少し前に住宅困窮者への配慮をテーマにした勉強会に参加した。
現場で長年実践に携わっている人が話してくれるということで、
それを勉強したいと会場いっぱいに人が集まったのだが、
その中に長年に渡り、そのテーマについて研究、実践し続けている人がいた。
社会の無理解と戦い、成果を上げて来た方だそうで、すごい人なのだろうとは思う。
だが、だからだろう、
彼からすると当日の出席者は理解が足りない、偏見に満ちた人たちに見えたようだ。
彼は主催者の穏やかな制止を無視し、何度も大声を出した。
関心があるなら勉強しろ、知識が足りん!
要約すると、まあ、そんなことが言いたかったんだと思う。
そして、彼の指摘は間違いのないところだが、
全ての人が何十年も現場にいる彼ほどの知識を身に付けていることはまずありえない。
人は時々、自分が知っていることは他人も知っていると思い、
そうでない人を馬鹿にすることがあるが、
もし、現場で何十年もやってきた人と同等の知識をぽっと勉強しに来たと言う人が
持っているとしたら、それはそれでおかしくはないか。
現場の何十年は何だったのだということになるのではないか。
それよりも自分が携わっている分野に他の多くの人が関心を持っていることを是とし、
自分が知っていることを伝えようとするのが、
彼の問題意識を共有し、深めることになろうと思うが、
他人をののしり、攻撃しているだけでは、そんなことは起こらない。共感も得られない、
だが、彼に限らず、特にある一定以上の年代の人は
共感ではなく、対決を好んでいるように思える時がある。
自分は正しい、他人は間違っている、だから、戦うべきだ。
そういうやり方があることもあるだろうが、
少なくともあの場にいた人たちは知識は足りないにしても、
自分たちも彼が戦っている相手と戦うべきだろうと思い、あの場にいた。
言ってみれば緩やかながら、味方陣営にいる人たちである。
その人たちを罵倒してどうする。味方にせずにどうする。
馬鹿だなあと思うが、世の中にはああいう、
自分を孤高の正義の味方みたいに思っている人はけっこういらっしゃるようで、
時々出くわすと、あ~あ、まただとうんざりする。
力の出し方を間違えているよと思うが、大体のそうした方々は自分がお偉いと思っているからか、
他人の意見など聞きはしない。たまらんわ、である。

ある一定以上の年代と書いたには意図がある。
逆に若い人たちの中には対決せず、協調し、共感を得ながら、
でも最終的には自分たちの行きたい方向に持っていける賢い人たちが少なくないと感じているからだ。
戦いだけが勝利への道ではない。
日本には負けるが勝ちという便利な言葉もある。
つまり、最終的に行きたいほうに行けているかどうか。問題はそこだろうと思う。