クタビレ爺イの面白日本史

日本史裏話抜粋

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加藤清正の実像(2)

2005-08-24 15:50:23 | Weblog
しかしそんな清正に秀吉はまたも難問を突き付ける。それは朝鮮出兵である。国内を統一した秀吉は明を始めフィリピン・インドを征服し、北京に都を移すという無謀としか言えない野心にとり憑かれていた。明に攻め込むには朝鮮半島を征服することが不可欠であり400 年経っても尚、現在日本と朝鮮との間に禍根を残す朝鮮との戦に清正は駆り出されたのである。1592年(文禄元年)三十一歳の清正は釜山に上陸、僅か三か月でロシア国境 (オランカイ)迄、兵を駆け上らせた。この初戦の勝利は南蛮人のもたらした鉄砲の威力である。清正らの殺戮は壮絶を極め、武将たちは戦果を示すため敵の耳や鼻を削ぎ落として塩漬けにして秀吉の元に送り届けた。京都に耳塚があるがその数十数万に上ると言う。そしてこの戦で清正を有名にしたのが虎退治である。不老長寿の薬と信じる虎の脳味噌を是非持ち帰れと言う秀吉の命令で彼は獰猛な虎に立ち向かった。伝説では虎は槍で仕留めたということになっているが、実は鉄砲で打殺したらしい。そんな清正のことを朝鮮の人は400 年経った今でも『鬼』と呼ぶ。だが明の応援を得て李舜臣を中心として朝鮮の人々が一丸となって必死の反撃に出る。見た事もない近代兵器を駆使して攻め寄せる朝鮮軍に食料、武器の補給ルートも遮断され、それに厳しい冬が到来する。『雪は膝迄に達し、人は歩く事もできない。馬も前に進む事もできない。人馬ことごとく凍傷に倒れる』の状況ではあったがそれでも秀吉の命令に背くことは出来なく、清正は戦い続ける。
所がそんなある日、清正は届けられた一通の手紙に凍り付いた。即刻帰国し蟄居謹慎せよと言う秀吉からの怒りの手紙である。命懸けの奮闘も認められず清正は戦いの責任を一人負わされたのである。無念のまま帰国した清正は一切の弁明もせず、秀吉の命ずるままに蟄居謹慎する。この時、清正三十五歳。
この事件には長い間の秀吉配下に於ける武闘派と文治派の確執があり、この後も関ヶ原に向かって東軍・西軍の振り分けにも濃い影を落すのである。未だ清正が肥後を引き受けた頃、既に豊臣政権は安定しこの政権が戦争を必要としなくなってから清正逹武闘派の影は薄くなっていたのである。当然の事ながら秀吉は時世に合わせ、合戦専門の武辺者よりも行政手腕のある者を重用している。石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以などの五奉行である。清正も大身に抜擢されたとは言え秀吉の身辺から切り離されてしまったのである。そしてその後、三成が秀吉を独占していたのである。命を懸けて戦い、豊臣を作ってきた清正逹には事ごとに秘書官の権限を露骨にして清正などの辺境の諸侯を弾圧し、時には君臨する三成逹の文官には我慢が出来ない時が続いていた。
後に家康は清正ほどの軍略の才を持ち、統率力もあり、しかも築城術にも長け、領主としても優れた行政力を持ちながら性格が武士であり過ぎると評している。つまり武辺者と言うのである。この場合の武辺者とは戦場で勇猛であると言う事以外に性格単純、政治感覚なしのことであり、この辺りが三成との確執を利用され福島正則と共に家康に取り込まれた資質でもある。
そして朝鮮の役、三成は秀吉の命により諸将の監督のため、朝鮮に渡った。そして軍監の黒田官兵衞に面会にいったが丁度三成嫌いの浅野長政と一緒にいた官兵衞は軍議の要無しとして三成を侮辱した。三成は官兵衞を職務怠慢、命令違反として秀吉に報告し、官兵衞は謹慎となる。これらを聞いた清正は三成の讒言として反三成派を形成する。
そして小西行長軍とどちらが早く京城に突入するかを競った時に、清正は一日遅れたが一番乗りとして報告し秀吉から感状を貰う。しかし三成の異常な正義心と弾劾癖がこれを間違いとして暴き、その上『作戦の失敗は清正の行長に対する非協力が原因、おまけに明への書類に豊臣清正と署名したり、講和締結を阻害した』と報告する。これに怒った秀吉が召還したのである。
清正の謹慎は半年の間も解けなかった。しかしその間に清正が日本を離れているときの以前とは違う秀吉の姿が伝わって来た。秀吉は関白を継がせた甥の秀次を高野山で自刃に追込んでおり、その上、秀次所縁の妻子三十四名をことごとく斬殺したのである。秀吉は既に六十歳、年老いて授かった秀頼を溺愛し理性を失っていたのである。あれ程機知に富み洞察力に富み誰よりも輝いていた秀吉はどこに行ってしまったのか?清正の中では秀吉に対する信頼が揺らぎ始めていた。程無く利家・家康・ねねの方の執り成しで清正の蟄居は解ける。そして彼の願いは肥後に戻り国作りに専念する事であった。
しかしその願いは脆くも崩れ去る。明の講和の使者が日本を明の属国にすると宣言したので怒った秀吉は一旦締結した講和を破棄して朝鮮に攻め入ると決めて終ったのである。
そして事もあろうに清正にその先陣を命じた。この瞬間、清正の脳裏に蘇ったのはあの凄惨な地獄絵である。しかし秀吉の命令に背く事はできない。それは即、死を意味して居たからである。もう再び生きて帰れまい、無益な出陣と分かりながら諸大名は朝鮮へ行く。慶長の役である。果たして戦いは悲惨を極めた。清正軍は一旦はウルサンに城を構築したが、朝鮮軍五万人の総攻撃を受けたのである。迎え撃つ清正軍は一万三千、死力を尽くしての壮絶な戦となった。籠城する事およそ一年、『具足ずり落ちるほど痩せさらばえた兵
士たちは餓鬼の様に人肉迄貪り食らった』(絵本太閤記)の様な絶望の中、清正の詠んだ歌が伝わっている。『故郷の空は いかにやかすむらん ことくにからの春のあけぼの』思い出されるのは肥後熊本の山野、そして母の姿。清正の眼前には自分たちが荒れ果てさせた朝鮮の山河が横たわっていた。そして何千、何万と言う夥しい両軍の兵士の骸、これが自分が求め続けたものなのか?一人でも多くの兵士を帰還させたい、それが清正の切なる願であった。そして撤退命令を一日千秋の思いで待つ清正の元に一通の手紙が届く。
『秀吉死す』秀吉の死により足掛け七年に及ぶ戦は両国合わせて五十万人を遥かに越える犠牲者を出し、幕を閉じた。1598年のことである。
そして1599年慶長四年、未だ六歳の秀頼の後ろ盾となった五大老・五奉行の手によって新しい豊臣政権の幕はきって落とされた。
五大老…徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家
五奉行…浅野長政・石田三成・増田長盛・長東正家・前田玄以
だがその中に清正の名前はなかった。清正を邪魔に思う三成によって排除されてしまったのである。もはや清正の居場所は肥後にしかなかった。だが帰国した清正が見たものは長い戦で働き手を失い荒れ果てた領地、そして心まで荒んだ領民達の争う姿であった。
しかしそんな清正に又も火の粉が降り懸かる。1600年慶長五年、勢力増大した家康に対して名ばかりになってしまった豊臣政権を何とかおのが手に取り戻そうと三成が宣戦布告、清正の元には三成から、秀吉の恩孝を忘れるな、豊臣のために挙兵せよと度々密書がとどく。その一方で敵であるはずの家康からも味方になってほしいとの書状がくる。実は家康は自分の養女を清正に嫁がせ義理の親子関係を結んでいた。これは清正の人気と三成の謀才が一つに纏まったら秀頼にとって強力な集団ができてしまうとして、二人を引き離す本多正信の進言による家康の調略である。この養女となったのは三河刈屋三万石の水野忠重の娘で正信が捜し出して来たのである。但し問題は太閤の時代から大名間の私婚はきつく法度になっていた。このような縁談は豊臣家の正式機関である五大老会議、五奉行会議に掛けねばならない事になっていたが、この1595年に発布された時は家康も署名しているのに家康は秀吉の死後、数か月も経たないうちに伊達正宗、福島正則などの間に縁談を進めたりしており、これに清正の件が加わっているのである。家康は更に将来はと言う条件ながら十男で初代の紀州家を開く頼宣の嫁として清正の娘『あま』をと申し入れている念の入れ方である。
さて関ヶ原前夜、世の中が清正の動静を見守る中、清正は一人法華堂の中に籠り続けて居た。運命の1600年九月十五日、関ヶ原で東西両軍が激突した日、遂に清正は一歩も動かなかった。これも家康から言い含められたと言われる。この頃から彼は『履道応乾』と言う言葉をしきりに用いている。自らは一歩身を引いて自分の為すべきことをしていれば道は必ず開けると言う意味である。戦に逸り、手柄を求めて先陣を切った清正はもうそこには居なかった。清正時に三十九才。
この関ヶ原で石田三成、小西行長は命を落とす。家康は遂に天下をその手に収めたのであるが、彼がその存在を気に掛けざるを得ない男が清正であった。好戦的であった清正が急に戦を避けるように成った。清正の心の中の変化を知る由もない家康にとっては不気味で
あり警戒心を抱く家康は清正に接近する。家康は動かないことで家康に利をもたらした清正に、滅んだ小西行長の所領であった肥後の残り半国を与え清正は肥後一国五十四万石を拝領することになった。そして清正は荒れ果てた肥後の立て直しを始める。もし敵に攻め込まれるても十分耐えられる頑強な熊本城の築城、武士や領民が豊で平和に暮らせる城下町の整備、洪水を止め豊な穀倉地帯とするための河川の護岸や干拓工事、それらの現代迄受け継がれる頑強で科学的な工事を清正は自ら先頭に立って行なった。その上、八代港を貿易基地としてスペインや東南アジアとの貿易を軌道に乗せ、実質二十万石の増収を獲得した。過去には日本一貧しいとさえ言われた肥後は僅か数年で日本一豊かな国となり実質七十三万石の力となった。
しかしそのような清正に益々恐れを抱いた家康は清正に更なる難問を突付ける。清正は家康のところへ出仕する度に大阪の秀頼への挨拶を欠かさなかったが、家康は今や徳川の世になったのであるからと言う理由で秀頼への挨拶を禁じて来たのである。この時清正は
恩ある豊臣家へ挨拶せずに済ます事は忠義に反する、と反論して家康と正信を黙らせたが徳川への危険度は益々高いと受けとられる。実は秀吉の存命中、諸大名は皆大阪に屋敷を持っていたが、関ヶ原の後は秀頼が未だ大阪城にいるのに、家康に気を遣って揃って大阪屋敷を取り払い、競って江戸に屋敷を作っていたのである。しかし清正一人が大阪屋敷を残していた事が徳川が清正を信用しない原因でもあった。
それではと家康は城の新築や改築などの数々の工事を命ずる。これは家康が豊臣所縁の大名たちの財力を何としてもすり減らそうとする策略でもあった。名古屋博物館には駿府城新築の図が残されているし、名古屋城には『清正石』と言うのがある。豊臣所縁の武将たちはだれもが不平を漏らし家康への反発を強めて行った。所が清正は我先に駆け付け派手な衣装で陣頭にたち、木遣を歌いながら平然とやってのけたのである。しかも工事中は誰もが呆れるほどの夜遊びを繰り返し、盛大に能や歌舞伎まで催して家康の警戒心を解こうとした。こんな家康へ媚びているとしか思えない清正の態度に淀殿を始め豊臣普代の者たちは裏切り者と謗を投げ付けるが、清正はじっと耐えた。
しかし家康は既に七十歳、徳川の基盤を磐石にするため何がなんでも豊臣を潰そうと焦った家康は強攻策に出る。何時迄も臣下になったことを認めない秀頼に二条城まで挨拶に来いとかっての主君に脅しを掛けてきたのである。これに対して淀殿は行けば殺害される危険もあるので、頭を下げる事は出来ぬと真っ向から拒絶、清正は今戦になれば又多くの犠牲者が出る、豊臣を守るためにも秀頼を家康に会わせようと淀殿を涙ながらに説得する。作戦は有楽・且元からの情報で正則・浅野幸長・清正が検討し、大阪から京へは清正と幸長が護衛し、二条城の殿中は清正が切り死の覚悟で付き従うこと、万一の場合は大阪城に残る正則が淀殿と共に火を放ち果てる計画になった。
清正が上洛の支度に掛かったとき徳川から伏見にて迎え出るように指示があり、大阪から京まで護衛する計画に水を差してきた。しかし清正はこれを無視する。清正と幸長は秀頼の通過する淀川の沿岸に鉄砲千挺、槍五百本、弓三百挺を持った人数を要所々に駐営させる。更に清正は精鋭五百人を平装させ京の町中を終日巡回させ、幸長は仮病を使って伏見屋敷にこもり、出動に備える。正則も仮病を使って家康のいる京を抜け出し大阪城に一万
人の兵と共に篭る。
1611年 3月 27 日の未明、秀頼は天満の河港から御座船で出発するが、親衛部隊の七手組、且元とその家士、陸路に足軽千人が堵列する。清正の待つ伏見には夕方の到着、そして伏見の清正の屋敷に一泊、翌朝陸路で京へ向かう。籠脇には清正・幸長・有楽・且元・木村重成・渡辺内蔵助がつく。京では片桐屋敷で一旦休息の後、二条城に赴く。その日、清正は懐に短刀を忍ばせて登城し秀頼に付き添った。清正は一命を賭して家康・秀頼の歴史的会見を成立させたのである。会見はおよそ二時間、秀頼が家康の健康を祝い、家康も秀頼の成長を祝うと言う酒宴であった。こうして会見は無事に終り一触即発の危機を回避する事ができたのである。そして清正は肥後への帰路に就く。しかしその道中、清正は突如病に倒れる。漸く肥後にたどり着いたものの、6 月24日その波瀾の生涯を閉じた。50歳。二度に渡る朝鮮出兵が清正を変えたのであろう。際限なく繰り返される争いの矛盾、空しさ、愚かさ、そうした葛藤の末そこには後半生を無益な戦を避ける事に費やした清正がいたのである。彼のこんな存在はほんの束の間であったにせよ、無益な衝突を避けさせた一時期があったのである。しかし残念ながら彼の死後四年で豊臣を恐れる家康によって、大阪城は戦火に晒され秀頼・淀親子と共に四万の命が犠牲となった。更にその十七年後、
家康の恐怖心は加藤家を断絶という悲劇にまで追い込んだのである。
(追記)
『十竹斎筆記』という古記録に面白い話が載っている。二条城の会見では何も口にしてはならないと言われていた秀頼は礼式通りには杯を重ねたが、唇を近ずけるだけで決して飲まなかったという。その上、饅頭も出たが秀頼は『虫気(消化不良)』を理由に食べていない。これは家康が平岩親吉に用意させた数か月後に利くという毒饅頭であったという。これを食べたのは平岩親吉・清正・控えの間の幸長・池田輝正であり、この全員がその後間もなく死亡している。これは偶然かも知れないが得体の知れない家康の本性を考えると本当のような事にも思える。公式には清正の死因は当時でいう『唐瘡(トウガサ)』、現代の梅毒である。死のかなり前に島左近の舅で名医の名が残る北庵が清正の症状を診察し、胸の薔薇疹から唐瘡と診断している。当時この病気にかかって居た武将は数人いる。このアメリカ大陸を発祥とする病気が文明社会に現れるのはコロンブスの船員がアメリカからヨーロッパに帰って来てからの事というがヨーロッパでの発病から僅か十五年くらいで日本へも来てしまっている。清正は朝鮮の歌伎からうつされたと言うから、もしかすると朝鮮の役は、飛んでもないものを日本の武将に御土産として持たせたのかもしれない。  この平岩親吉(チカヨシ)、家康より二歳の年上であり、家康が幼童の頃、今川に人質として送られた時に付き添った遊び相手であり、主人思いの三河者の典型である。親吉は信康の教育係として岡崎城で暮らし、例の信康の武田内通事件の処置では自分が身代わりになるとして家康の処置に抵抗した男である。親吉はこの毒饅頭を食べた年の12月に死んでいる。三河風の忠義は愚直であり、陰気でもある。自分の主家の利益のほかには思考が広から無いところがあり、家康とその側近の持つ体臭のようなものである。親吉はこの際、清正も幸長もあの世に送ってしまわなければ徳川の安泰はないとしての行動であるが、三河者の陰惨さは相手を信用させるため自分も食ってしまったところにある。
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