強迫神経症 | 強迫障害 | OCD闘病記

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記

675.「頑張らないと」「ひとりだから」

2016.04.13 [ Edit ]

かなさんのコメントを読み返して、深く思う。

昔、1度メールさせていただきました。
今日、そう言えば娘さんどうなったかな?っと思い、検索で辿り着けました。
私は娘さんより1つ歳上で、やっぱり治っていません。
子供が欲しかったです。

子供を通して、友達と遊んだり、家族と笑ったり、
やり直せるかもと思ったけれど、人との繋がりもないし、
自分でもいつ不安定になるのか判らない状態で、
まして男性を受け入れることが出来ないから夢物語です。
自分は甘いんだろうなって思います。

でも、もっと無邪気に甘えて良いときに必死で我慢して結局は今、
脳みその中だけで生きて、何も生産せず、
ぐるぐる思考に振り回されて疲れはてて寝る。
自分が気持ち悪いです。

普通に恋愛して付き合って結婚して子供産んで・・・
特に今の社会は子供のいない独身者に厳しいです。
普通にしたかったことが出来ません。
家族のなかですら、躓いて、
人間関係を築けず病気になる自分が外で誰とどう繋がれるのかも判りません。

毎日、一人で走ってる間だけしんどくて、
頭のなかで色々考えなくて済むけど、身体はきついです。

お孫さんがいて良いですね。
私の愛し、憎悪してる両親にも孫ちゃん抱かせてあげたかったです。
母も私を愛し、今は狂った私を憎悪もしてるんでしょう。

ただただ、怖くて不安で精一杯家族のために動いた結果、
迷惑者になって幼い自分に教えてあげたいです。

逃げて自分の人生を存分に生きて、
自分を幸せにしたら、家族も幸せにする力もつくからって。

意味不明な文になってると思います。
娘さんとお父さん。私と母。共依存ってやつでしょうか。
40歳の誕生日にしねなかったです。
でも、死にたかった。
頑張らないと。
一人だからって思います。


死ぬことなんか考えんといてくれ。
「一人だから」
現実、これは、そうなのかもしれん。
でも、小さな喜び、小さな幸せを待て。
きっと、きっと、いいこともあるから。

痛々しい便りでした。

うちの娘も、こういうふうに考えてるんやろうなと思います。
というか、この”かなさん”が書いてきてくれたようなことを、
私に話すこと、訴えることが、よくあります。

いつまでも若いままだと思っていました、娘も私もです。
何も変わらず、日々を過ごしていて、気がつけば、
62歳の私と、38歳の娘になっていました。

どんな人と結婚しよるんやろ?なんて考えていたら、
「恋もせず、男の人と付き合うことなく40になる」
と、恨み言のような、寂しそうな訴えをしてくる娘がいました。

妹の息子を可愛がる娘、
「私も子供が欲しいなあ」
妹娘が、
「お姉も、まだまだできるやん」と、
励ましともつかない言葉を投げると、
「こんなに薬ばかり飲んでる私には、怖くて子供なんて無理」
諦めとも、自分への慰めともつかない言葉が出てきていた。

かわいらしい、優しい、思いやりのある娘やのに、
かわいそうになあ。

まあ、でも、思いなおして考える。
「かわいそう」なんて思わないでおこう。
きっと、これから、幸せがくる。

漠然と、
漠然とではあるが、この思いを信じていようと思う。


674.春の渓流に思う

2016.03.21 [ Edit ]

息子が、解禁になった渓流で、岩魚、アマゴを釣って帰ってた。。
脳梗塞発症後、もう数年、渓流には行けていない私。

春は、渓流での釣り、
夏は、海に潜って、サザエ、アワビを採り、
子供たちと、自然を相手に遊ぶことが大好きでした。

渓流では、笛を持って、息子が見えなくなったら、
その笛を吹いて、居場所を確認しながら、
「危ないところに、一人で行くなよ」と声をかけ、
海の岩場に潜っているときは、息継ぎのたびに、
岸近くで貝を探している娘、息子の安全を確認し、
厳しいリーダーとしての父親だった。

脳梗塞前までは、息子が一人で渓流に入ることはありませんでした。

ほんの数年前までは、リーダーの父親だったものが、
「危ない所へ行くな」を、声に出すことも無く、
もう一人前の息子なのだからと、
安心はしていませんが心の中で静かに心配しているだけ。

麻痺の残る左足に、いろんなことを変えてしまわれたなあと、しみじみ。

まだ、年老いたとは思ってないのですが、
渓流の岩場を動き回り、勢いの強い渓流を、滑らず横切る自信はありません。
渓流の澱みに潜む岩魚を釣り上げたい望みはありますが、
麻痺の残る左足、バランスのとり難い身体では仕方の無いこと。

この間、末娘の息子を連れて娘姉妹とレストランで食事をした時、
まだ話せない孫が、奇声を上げて喜びを表せる時に、しみじみ思ったこと。
子供が幼かったころ、レストランで走り回ったり、
大声ではしゃぐこと、絶対に許すことなかったなあと。
「静かにしとけ」
きっと、鬼の形相で、押さえつけていた私がいたのだろうこと。

子供ははしゃぐもの。
笑顔で見といてやればいい。
そんな考え方が出来なかった若い父親だった。
厳しいことが、カッコいいこと。
そんな考え方だったような気がする。

そんな厳しい父親だったので、
娘に、「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
そんなふうに思わせてしまったのだろうなあ。

とにかく、弱くなったわけではないと思うが、
考えが優しくなったという表現が正しいのか、
私も、爺さんになったものだなあと、
一人で夜明け前の渓流に出発する息子を見ながら、
少し寂しいような、穏やかでもあるような感慨に浸っていた。

厳しい海の生活を乗り越え、
生まれ故郷の川を、傷だらけになって溯上し、
産卵行動を終えた鮭の一生を、どこか思い出し、ダブらせてしまう。

鮭の一生を思い浮かべながら、
朽ち果ててしまう鮭ではなく、
熊の母親の子育てに、頭の中の映像を切り替えたりしながら、
じっと、静かに考えている自分を見ている。

最後は、孫にサッカーを教えている自分をみながら、
もうちょっと生きたいなあと。

人は、皆、終盤には、こんなことを思うのかなあ・・・

行き着かない思考、未練。

娘が強迫にならなかって、
普通に大人になって、結婚して、子供を産んで、
家庭を持っていたら・・・

終盤は、こういうふうに揺れないで、
自分自身に、もっと、目を向けていたのだろうか・・・

定まらない思考。
・・・の多い自分に苦笑してしまう。

673.娘の誕生日での気づき

2016.02.09 [ Edit ]

最近、娘の気持ちの調子が絶不調。

以前によく口にしていたフレーズ
「私が邪魔なら殺して欲しい」
「産んで欲しくなかった」
「誰も、何も解ってくれへん」
こんな言葉が次々出てくる。

外の世界、すなわち社会と繋がれていないことからの、
苛立ち解消の手法が見えないところからの焦燥であると思う。

社会との接点が見えない上に、
年齢が、その意識を倍加させているようにも思う。

誕生日までは、まだ2週間ほどあるのだが、
外に連れ出そうと考え、
「ちょっと買い物に付き合ってくれへんか?」
「お父さんの、リハビリ用のトレーニングシューズ欲しいから」
誕生日プレゼントを買いに行こうと言うと、
「いらん」と断られそうなので作戦を考えての誘いだった。

機嫌が悪いので、来るかなあと思っていたが、
黙って、準備をしだした。

車で出発してから、
「父さんの靴と、お前の散歩用のスニーカーも買うわ」
「誕生日プレゼントの先だしにしとくからな」

この会話まで行くと、外の景色を目にした開放感もあり、
ちょっと機嫌が良くなっていた。

助手席から、娘の発言。
「もう39歳にもなるのに、毎年、誕生日プレゼントくれるなあ」
「他の父さんも、39の娘にプレゼントするんやろか?」

ちらっと、娘の表情を確認した上で、
「父さんは、もう63歳になるのに、ほんまは、プレゼントもらう方やで」
「父さん、海外旅行プレゼントするわ」
「こう言われるのが、普通の歳やで」
笑いながらの私の答え。

「そうやなあ」
「まあ、働いてへんから許しといて」
娘も、笑顔で終わったので、一安心。

スポーツショップに着くまでの車中、
しばらく無言で考えていたこと。

ついでに孫の歩行器、買ってやろうかな、
孫への、その思いから続いて、
孫には、文句なしに、孫が喜ぶことを考えるけど、
子供には、これを買ってやるのは、
甘やかしていることになるかなあとか、
贅沢すぎるぞとか、
我慢させたほうが子供の為やとか、
いろいろ面倒な理由付けしていたなあと。

なにも考えずに、優しくしてやるということが無かったなあ。
無条件で可愛がるということ、
笑顔だけで接すること、
甘やかすという意味でなく、そういうふうに出来る人もおるのに、
俺は、粋がった父親やったなあ。
体罰も与えたし、厳しい父親すぎたなあ。

孫が喜ぶことは、無条件降伏やのに、
62歳、年とったということなんかなあ。

時すでに遅しかもしれんけど、今からでも、
穏やかな、笑顔のみで接してやれる父親になってやろう。
せめて、病気を精一杯理解してやろう。

そんなことを、39歳の娘の誕生日に気づき、考えたものでした。

672.当たり前が「出来た」喜び

2016.01.15 [ Edit ]

末娘から、姉娘への電話。
「おねえ、あいまる、子守してくれへんか」

末娘の旦那は、脱サラして、
銀の装飾品を製作して販売しているのだが、
こんな趣味みたいなことしてて家族を養えるのかなあ?
私の、これまた不安要因になっている。

そんな銀細工のホームページを見て、
台湾から、大量に注文が入ったらしい。

一回目の注文が入ったと聞いたとき、
嬉しいことではあったが、心配で、
「金が振り込まれたのを確認してから納品しいや」
「コピーされんように、自分のロゴみたいなもの彫っておきや」
いらないお節介かもと思いながら。

無事に納品した後、追加のオーダーが入ったことを聞いて、
ちょっと安心していたところに、
台湾から、買ってくれた会社の役員が日本に来て、
工房を見にくるので、中国語が出来る末娘が接待係り兼、通訳として、
同行するのに、息子の子守を、姉娘に頼んできたものであった。

私がクルマで送って行かなかったら、電車で行く以外にない。
私は、電車に乗れない娘が、これで、電車に乗れたらと考え、
聞こえないフリを通していた。

「父さん、送ってや」ということになったら仕方ないけど、
妹からの頼みを聞く姉として、
自分で行動してくれたら、ありがたいと、
妹から姉への依頼は、妹娘から聞いていたが、
「父さんには、言ってないことにしといてや」と、
妹娘には言っておいた。

台湾からの来賓、その当日になって、
娘が早めに起きてきた時。

前立腺癌の放射線治療を終えてから、
小便がとても近くなってしまって、
今までは、会社時代なんか、
「なんで会議中に何度もトイレに行くねん」
なんて、人に言っていたほど、
トイレに行くことが少なかった私からは考えられないほど、
小便が近くなってしまっている私が、
トイレに行きたいなあを我慢しながら、寝たフリを続けていた。

薄目を開けて見てみると、娘が化粧をしている。
行くのかなあ?
送って行けと声がかかるのを知らんフリで通そうと、
近い小便を我慢しながらのコタツでの寝たフリだった。

化粧が終わって、着替えて出て行った。
玄関が開いて、閉まる音を聞いて、トイレに走った。

「行きよった」
「電車、乗れるかなあ?」
すごい不安感。

急いで支度をして、妹娘のマンションへクルマで出発したものの、
電車に乗れないで、泣きながら電話がかかってくるかもと、
家に戻ってきた。

そわそわしながら、
「落ち着け」と自分に声をかけて、
風呂に入ってから行くことにしようと。

風呂に入っている間に、娘から電話が入っていた。
折り返し、電話をかけたけれど、留守電になる。
三度、間をおいてかけたけれど、留守電なので、
「電車に乗れたんやろ」
と、思って、出発した。

妹娘のマンションに着く直前に、姉娘からメールが入り、
「妹の家に来てます」
「電話したのは、電車が遅れてて、野洲行きが来たんやけど、
 近江八幡は、野洲より遠かったのか聞きたかっただけやし」
ということだった。

「ああ、よかった」

37歳の娘が電車に乗れたことに対して、
これだけホッとする親父。
アホみたいな話やろうなあ、普通の人から見たら。

解らへんわなあ、普通の生活を送れてる人にはなあ。

671.娘と見た初日の出

2016.01.12 [ Edit ]

今年は、比叡山に行かなかった。
毎年の根本中堂参拝への気力が、娘にも私にもなかった。

「比叡山、行こうか?」

「う~ん、やめとくわ」

こんな娘との短い会話で、恒例の行事は取り止めに。

新年を迎えた午前0時、近所の神社に娘が一人で参拝。
2時ころ、お守りを買って戻ってきた。
黙ってお守りを差し出す娘が、どことなく寂しそうなので、
猫のようにコタツに、すっこんでいた私は、
「三井寺に行こうか?」
娘を誘ってみた。

「行ってみよか」
「開いてるのかな?」
娘が行く気になったので、着替えて出発。

一月一日とは言え、午前五時の三井寺は、
除夜の鐘、その他の年越し行事も終了し、
真っ暗で、駐車場に停まっている車も一台もなかった。

「この時間に、初詣は初めてやなあ」
「夜が明けたら、また、たくさんの人が来るんやろう」

ほぼ二人きりの、真っ暗な初詣。
本堂だけに明かりが灯っていて、年越しの次の読経なのだろう、
僧侶の読経を聞きながら、蜀を灯し、香をたいて、お参りさせていただいた。

そして、薄明かりになってきた空を眺め、
初日の出、見て帰ろうかと娘が言うので、
病気がひどかったころ、会社に出勤しなければと思いながら、
琵琶湖に浮かんでくる日の出、よく見たなあと、
しみじみ思い出しながら、
あれから比べると、マシになったなあと、
これも、しみじみと考えていた。

泣き叫ぶことも、ほぼ無くなったし、
暴れることも無くなった。

とは言え、安心はしていないけれど、
娘が大人の歳になったからかなあ?

670.娘とともに「老いを深める」

2015.12.26 [ Edit ]

末娘が、旦那の仕事が忙しいので、
孫を連れて帰ってきています。
末娘の旦那もサッカーをしており、
孫の名前は、アルゼンチンのアイマール選手から、
”碧丸”アイマールではなく、”あいまる”です。

その”あいまる”の子守役は、もっぱら、姉娘の役目になっていて、
末娘より、うまくあやしている。

姉娘が、
「父さん、元気でいててや」
「私の子供の子守してや」
と、”あいまる”を抱きながら、笑顔で言っていました。

フラつく身体で、
"あいまる”をうまく抱けない私を元気付けてくれる言葉です。

先日、母親の一周忌の法要の時に、
お坊さんの法話で、
「老いを深める」という話をいただきました。

老醜や、さまざまな老いに愚痴を言うのではなく、
年老いて、耳が聞こえにくくなるのは、
いやな話を聞かなくて済むようにしていただいている。
老いて、物忘れが多くなっているのは、
なにも考えずに気楽に生かせていただいている。
目が見えにくくなっているのは、
嫌な世の中を、見ないようにさせていただいている。
感謝の発想。

壁を扉に変えて受け取れば、幸せな発想ができる。
すなわち、「老いを深める」という境地。
こんな話でした。

それを聞きながら、
「生きるのが、しんどい」
「私の周りには、誰もいてへん」
こう言う娘に、
「父さんは、おまえの病気のおかげで、長くいっしょにいられる」
「他の親子より、娘と長く共に生きられると思っている」
「ありがたいことやと思っている」
こんな話を何度もしたなあと、ぼんやり思い出していた。

苦しむ娘にとっては、空虚な話だったかもしれないけれど、
「壁を扉に変える」実践をしてきたなあと。

「苦し紛れ」そうだったのかもしれないけれど、
いろんな、娘との話し合いの中で、
父娘で、壁を扉に変える話し合いをしてきたなあと。

これから、実際に老いを深めていかなければならない私だと思うが、
娘とともに、老いも、苦しみも、深めて、味のあるものにしていこうと。

あらためて、考え、深められるように決意した法話だった。

姉娘の子供が抱けたら、どんなに嬉しいだろう。

前向いて、がんばろ。





669.美しい男気

2015.12.20 [ Edit ]

サッカーの先輩、うちのクラブで上から6番目のメンバー。
78歳のKさんが、亡くなりました。

真っ白で美しい白髪。
眉毛まで真っ白で、なかなかの男前。

子供のサッカー指導もされていて、
一回り以上も年下の私にも、優しく接していただいていた先輩。

私の息子も同じクラブでサッカーしていましたから、
「あれは、おまえの息子か?」
「礼儀正しい、ええ男やないか」
そんな言葉もかけていただいていました。

40歳になって、シニアの、このクラブに参加してから知り合ったので、
何の仕事をされていたのかも知りません。
サッカーのみの付き合いでした。

練習ゲームの休憩時間に話すだけ。
そんなサッカーのみの付き合いでしたが、
娘の病気のこと、息子が不良をしていたこと。
いろいろ、温かく、微笑みながら聞いてくださった、
「生きてる中には、いろんなことがあるわい」
そんなすべてを包むような答えを返してくださった、
温厚で優しい先輩爺ちゃんでした。

そんな先輩の訃報が入り、
全メンバーに訃報をメールで送りました。

通夜の会場にクルマで到着した時、
葬儀会場の玄関に、40歳代の後輩に似た男がおり、
「あいつとKさんには、接点あまりないよなあ」
「よう似た人が、葬儀屋の従業員にいてるんやなあ」
そんなことを考えながら、クルマから降りて、
会場に入ろうとした時、
その従業員だと思ってた人が、私に会釈を。

「あれっ? Mくん」
「なんで来てるの?」
失礼な声のかけかただったと思いますが、
彼と、故人は、あまり面識も無いはずだと思ったがゆえの失礼発言でした。
60歳以上のメンバーは、木曜日に練習会。
それ以外が、土曜日に練習会なので、
70歳代と40歳代は、あまり面識が無いものですから。

「Hくんから、仕事終わったら、顔だけ出そうと誘ってもらいましたので」
そんな答えが返ってきました。

Hくんは、40歳代のキャプテン。
男気のある、今風ではない、古臭さの残る男です。

二人に、
「Kさんて、あまり面識もないやろ?」
「話したことも、無いのとちがうか?」
「よう、おまいりしてあげてくれたな」

ちょっと感動してしまいました。

会社時代に、よく通っていた焼肉屋の店主に言われたことを思い出しました。
その店主、韓国のおばあさんで、
日本語は、片言。
その片言の日本語で、
「あのな、にいちゃん、人はな、嬉しい時は、ほっといてもええ」
「でもな、人が悲しい時は、必ず、とんで行け」
「悲しいときには、義理はたさんと、あかんぞ」
こんなことを、韓国なまりの日本語で言ってくれていたのを思い出しました。

会社を早くに辞めた私は、仲間に飢えているのかもしれません。
若いHくんと、Mくんが、通夜に来ていたことに、
「ありがたいサッカー仲間」
独り感動に舞い上がって、お礼のメールを送りました。

H君、M君、

そんなに深い付き合いでもない先輩の通夜に参列していただき、ご苦労様でした。

ちょっと、俺は感動しています。

葬儀会場の玄関に森本くんが、寒そうに立っているのを見て、
「よう似てる人が、葬儀屋の従業員におるんやなあ」と思いました。

近づくと、Mくんだったので、
「なんで来てるの?」
失礼な話ですが、知り合いであるはずも無いので、出た言葉がそれでした。

「Hくんが、顔だけ出しておこうと、誘ってくれたので」と、Mくんからの言葉。
Kさんは、俺の息子にも、よく声をかけてくれた、あまり多くを語る人ではなかったけれど、
人柄の優しい、いい先輩だった。
あの白髪のカッコええ爺さんだった。
祭壇の写真を見ながら、川村さんの優しい雰囲気を思い出しながら、
HとMの、侠気というのか、男らしい思いやり、義理堅さを強く感じ、
このクラブ、ええクラブやなあと、しみじみ感慨を持ちました。

Kさんも、「えらい若いのが、来てくれてるやんけ」
「Yよ、あの若いの二人は、誰や?」
と俺に声をかけて、聞いてくれて、喜んでくださってたんやろうと思います。

仕事が忙しいのに、義理堅く、お参りしてあげていただき、ありがとう。

こんなメールを舞い上がってしまって送ってから、
なんで黙って、ありがとうと思っておけへんねん。
アホなやつやな俺は。

そんなちょっと恥ずかしいような、反省ともなんとも言えない、
男らしさから、かけ離れた所作に、独り、照れを感じていました。

得意の、余計なお節介やなあ。
苦笑いしきりの、照れくさまじりの反省でした。

668.娘の社会との接点

2015.12.16 [ Edit ]

長い間、娘には社会との接点が無かったような気がする。
気がすると言うより、それは現実に、まったく無かった。

娘に、年賀状が届いたとき、
「これ、高校の同級生やろ?」
「おまえも、出しとかんとあかんぞ」
私が、こう言うと、

「もう、ええねん」
「私は、ひとりで生きていくねん」


心が傷ついていることに気づいてなかったので、
耳が聴こえにくいところを、こういう形で跳ね返していくのも、
強く生きていく方法なのかもなんて、思っていた。

それと、今になって、つくづく思うことは、
娘の歳が、重ねていくということに気づかなかったということ。

38歳になる娘が、
結婚、育児、母、家庭・・・
そんなものへの、あこがれ、羨望を感じることを、
想定できなかった父親がいたことなのかな?

これは、男の俺の、大きな娘への不足部分だったのだと思う。

こういうふうに書くと、
男女差別なんていう、難しい指摘をされるのかもしれないけれど、
単純に、俺としては、女の年代区別というか、
女性としてのターニングポイントみたいなものは、
男のそれよりは、複雑で多岐なもののように思う。

「私は、恋もしたことないし」
「結婚も出来へんやろ」
「もう、子供も育てられへん」


娘がこんなことを、娘がこういうふうに考える時が、
すぐそこに、あるものだったということ、
まったく、気づいていなかった。

先日、パソコンを整理していて、
アルバムに残っている写真を、なんとなく見返していて、
ほんの数年前、娘といっしょに、神社仏閣めぐりをしていた写真を見ながら。
あの時、まったく、こんなこと考えてなかったなあと、
反省というものでもなく、悔恨というものでもなく、
どこか、すごく、寂しい気持ちに襲われ、
時を戻してくれと、叫びだしそうな自分に出会ったものである。

未来永劫、俺と娘は、共に生きられる。
助けていってやれるものだと思っていた。

癌になり、脳梗塞になって、
娘に助けてもらっていたり、
娘に、俺の身体を気遣わせたりしていること。
俺自身の寿命に気づきだしていること。

突きつけられている現実に、突然、気づいた、今日この頃だからなあ。

娘の社会との接点は、唯一行けるところの、
パチンコ店にしかない。

なにもかも、世の中のすべてが汚いものなのに、
パチンコのハンドルは、触れるんや。
この不可思議。
でも、これは、責められないもの。
唯一の開放。
そんなものであり、唯一、気持ちを助けられるものであるから。

そんなパチンコ店で、
真面目そうな、いつも作業服姿の、娘と同年代の男性と、
何度か、娘が話しているところを見た。

黙って気づかないフリをしていたのだが、
娘が、
「あの人、九条ねぎを家族で生産して、販売までやってるんやて」
「この間、雨のとき、クルマで家まで送ってもらったんや」


何も言わず、ニコニコ聞いてやっていた。

そんな、ある日、娘から、
「アドレスと電話番号、教えてもらったわ」

そういうことへの免疫の無い娘の失恋は、
とても辛いので、そういう進展に対しての、
実は期待感もあるんだけれど、
なんとなく過ぎ去ってほしいなあとの複雑な思い。

しばらく経った日に、
「私と、付き合っても、ええって言うてくれはった」
こぼれる笑みでの、報告を受けた。

その次の日から、もう一ヶ月になる。
彼は、パチンコ店に、姿を現さない。

どうなるんやろ?
黙って、ドキドキしている俺に、娘が、
「病気のことも、耳のことも話したから、逃げられたのかな?」

答えられずにいる俺に、

「心配せんでええで」
「私、別に落ちこまへんし」
「ちょっと悲しいけど、そんなに苦しいこともないし」
「年末で、仕事が忙しいのかもやと思ってるし」
「逃げられたとしても、ゆっくり、慣れていくようにするしな」


私から見ても、スレていない38歳。
少女のような感性の娘なので、
普通の女の子の、男女の駆け引きみたいなものとは、
縁遠い、純真そのものの感性の娘なので、
恋に破れることへの免疫なんて持たないものだと思っていた。

38歳なりの、心の強さみたいなものは、あるんやなあ。

変な感心。
寂しく、哀しい安堵。

そんなものを、私の苦しい、哀しい心が感じていた。
娘の、数少ない、社会との接点の話だった。






667.聞いてください涙の感動

2015.12.07 [ Edit ]

今日は、娘のことではなく、自分自身の素晴らしく嬉しい話。
まあ、最近というか、しばらく、ここでの話は、
俺の思いを吐き出すという話題が多かったと思いますが、
今日は、特別に嬉しかった俺の報告です。

本日の素晴らしい同点ゴール
おめでとうございます(^0^)/
お祝いのおすそ分けが未だ届いておりませんが………
これを機にVへの復活を期待しています
アシスト M


Mさんは、サッカーどころ静岡出身の二学年歳上の63歳の先輩。
Vへの復帰のVは、60歳代のクラスの呼び名。
Rはロイヤル70歳代、Vはヴェテラン60歳代、Aはアダルト50歳代、Bはボウイズ40歳代。
こんな年代のクラス分けがあるんです。
Vへの復帰は、M先輩から、60歳代に帰って来いとの温かい言葉です。

今日、毎年年末に招待していただいている、
県内のクラブチーム主催の大会に参加。
70歳代、60歳代、50歳代、40歳代の各年代で、
クラス別にエントリーしてあったので、
私は、例のごとく迷惑かけないように、裏方として参加しようと、
参加費の支払いもあるので、寝ぼけ眼をこすりながら、早めに出発した。

70歳代の先輩から、
「おまえも、70歳代のメンバーとして試合に出ろよ」
と、声かけしていただいていたので、一応、試合に出られるように、
ユニフォームは着て、準備はしていったのだが、
昨日の練習会の後、練習グランドのある公園の階段80段を、
上下3往復、リハビリの為の昇り降りしたので、
麻痺してる上に、太ももが筋肉痛で、その上、気温が低く麻痺がきつい。
ほとんど走ることは出来ないので、今日は、あかんなあと思っていた。

60歳代の試合が、一試合目、いつものとおり、羨ましく応援し、
70歳代の試合が、その次の二試合目、
70歳代のキャプテンの先輩から、
「後半に交代して出場やぞ」と言われ、後半に出してもらったが、
思ってたとおり、足が動かず、これは迷惑になると、
5分も参加せず、交代してもらった。

やっぱりあかんなあと、心の中でうつむいていた。

もう一つの裏方の仕事では、
各クラスのメンバーが足りず、ギリギリの状態だったので、
4クラスともゲームが出来る人数になるよう、
メンバーの貸し借りの調整。

60歳代のメンバーが当初は十分足りていたのだが、
肉離れで参加できないメンバーが二人発生、
日本サッカー協会の役員をされている先輩が、
J1への昇格プレーオフの為、一試合目が終わったところで帰られ、
ゴールキーパーを70歳代から応援してもらったが、
どうしても一人足りなくなり、
「立ってるだけやけど、俺が出るわ」ということになった。

二試合目は、京都の60歳代との試合。
京都のチームは、何度も対戦しているので、
顔見知りの方ばかりで、朝一に「身体の調子はどうや?」と、
暖かい声をかけていただいた長年のサッカー仲間。

試合前の両チームの挨拶の時にも、
「おっ、試合にでるんやな」と笑顔の挨拶、
「がんばれよ」の握手をいただいた。

試合が始まり、二年ぶりの同年代の仲間とのゲーム。
足が動かないとか、言い逃れ、逃げ口上は封印して、
迷惑かけんように、恥ずかしくないように、
仲間に声をかけ、守りは、あまり出来ないので、
攻めに貢献できるように、必死で動き、ついていっていた。

京都に一点シュートを決められ、
身体が覚えている雰囲気を思い出して、
なんとか、反撃しようと、パスをもらい、パスを出し、
頑張れていた満足感があった。

そんな時、全体が攻めあがっていたときに、
メールを送ってくれたM先輩が、
右サイドからグランダーの横パスを出してくれた。

その一瞬、パスを出す味方がいない、
ゴールまでは、すこし距離があるし、
軸足の左足が麻痺で踏み込めないので、シュートする自信がない。

「えーい、いってまえ」思い切ってシュートした。
右隅を狙って、振りぬいたシュートが、いいコースに飛んだ。
ゴールキーパーが手を伸ばして飛んでも届かない。
右のサイドネットにボールが飛んでいって入った。

脳梗塞発症から、二年目のシュートが入った。

同級生のフォワードのあいつの祝福の笑顔が目に入った。
シュートを入れたときの喜び方、忘れてしまっていた。
なんか、ぎこちなく、はにかんだように喜びを表現していた。
振り返ると、後輩たちが、喜び、祝福してくれている姿が目に入ってきた。

「いつか、もう一回、シュートを入れてみたい」
「試合の中で、ガッツポーズがしてみたい」
大げさかもしれないけど、夢だった。

ハーフというポジション柄、
シュートを入れて、大げさに喜ぶのは、あまり好きでないというか、
渋く、カッコつけたいタイプの俺なので、
そんなにオーバーな表現は、若い時からしていないのだけれど、
心の中では、喜び爆発だった。

試合でシュート入れたら、きっと泣いてまうやろうなあ。
そう思っていたけれど、ぎりぎり涙は我慢できた。

M先輩のパスから、俺のシュートが入るまで、
ほんの10秒くらいの出来事に、これだけ心が動いた物語。
後輩たちから、「ええシュートでしたね」たくさん祝福はもらったけど、
誰にも、解らないやろうなあと、この俺の気持ち、そう思っていたけれど、
M先輩から、こんな暖かいメールが届いた。

クラブメンバー総勢110余名。
その中で、裏方、まとめ役をしていると、
「偉そうな先輩」「生意気な後輩」「うっとうしい奴」
そんなふうに思われてるんやろうなあと、
反省したり、後悔したりすること、たくさんある。

このメールを送ってくれたM先輩は、
どちらかというと、寡黙な方で、
サッカーに関しては熱い人だけれど、普段はおとなしく、
気持ちの繊細な方なので、いつも厳しいような発言をする俺に対し、
「生意気な後輩」だと思ってはるのと違うかなと思っていた。

ちょっと寂しいけれど、皆をまとめる為には、
嫌われ者になることも、仕方なしとあきらめている俺には、
この優しい、暖かい、思いやりのこもったメールに、
「このアドレスは、Mさんからのメールやなあ、なんやろ?」
と思いながら、メールを開いた瞬間に、やられてしまいました。

涙が止まらなくなってしまいました。

「ありがとうございます、ありがとうございます」
何度も、何度も、感謝の言葉を心の中で繰り返していました。

サッカー最高、先輩最高、仲間バンザイ。
「生涯現役」さらに目指して、生きていきます。

666.娘の発症の原因、その反省

2015.12.03 [ Edit ]

先週の日曜日、60歳代のシニアサッカー大会。
近畿一円のチームを、我がホームに迎えて開催した。

残念ながら、俺は、まだ60歳代の試合に出る自信は無く、
それでも、「やめんとこ」と思っているサッカーなので、
ホストとしての裏方での参加。

準備諸々と、審判なら出来る。
試合開始の両チームの挨拶のとき、
「レフリー、足が少し不自由なので、あまり走れません」
「遠くで判断してしまい、迷惑かもですが、お許しを」
そんな言い逃れを冗談風に言いながらの審判だったが、
元気なときの俺を知ってくれている他府県の仲間から、
励ましを受けながら楽しい時間だった。

そんな時間をすごしていた時、
69歳の先輩、大学時代に日本一になったこともあり、
サッカーマガジンに「K大学T選手のタックル」という特集で、
分解写真が掲載されたこともある往年の有名選手で、
俺の高校時代、コーチとして指導もいただいた神様の先輩から、
「ちょっと来い」と声をかけられた。

「身体の調子は、どうや?」
「ちょっと動けるようになったみたいやな」
「おまえが俺は、かわいいし、好きやから言うねんけどな」
「病気になるまでのお前は、時々びっくりするほど、
 厳しすぎることを、後輩や、時には先輩に言うてきたやろ」
「お前の言うてることは、間違いでは無いんやけど、
 ちょっと厳しすぎると俺は思ってきたんや」
「どんな失敗、間違いした奴にも、逃げ道は作っておいてやらんとあかん」
「身体が不自由になって、ちょっと丸くなってきたなあと思って、
 よかったなあと俺は、思ってるんや」
「お前が病気になって、不自由になって、ざまみろと思ってる奴もいると思う」
「こんなん言うたらあかんのやろうけど、正直そう思うんや」
「指導的立場にいるお前も、俺のかわいい教え子やからなあ」
「冷静になって、ゆっくりな口調で、指示、指導していくようにせいよ」
「険しい言葉より、優しい言葉で教えることのほうが耳に入るからなあ」
「仲間は大切なものやからな」


62歳のおっさんでも、先輩は神様なので、
中学生や高校生に教えるような口調は、当たり前であり、
ありがたく、真摯に頂戴したお言葉だった。

それと同時に、
サッカーの仲間うちの話だけでなく、
娘のことが思い浮かんできた。

娘の病気がはっきりしたころ、
まだまだ、父親として自信満々だったころの俺に向かって、
「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
娘に言われたことを思い出した。

「ざまあみろ」そう思っている後輩もいると思うぞ。
まったく考えてもみないことだった。
でも、そうかもしれん。

「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
この娘の言葉に、ショックを受けたことを思い出した。

「ええ父親」
「ええ先輩」
子供のことを精一杯考えてきた。
後輩の為を思って、厳しいことも言ってきた。
そんな自信。

でも、これは、俺の「独りよがり」。

この「独りよがり」が、娘を神経症に導いてしまったのかも?
そんなことを、今更考えても仕方ない。
仕方ないのかも知れないけれど、
後悔してしまうし、仕方の無い今更の反省をしてしまう。

62歳、もう終いに近づいているのかもしれんけど、
開き直らずに、素直に反省していこう。
残された時間が少なかろうと、反省しながら歩んでいこう。

そんな有難い先輩のかけてくれた言葉だった。

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Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

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