軍勢であったのだ!!彼らが此処にくるまでに一体何が起きたのか?次回に続く
次回予告

ゲートの先に広がる帝国という蛮族の勢力を知ったプーチン閣下率いる地球連合は、彼らに虐げられている属国の方々を利用・・・・・・げふんげふん、協力することで帝国に対する天誅を下さんとする。そして同時に22目のゲートから来た自衛隊とも接触して、史実世界の現状知り一体プーチン閣下は何を思うのか?
次回もお楽しみに!!
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